理研の誕生
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理研コンツェルンの誕生
ピストンリングの表面研磨作業(1937年頃)
2007年、部品メーカーのリケンが新潟県中越沖地震で被災したため、国内の全自動車メーカーが操業停止という前代未聞の事態に陥りました。
この会社が作っていたのはピストンリングという小さな鉄の輪っかでした。
これが戦前のピストンリング
ピストンリングとは、エンジンのピストンがシリンダのなかで動きやすくしつつ、かつ燃焼ガスが抜けないようにするもので、コンプレション(圧力)リングとオイルリングに分かれています。
2つの圧力リングでピストンとシリンダ間の気密性を保ちつつ、1つのオイルリングで潤滑油をコントロールすることで、エンジンの燃焼効率と安全性が飛躍的に高まるのです。
しかしながら、周囲に均等な圧力を持つリングを作るのは至難の業なのです。
このピストンリングの製造法「ピン止め加工法」を大正13年に発明したのは理化学研究所の海老原敬吉でした。今回は、この理化学研究所という「科学者の楽園」の物語です。
理化学研究所の構内(東京・駒込)
(敷地は三菱の岩崎家からの寄贈、設備は三菱造船からの寄贈。このほか三井や古河財閥も支援)
理化学研究所(以下「理研」)は大正2年(1913)に設立された物理と化学の研究所です。
設立の中心となったのは、日本初の人造肥料会社を設立し、消化剤タカジアスターゼを開発し、さらに世界で初めてホルモン(アドレナリン)を抽出した大化学者・高峰譲吉。
渋沢栄一らの協力のもと、国庫からの補助(165万円+毎年25万円)、皇室下賜金(年10万円を10年間)、寄付を資金にして設立された理研は、1921年、大河内正敏が3代目所長に就任することで大きな発展を遂げます。
大河内正敏
所長就任当時42歳だった大河内は、日本初の造兵学者といわれます。造兵学というのは兵器研究をする学問で、つまるところ、理研の任務も兵器製造だったといえます。しかし、兵器を作るには重化学工業を発展させなければならず、そのため、大河内は自由に研究できる研究機関を育てる決意をするのです。
スーパー研究者集団だった理研は主任研究員制を採用しており、完全に自由裁量で研究が進められました。主任研究員はいくら研究者を採用しても自由。25年間の長期にわたって所長を務めた大河内は、研究費を削ったことは一度もないという伝説を残しています。
研究にカネを惜しまないということは、当たり前ですが、常に資金難で悩むことになります。そこで、自分たちの発明を自分たちで事業化するというポリシーのもと、次々に会社を立ち上げていきます。
その最初のものが、大正11年(1922)に設立した「東洋瓦斯試験所」。ここの主力製品は、吸湿材「アドソール」というもので、冷暖房に非常に大きな効果を発揮しました。
ちなみに震災後に再建された帝国劇場のクーラーもアドソールを使っています。
さて、以下、理研が開発・事業化していったものを個条書きで書いていくと……
●ビタミンA
1922年、鈴木梅太郎研究室の高橋克己が長岡半太郎や寺田寅彦の助力を得て、世界で初めてビタミンAの抽出に成功。「理研ビタミン」として販売し、大きな収益を上げました。
●人口合成酒
1918年の米騒動を受け研究開始。米を使わない合成酒として、1929年から「利久」ブランドで売り出す。
●感光紙
1927年、桜井季雄が陽画感光紙を発明。従来の青写真の6倍の感度で、軍需用品として大々的に販売。
●アルマイト
1929年、鯨井恒太郎、瀬藤象二、宮田聰らのグループが開発。丈夫で錆びず、弁当箱に使われました。
●コランダム
コランダムとはダイアモンドに次ぐ硬度を持つ鋼玉による研磨材料。1924年、製造特許取得。
●スキー用メガネ
スキーのときに使うゴーグルのこと。紫外線を完全に吸収する有機化合物「ウルトラジン」を主軸に製造。
ウルトラジンを利用したスキーゴーグル
こうした各種の発明や研究を製品化するため多くの企業が創設されましたが、昭和2年(1927)、理研は理化学興業を創設、ここを中心に産業集団を作り始めます。この理研産業団(理研コンツェルン)は、最盛期には会社数63、工場数121という大企業グループとなったのでした(戦前15財閥のうちの1つです)。
ちなみに冒頭で触れたピストンリングのリケンは、昭和9年(1934)に理化学興業から理研ピストンリングとして分離独立した会社です。朝日新聞の
「神風号」
(東京〜ロンドン間を94時間17分56秒で飛行し、日本初の国際記録を樹立)でも使われたことで名をあげました。
ピストンリングの間隙加工作業(左)と寄宿生活。ちなみに始業時には国歌を斉唱していました
戦後の1952年、理研はGHQにより解体させられます。解体時に持っていた特許は897件、実用新案217件、外国特許は154件に上りました。
このときの危機を救ったのが田中角栄です。戦前、弱小だった角栄の建築会社に、大河内が見かねて理研の工場を建てさせてあげました。角栄はそのときの恩を忘れず、理研が危機に瀕すると特殊法人化して、政府の予算を注ぎ込んだのです。
1958年、特殊法人「理化学研究所」として再出発した理研ですが、その遺産は、非常に大きいものがあるのです。
ピストンリングの
「リケン」
はもちろんですが、わかめスープで有名な
「理研ビタミン」
も理研が作った会社。
「理研コランダム」
もそう。紫外線吸収材ウルトラジンの会社は
「理研オプテック」
となっています。
人造酒
の会社は
「協和発酵」
になりました。ペニシリンの会社は
「科研製薬」
として、いずれも現存。
そして、理研の遺産はまだまだあるのですよ。
理研感光紙は、現在の
「リコー」
になりました。
ちなみにコンドームで有名な
「オカモト」
も旧社名は「岡本理研」というゴムメーカーでした。
理研では、鈴木梅太郎(ビタミンB1の発見)、寺田寅彦、長岡半太郎(原子モデルの提唱)、本多光太郎(磁性鉄鋼の開発)、湯川秀樹(中間子論でノーベル賞)、朝永振一郎(くりこみ理論でノーベル賞)など、非常に多くの科学者が活躍しました。前述のように決して研究費が削られなかった理研は「科学者たちの自由な楽園」(朝永振一郎の言葉)と言われました。
湯川秀樹も回顧録で
《理研のような純然たる私立の、しかも基礎研究を主眼とする研究所が成立し、日本の科学界に重要な地位を占め得たことは、それ自身異例》
と強く評価しています。
現在、理化学研究所は独立行政法人となっていて、文科省の管轄下です。人間のDNA解読(ヒトゲノム計画)で大活躍したことは記憶に新しいですね。スーパーコンピュータ「京」も、世界最高レベルの大型放射光装置「SPring-8」「SACLA(さくら)」も理研のもので、俺的には大いに頑張って欲しいと期待しているのです。
制作:2007年8月1日
<おまけ>
実は理研の業績で忘れてならないは、1941年に始まった原爆の研究です。
1937年に仁科芳雄研究室が日本初(世界でもアメリカの次)のサイクロトロン(加速器)を完成させ、さらに1943年に大型サイクロトロンを完成させています。これが日本の原子力研究の始まりでした。そして1941年4月、陸軍航空技術研究所長の安田武雄中将が、理研に原爆研究を依頼。仁科の頭文字をとって「ニ号研究」が極秘でスタートしました。
陸軍が理研に提供した予算は約200万円。ウランの探索費まで含めても最高2000万円程度。これはアメリカのマンハッタン計画の数百分の1から1000分の1程度の金額だったといいます。
戦後、GHQによって、世界最大級の理研のサイクロトロンは海中に投棄されてしまい、残念ながら、日本の原子力研究は大幅に停滞してしまうのでした。
<おまけのおまけ>
現在、日本には岡山・鳥取県境の人形峠でウランが採掘できます。鉱床は1955年に発見されたんですが、戦前に見つかっていればかなり原子力研究に有利だったでしょうね。
1945年5月19日、日本に向かっていたドイツのUボートが米軍に投降しました。艦内には世界初のジェット戦闘機の設計図のほか、酸化ウラン約560キロが積まれていました。このウランが広島、長崎に投下された原爆の原料になったという証言もあるそうで、なんだかなぁ、と思うのでした(読売新聞1998年8月21日による)。
ウラン鉱床がある人形峠