コピー(複写機)の歴史
キヤノン、リコー、富士ゼロックスの誕生

理研・陽画感光紙
日本が生んだコピーの元祖
(理研の陽画感光紙。左が紫色、右が青色)


 文政11年(1828年)、オランダ商館の医師だったシーボルトが、日本地図など禁制品を国外に持ち出そうとするスパイ事件を起こしました。いわゆるシーボルト事件です。

 シーボルトは1匹の猿を飼っており、その飼育箱の底を二重にして地図や書籍を隠していました。長崎奉行の家宅捜索が入るのを察知したシーボルトは、模写の終わっていなかった地図をあわてて複写します。
 10日後に捜索が入ったときには、すでに大部分の地図がオランダやジャワに移送されていました。

 ちょうど同じ頃、フランスでは、ダゲールが写真の原型であるダゲレオタイプの開発を始めています。写真があれば、シーボルトもスパイ行為が楽にできたのにね。

 文書や画像をどうすれば簡単に複写できるのか。
 1806年には、イギリスのラルフ・ウェッジウッドがカーボン紙を発明しています。
カーボン紙
カーボン紙(1907年『新式商工執務法』、国会図書館のサイトより)


 機械的なコピー機は、蒸気機関を発明したジェームズ・ワットが1780年に開発したコピープレスが元祖です。しかし、商品化にはほど遠く、その後の改良で、19世紀中ごろには一応、実用的になりました。
 これは、コピーインクという特殊なインクと、コピーペーパーという半透明の薄い紙を使用します。コピーインクで書いた書類の上に、湿らせたコピーペーパーを載せ、強い圧力をかけると、下の文章が上の紙に染み出てくる仕組みです。外国商館などでインボイス(送り状)を複写するのに便利でした。同時期に開発されたタイプライターとともに、長らくビジネスの現場で使われることになります。

コピープレス
回転させて圧力を加えるコピープレス
(『新式商工執務法』より)


 続いて、エジソンが「孔版」(謄写版)と呼ばれる印刷技術を発明します。版をガリガリ削って、その孔を通過したインクを紙に転写する方式で、要はガリ版刷りのこと。日本の堀井新治郎が商品化し、タイプライターのない日本で重宝されました。かつて日本では、年賀状といえば「プリントゴッコ」を使いましたが、これも同じ原理です。

 エジソンは、謄写版を利用して、なんとか自動的に複写したいと考え、1876年に「電動ペン(電気ペン)」という珍発明で特許を取得します。
 このペンは、紙に書かれた文章どおりに針が動き、ステンシル(型紙)を作成。このステンシルの小さな孔からインクが染み出し、下に敷いた紙に文章が複写される仕組みです。エジソンは、この針は紙の上を毎秒50回(1分で3000回)も上下して超高速でコピーできる、と自慢しています。

 この電気ペンは、それなりには売れたようですが、コピー文化を広めるほどではありませんでした。
 やはり、複写は写真で行うのが現実的だったからです。

エジソン電気ペンの特許
エジソン電気ペンの特許


 ダゲールのダゲレオタイプの問題点は、複写ができないことでした。そこで、1835年にタルボットが発明したカロタイプに注目が集まりました。これはネガを印画紙と重ね合わせて感光させる方法で、ネガがあるので、複写が可能なのです。

 とはいえ、当時のプリントは「銀塩写真」と呼ばれるように銀を使うため、コストがかかりました。なんとか銀を使わずに画像を定着させたい——こうして発明されたのがジョン・ハーシェルによる「青写真」で、1842年のことです。

 青写真は英語でサイアノタイプといいますが、原理は単なる「日光写真」のことです。銀塩ではなく、鉄塩の化学反応を利用しています。光の明暗が青色の濃淡として写るため、青写真と呼ばれるのです。

 写真をプリントとして残すには、以下の3つの手順を踏む必要があります。
 ①「露光(焼付け)」で見えない像(潜像)を記録し、
 ②「現像」で見えない画像を目に見える画像に変え、
 ③「定着」で、それ以上の感光を防ぐ

 青写真は、原稿と感光紙を重ねて露光すると、黒い文字や線は光を通さないので白く残り、それ以外の部分は光を通すので青く発色します。大型化が可能で、機械や建築の図面に使われたため、設計図のことを「青写真」と呼ぶようになりました。

青写真
青写真


 しかし、青写真を見ればわかるとおり、青い紙に白い線で図面が描かれているため、図面に文字を書いたり訂正することができず、大変不便でした。とはいえ、銀塩写真を使うにはコストがかかりすぎるので、当時の人は青写真で我慢するしかありませんでした。

 この青写真に画期的な改革をもたらしたのが、日本の理化学研究所(理研)です。1927年、「陽画感光紙」を発明し、白地に青または紫の文字によるプリントが実現したのです。

理研陽画感光紙
理研の陽画感光紙

 
 当時の資料によれば、オイルペーパーに原図を描き、夏の日の快晴の正午で30秒、冬で1分露光すると、適正な焼き付けができました。日光写真なので、焼き付けが甘くてもやりすぎても、うまく複写ができません。
 できあがった感光紙を、アンモニアガスに数分間(あるいは薬剤入りの水で1分)浸すと、現像が完了です。

焼き付け機械焼付け機械
左が日光焼付機、右が電気焼付機


 この感光紙は、世界中で爆発的に売れました。これを販売する会社が「理研光学工業」で、この「理」と「光」を合わせ、1963年に「リコー」となりました。

 青写真は、電気焼き付けもありましたが、基本的には日光が必要でした。ということは曇りの日は複写できないわけで、これは困りものです。とはいえ電気を使うと電気代がかかるし、均一に露光することも難しく、一長一短でした。

現像機
現像機

現像液
現像液


 1920年、ドイツでジアゾ式複写機が発明されます。ジアゾとは窒素の化合物で、紫外線照射により感光させます。これがいわゆる「青焼き」で、青写真より青が薄く、耐久性も高く、手間がかからず大判の複写ができるため、やはり図面に多用されました。
 
 1951年、このジアゾ式で世界初の事務用複写機を作ったのが、日本の丸星機化工業(コピア)という会社です。後にキヤノンが資本参加し、キヤノンファインテックという会社になりました。キヤノンの複写機やインクジェットプリンタ技術の大元は、このコピアです。


 謄写版にしろ、青写真・青焼きにしろ、現像するとき、必ず水分が必要なため、湿式と呼ばれます。しかし、これではどうしても大がかりな機械が必要になってしまいます。青焼きは熱で現像できるタイプもあり、これを乾式と呼びます。コピーの普及のためには、なんとしても高性能の乾式の開発が必要でした。

 ここで登場するのが、アメリカのチェスター・カールソンです。1938年、硫黄を塗布した亜鉛板に静電気をため、複写に成功します。これを「ゼログラフィ」、日本語で「電子写真」と呼びます。光を使わず、電気だけで画像を記録する革命的な技術でした。
電子写真
1942年に認可された電子写真の特許


 この技術と、光が当たると電気抵抗が変わる「光導伝体」の技術を組み合わせたところ、うまく複写に成功。これが現在のコピー機の原理です。
 開発したのはアメリカのハロイド社で、1955年、世界初の複写機を開発します。現在のゼロックスですね。

 1955年、この複写機「スタンダード・ゼロックス」(Xerox1385)が日本に初輸入されます。この年、理研光学工業(リコー)は、ジアゾ式国産複写機第1号「リコピー101」を発売しました。
 余談ながら、この年には、ソニーが日本初の「トランジスタラジオ」を発売しています。

 ゼロックスは、1959年、世界初の普通紙複写機を発売し、世界を驚かせました。ゼロックスの複写機は、原稿に光を当て、その画像を感光体ドラムに映し、トナーで紙に転写しています。これがPPC(普通紙複写機)で、今オフィスにあるコピー機のことです。

 日本では、1962年にイギリスのランク・ゼロックスと富士写真フイルムが合弁で富士ゼロックスを設立し、このコピー機を販売しました。

 アメリカの特許期間は17年なので、1970年頃、コピーの基本特許が切れました。すると、リコーやキヤノンなど多くのメーカーがPPCコピー機に参入し、世界中で競争が始まりました。
 同時に、この技術はファックスの静電記録方式となって拡大していくのです。


制作:2014年3月30日


<おまけ>
 当初、「陽画感光紙」は、理研の技術の商品化を担う理化学興業という会社で販売していました。しかし、販売は振るわず、専従の会社「理研感光紙」を設立します。この会社を大きくしたのが市村清で、カメラ事業を始めることで感光紙の売り上げを大きく伸ばしました。市村は理研光学工業と改名し、さらに測量器や時計などに事業内容を広げます。
 市村の信念は「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」という三愛精神でした。戦後、市村は銀座4丁目に機器販売の「三愛」ビルを建造、三愛石油を設立して羽田空港の給油権を取得するなど大幅に業務を拡大しました。
 さらに中国地方・九州地方でコーラを販売するコカ・コーラウエストなども傘下に収め、リコー三愛グループを築きあげたのです。

三愛ビル
銀座の三愛ビル(1955年)

<おまけ2>
 太宰治の『人間失格』には、こんな文章があります。
《自分はその頃から、春画のコピイをして密売しました》
 やっぱり、なんとかエロを複写したいという願望こそが、コピー機を発展させたのかもしれませんね(笑)。
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