神武天皇の即位
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「国体」の始まり
伝説の霊鳥「金鵄」
東京都府中市にある東京農工大学には、「八咫烏(ヤタガラス)のレリーフ」が掲げられています。
ヤタガラスは日本サッカー協会のシンボルマークですが、もともとは、神武天皇が大和平定に向かう途中、迷子になったときに現れ、一行を道案内してくれたという伝説の鳥です。
ヤタガラスは3本足で、それは「智・仁・勇」あるいは「天・地・人」を表すと言われています。
東京農工大の八咫烏
どうしてこの大学にレリーフがあるのかというと、昭和14年(1939年)5月22日、皇居二重橋前広場でおこなわれた御親閲(天皇が姿を見せること)にこの学校の生徒が参加しており、そのときもらった記念章を模したのです。
日本の神話で、もう一つ有名な鳥が、長髄彦と戦っているときに現れた「金色の鵄(とび)」です。なかなか勝敗が決しないとき、金鵄があらわれ、閃光を発したことで、長髄彦の軍は大混乱に陥るのです。
こうして、宮崎県の高千穂から始まった神武天皇の東征は終わり、ついに日本の平定に成功します。
高千穂峡
天下を平定した神武天皇は、辛酉元旦(現在の暦に直すと紀元前660年2月11日、これが
建国記念日
の起源)に、大和橿原の宮で即位します。これが天皇制の始まりです。
橿原神宮
資料によって内容がけっこう違うんですが、即位式の様子を書いておきます。
《天富命(あめのとみのみこと)が、清められた斧と鋤で木々を集め、正殿を造った。
道臣命(みちおみのみこと=大伴氏の先祖)は来目部(くめべ。久米とも書く)を率いて宮門の護衛に当たり、饒速日命(にぎはやひのみこと=物部氏の先祖)は物部を率いて矛・盾をつくったので、警備は万全である。
その後、天富命が斎部(いむべ)を率いて三種の神器を奉納、天種子命(あめのたねこのみこと)が寿詞(よごと)を奏上した。
すべての儀式が済むと、物部は矛と盾を立て、来目は仗を立てて、門を開き、参内させたすべての国の使者に天皇の姿を見せた》
神武天皇の即位式(『高等小学国史絵図上巻』1941)
(白い服が神武天皇、そばに座るのが天富命。中央緑色の天種子命が寿詞を奏上中)
即位して4年、神武天皇は靈畤(まつりのには=斎場)を鳥見山(現在の奈良県桜井市東部)に造営し、皇祖である高皇産霊神(たかみむすびのかみ=国の平定を開始した)を祀りました。
正面の榊には鏡がかけられ、その下の枝には青帛と白帛が打ち掛けられています。壇上には魚や鳥が供えられていて、道筋には荒筵が敷かれています。
鳥見山の斎場
この斎場が、皇大神宮つまり伊勢神宮の起源となるのです。
皇大神宮
神武天皇は在位76年、127歳(古事記では137歳)で没し、畝傍山東北陵に葬られることになります。
畝傍山東北陵
神武天皇が即位したのは、紀元前660年とされています。これを元年とする日本の紀年法が「皇紀」で、1940年が皇紀2600年となります。2020年は皇紀2680年。
このように、日本の皇室は神武天皇から始まったので、後に、明治天皇がこの場所に親謁したことは、聖徳記念絵画館の壁画にも描かれるほど重要なテーマとなっています。
畝傍陵親謁(うねびりょうしんえつ)
なお、神武天皇が日本を平定する過程で歌われた「出陣・戦勝の歌」が、現在も宮廷芸能として生き残っています。前述の来目部(久米部)が歌ったので、久米歌といわれています。一例をあげておきます。
《カムカゼ(神風)ノ、イセノウミ(伊勢海)ノ、オホイシ(大石)ニヤ、イハヒ(延)モトヘル(廻)、シタダミ(細螺)ノ、シタダミノ、アゴ(吾子)ヨ、アゴヨ、シタダミノ、イハヒモトヘリ、ウチテ(撃)シヤマム(止)、ウチテシヤマム》
「日本書紀上巻」(講談社学術文庫)の訳をあげておくと、「伊勢の海の大石に這いまわる細螺(キシャゴ)のように、わが軍勢よ、わが軍勢よ。細螺のように這いまわって、必ず敵を討ち負かしてしまおう」となります。
お気づきだと思いますが、戦時中の標語「神風」「撃ちてし止まむ」は、これが出典だったのです。
神武の東征ルート図
更新:2020年1月4日
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八紘一宇の誕生
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天皇即位はどのように宣言されるのか
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「国体」とは何か
神武天皇立像(竹内久一作、東京芸大美術館)