日本初の「軍神」誕生
死んだはずの「伝説の英雄」は生きていた?

旅順港占領に成功
旅順港占領に成功


 1946年12月1日、朝日新聞に衝撃の記事が載りました。当時の日本人なら誰もが知る、日露戦争の「伝説の英雄」が、今も健在だというのです。

 記者に語ったのは、中国の錦西収容所から引き上げてきた神川房治氏で、記事では次のように語られています。

「私は終戦とともにソ連軍に抑留され、その後、中共八路軍に渡されて百姓などをしていた。さる9月2日、錦西の収容所に入ったが、日本人は2万人くらいいた。帰還の決まったある日、私達の大隊長と中隊長だった人物がみんなを集めて『実に意外な人に会った。驚くべき話で夢のようだが……』と語りだした」

 この「夢のような話」の主人公が、杉野兵曹長です。この人はいったいどんな「伝説の英雄」だったのか――。今回は、歴史に消えた壮大な物語を紹介します。

靖国神社の大燈籠のレリーフ
靖国神社の大燈籠のレリーフ


 靖国神社の大燈籠は、1935年、富国徴兵保険相互会社(現・フコク生命)から奉納されたものですが、この基壇部分に、日清戦争から満洲事変までの有名な戦闘シーンのレリーフがはめ込まれています。

 そのうちの一つ、こちらは日露戦争の「旅順口閉塞作戦」を描いたものです。

 日露戦争勃発で、陸の主戦場が満州になることを考えれば、日本にとって「制海権」の確保がきわめて重要となりました。とくに問題となったのが、清から租借している旅順港を後方支援基地とするロシア海軍でした。この艦隊を抑えないことには、勝利はほど遠い状況です。
 
 そこで、1904年2〜5月、日本海軍は旅順港の入口を閉塞することで、ロシア艦隊の出港を阻止する作戦に出ます。旅順港は入り江になっており、港の入口の幅はおよそ276メートル。そして、大きな軍艦が航行できるのは中央の91メートルだけです。この航路上に古い船舶5〜6隻を自沈させることで、バルチック艦隊の動きを封じることができるのではないか――これが閉塞作戦で、立案したのは、連合艦隊参謀の有馬良橘です。

日露戦争・旅順港の地図
旅順港の地図


 しかし、この作戦はきわめて危険でした。敵の探海灯(サーチライト)で照らされるなか、荒れ狂う砲撃を受けながら乗っている船を爆破し、ボートに乗り移って帰還するわけで、結果的に犠牲者が続出することになります。

 作戦は、志願者から参加者を選び、合計3回おこなわれました。1回目は2月24日、5隻で旅順口へ向かうも、一斉砲火を浴びて失敗。このとき死者は出ませんでした。

 2回目は3月27日に4隻で実行されました。この2回とも参加し、指揮を執ったのが広瀬武夫中佐です。総指揮官・有馬中佐は「千代丸」で閉塞隊の先頭を行き、広瀬中佐は2番船の「福井丸」に乗りこみました。広瀬の補佐についたのが、上等兵曹の杉野孫七です。

 午前2時、一行が出発し、港口まで3700メートルのところで、千代丸が発見され、猛攻撃を受け爆沈。ここで福井丸は、千代丸の左側に進んで機関を停止します。千代丸と並んで自沈させれば、閉塞効果が上がるという判断です。まもなく敵の魚雷が左舷に命中し、福井丸はゆっくり沈み始めます。

軍艦朝日のカッターボート(広瀬神社)
軍艦朝日のカッターボート(広瀬神社)


 カッターボートが降ろされ、乗員が乗り移りますが、杉野の姿が見えません。全員で杉野を探しますが、どこにもいません。杉野は、敵の魚雷が当たったとき、船外に飛ばされたのではないかと思われました。それでも広瀬はあきらめず、船底も含め、3度にわたって探しに行きます。

 結局、杉野は見つからず、広瀬は「無念だ」と言いつつ、ボートに乗りこんで、爆破スイッチを押しました。その後、逃げ遅れたボートは集中砲火を浴び、広瀬は直撃弾を浴びました。広瀬は、あっけなく肉片となり、血まみれの海図だけが残されました。

日露戦争・広瀬中佐の死
広瀬中佐の死


 杉野は出撃の1週間前、妻の柳子(りゅうこ)に宛ててこんな手紙を書いています。

《もしもわたしが死骸で帰ったら国もとに葬ってくれ。子供が世に出るまで田舎で教育せよ。そのうち一人は広瀬少佐へ高等小学校卒業後に預けて、海軍軍人に仕立ててもらうのだよ。今度はちょっとしたあぶない仕事をやるから、ちょっと申し遺しておくよ。しかし心配するには及ばない。何事も運だ》

 2人の強い信頼関係が伺えます。

旅順港閉塞隊(奥瀬英三画、旧海軍館所蔵)
旅順港閉塞隊(奥瀬英三画、旧海軍館所蔵)


 旅順口閉塞作戦は第2回も第3回(5月2日)も、事実上、失敗します。しかし、広瀬は少佐から中佐に昇進、さらに、広瀬が命がけで探した杉野も、行方不明のまま、上等兵曹から兵曹長に昇進。部下を救おうとして壮絶な最期を遂げた広瀬は、その後、日本初の「軍神」として日本中に伝えられることになります。

 このエピソードは、文部省唱歌『廣瀬中佐』となり、日本中で歌われました。歌詞は、以下のとおりです。
  
(1番)轟く砲音(つつおと)飛来(とびく)る弾丸/荒波洗ふデッキの上に/闇を貫く中佐の叫(さけび)/杉野は何処(いずこ)杉野は居ずや
(2番)船内隈なく尋(たず)ぬる三度(みたび)/呼べど答へず捜せど見えず/船は次第に波間に沈み/敵弾いよいよあたりに繁(しげ)し
(3番)今はとボートにうつれる中佐/飛来る弾丸(たま)に忽(たちま)ち失せて/旅順港外 恨(うらみ)ぞ深き/軍神広瀬と其(その)名残れど


日露戦争・旅順港閉塞作戦の写真
旅順港閉塞作戦、実際の写真


 なお、この「軍神」という言葉は、広瀬の海軍兵学校の同期・永田泰次郎が大本営にあてた電報の中にあった「人呼んで軍神と唱ふ。是(これ)敢へて過言にあらざるべきこと…」という文章が始まりだとされます。この言葉が3月30日の新聞各紙で報じられ、「軍神広瀬」は一気に広がりました。

 広瀬が死んでわずか1カ月後には『日露戦争実記』(博文館刊)の臨時増刊「軍神広瀬中佐」が発行され、芝居や映画にもなりました。そして、1910年には、当時の東京の大繁華街・万世橋駅前に広瀬と杉野の銅像が立てられました。「修身」の教科書でも大々的に取り上げられ、日本人なら誰でも知る “物語” となりました。

万世橋駅前にできた高さ11メートルの銅像
万世橋駅前にできた高さ11メートルの銅像


 1935年には、広瀬の霊をまつるための広瀬神社が出身地・大分県竹田市にできました。ここには、日露戦争で広瀬が乗り組んだ戦艦朝日のカッターが残されています。1937年に、海軍が寄贈したものです。また、1936年には、杉野兵曹長の銅像も地元に作られました。しかし、太平洋戦争中に供出し、現在は記念碑が立つのみです。

広瀬神社の戦没者名碑の台座
「福井丸」の重しを使用した広瀬神社の戦没者名碑の台座


 こうしたなかで、冒頭で触れた1946年12月1日の朝日新聞の記事が出たのです。このときの衝撃は、現代人にとっては理解できませんが、敗戦下の日本人にとってはあまりに大きなものだったはずです。

 記事では、以下のように書かれています。

《杉野兵曹長(当時一等兵曹)は、旅順港に向かう途中、砲弾のために閉塞船福井丸のデッキからはねとばされて漂流しているうちに、翌日中国人の小舟に救われたが、健康が回復したころには戦争が終わっていた。帰りたくても内地では、あまりにも英雄扱いしているので帰ることもならず、中国人になりきって生活していた。

 時代が変わった今なら帰られると思って出て来たと、寂しく語りながら収容所内の日本人の世話をやっていた。本人の話では76才で頭もはげ、顔も温和で田舎のおじいさんを思わせた》

杉野兵曹長の記事
朝日新聞の実際の紙面


 朝日新聞の記者は、杉野兵曹長の実家を訪れ、遺族に話を聞いています。息子の修一氏は、

《信じられませんね、父が福井丸で死んだのは明治37年3月27日で、慶応2年12月19日生まれの当時39歳でしたから、もし生きていたら81歳になり、76歳という年にも差があり、もし本当とすれば近ごろはやりの “生きていた英霊” ということになりますが、それにしてはあまり古すぎますよ》

 この記事で騒ぎは広まり、その後も、事態は収まりません。1947年11月10日付の地方紙では、共同通信の配信でこんな記事も掲載されました。

《杉野兵曹長が確実に生存 ソ連日本語紙に会見記

 シベリア、イマン地区から帰還した元陸軍薬剤大尉 深川清氏(岐阜県岡町出身)は、旅順港開塞隊 杉野兵曹長の生存について、このほど岐阜で次のとおり語った。

数千の樺太庁警察官と憲兵は、ゲ・ぺ・ウの厳重な監視の下で作業をしている。杉野兵曹長が生存しているといううわさは度々聞かされていたが、その後ハバロフスク市で発行の日本新聞に、確実に生存している写真を掲げて日本人記者との会見記事まで載せていた。
 会見記によると「旅順港口で人事不省におちいっていたが、ロシア人に救けられて近くの島で暮らしていた。戦後一たん帰国を決意したが、内地で自分が軍神にされていることを伝え聞き帰還を断念した。年はとったがまだ元気で、日本の移り変りに驚いている」》

 では、はたして、杉野兵曹長は生きていたのか。

 これについては、ジャーナリストの林えいだい氏が『杉野はいずこ』という本で詳細に検証しています。林氏は、杉野に会ったという人々を直接取材し、住んでいたとされる葫蘆島に渡って現地調査もしましたが、結論から言えば確認はできませんでした。しかし、何人もの「実際に会った」との証言が載せられており、本当に生きていたのかも、と思わせる内容です。

 英雄の後日談おそるべし、です。

日露戦争・旅順港閉塞作戦後の兵士たち
作戦後の兵士たち。右下の兵士が持つ木箱が広瀬の肉片と杉野の遺髪
(『軍神広瀬中佐』より)


 さて、広瀬中佐を失った第2次作戦の後、連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、日記にこう書いています。

《閉塞隊は四隻皆港口に侵入。自ら爆発せり。戦死者広瀬少佐、杉野上等兵曹、小池兵曹外九名》

 実は、この悲劇を生んだのは東郷の判断ミスだったという説があります。

 旅順港に主力を置くロシア艦隊が大きな敵となることは、開戦当初からわかっていました。そのため、参謀の有馬良橘は、旅順の防備が整う前に閉塞作戦を実施すべきだと、かなり早い段階で進言していました。しかし、東郷はなかなか許可せず、結果的に防備がかたまってから作戦が始まりました。このときの判断遅れが、大きな被害を生んだ可能性が高いのです。

 本来だったら極秘にされる広瀬の戦死の模様が大々的にニュースになったのは、「旅順口閉塞」という無謀な作戦の大失敗を、軍神神話を作ることで糊塗したのではないかとも考えられます。

広瀬中佐とともに旅順に沈んだ福井丸
広瀬中佐とともに旅順に沈んだ福井丸


 日露戦争では、もう一人「軍神」がいます。橘周太陸軍少佐(死後に中佐に昇進)で、広瀬と同じ年1904年の8月31日、遼陽・首山堡(しゅざんぽ)の戦いで戦死しました。重傷を負いながら突撃したということで、「陸の軍神」とされています。これも、作戦失敗をごまかすものだった可能性はあります。

 こうして、戦況の悪化とともに、広瀬の後に何人もの「軍神」が続くことになるのでした。

広瀬・杉野像
広瀬・杉野像


制作:2024年8月12日


<おまけ>

 万世橋駅前に設置された広瀬・杉野像は、除幕直後はお祭り騒ぎとなったことが記録されています。その後は、修学旅行生の定番ルートとなりました。

 しかし、10年もたつころには、交通の邪魔だとして銅像の移転が取り沙汰されます。特に関東大震災で万世橋駅が焼失すると、長らく邪魔使いされました。しかし、昭和に入って戦時下になると、広瀬は復権。海軍記念日には、銅像前で式典が挙行されるようになり、金属供出も免れました。

 戦後になると、多くの銅像が撤去されることになります。広瀬の銅像も、東京府の「忠霊塔・忠魂碑等撤去審査委員会」が撤去を決め、1947年、工事がおこなわれました。作業中、銅像をつり上げたワイヤが切れ、広瀬はうつぶせのまま転がり落ちたと記録されています。銅像は、そのまま売却され、溶かされました。軍神伝説の、悲しい最期です。

広瀬・杉野銅像の模型(旧・交通博物館)
銅像の模型(旧・交通博物館)
 
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