杉野兵曹長は生きている
近く帰国するという夢のような話
以下は、朝日新聞 昭和21年12月2日の「杉野兵曹長は生きている 近く帰国するという夢のような話」の記事全文を文字起こししたものです。
【武生発】
かつての軍神廣瀬中佐の名とともに、国民学校の教科書に歌に “杉野はいずこ” ……と、全国民に知られた杉野兵曹長が生きている。信じられない話だが、葫蘆島近くの錦西収容所から引き揚げて来た人たちによって伝えられている。
しかも本人は内地に帰ってくるという。日露戦争当時、旅順港に廣瀬中佐の福井丸と運命をともにしてからすでに四十有余年、もし生きているとすれば、70を過ぎた老人だが、これを語った人は、さる10月21日佐世保に上陸、引き揚げて来た福井県武生町の元羅南師団軍属神川房治君(32)で、神川君の小隊長であった現在同県鯖江町惜陰国民学校長 森川章氏(40)もその話のあった事実を肯定している。
神川君の語る杉野兵曹長の消息は次の通りである。
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私は終戦とともにソ連軍に抑留され、その後中共八路軍に渡されて百姓などをしていた。さる9月2日、錦西の収容所に入ったが、日本人は2万人くらいいた。帰還の決まったある日、私達の大隊長であった東京都某師範学校教官 佐久間節曲氏と、中隊長の杉山利春氏(現在高松市木太町在住)が皆を集めて「実に意外な人に会った。驚くべき話で夢のようだが……」と杉野兵曹長の話を伝えた。
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杉野兵曹長(当時一等兵曹)は、旅順港に向かう途中、砲弾のために閉塞船福井丸のデッキからはねとばされて漂流しているうちに、翌日中国人の小舟に救われたが、健康が回復したころには戦争が終わっていた。帰りたくても内地では、あまりにも英雄扱いしているので帰ることもならず、中国人になりきって生活していた。
時代が変わった今なら帰られると思って出て来たと、寂しく語りながら収容所内の日本人の世話をやっていた。本人の話では76才で頭もはげ、顔も温和で田舎のおじいさんを思わせたと、私たちはそんな馬鹿なことがあるかと信じなかったが、今お会いして来たという隊長の話ですから夢のように思います。なお、神川君の話によると、直接杉野兵曹長に会った杉山氏の話では、すぐ後の船で内地に帰るといっていたとの事で、今ごろどこかに上陸した杉野兵曹長は、祖国の変転限りない40年の歴史に、眼を見はっているかも知れない。
“信じられません” 驚く杉野兵曹長の実家
【津発】
生きていた杉野兵曹長の実家、三重県河芸郡栄村の磯山に、その長男の元海軍大佐 杉野修一氏宅を訪ねると、「そんなばかげたことがあるでしょうか」とまず富美夫人が、てんで頭から受け付けない。
終戦後わびしい余生を土に生きている修一氏(50)も仏壇の上に掲げた護国院釈忠誠勇義居士の法名を見上げながら、信じられませんね、父が福井丸で死んだのは明治37年3月27日で、慶応2年12月19日生まれの当時39歳でしたから、もし生きていたら81歳になり、76歳という年にも差があり、もし本当とすれば近ごろはやりの “生きていた英霊” ということになりますが、それにしてはあまり古すぎますよ。
なにしろわしの8ッの時に死別れたのですから、正直のところ顔もおぼえていません。すぐ引き取るかって? だれしも、子として親の存命を願わないものはありませんがねえ……どうも実感が出ません。と語尾をにごした。
(朝日新聞 昭和21年12月2日)