常願寺川の土砂崩れを止めろ
「砂防」が生んだ富山県

消滅した「立山温泉」跡地
消滅した「立山温泉」跡地



 日本には、山岳信仰の対象となってきた山が多数ありますが、なかでも日本三霊山と呼ばれるのが、富士山、白山、立山です。

 富山県の立山には「山上他界」という信仰があり、浄土と地獄に比定された山の各所をめぐることで、生と死を行き来できると考えられました。その中心が立山の主峰・雄山山頂にある雄山神社「峰本社」です。富山市から来た場合、登山者は常願寺川ぞいに岩峅寺(いわくらじ)、芦峅寺(あしくらじ)を経由して山頂を目指します。

 岩峅寺には雄山神社の「前立社壇」、芦峅寺には「中宮祈願殿」があるため、岩峅寺や芦峅寺には昔から山岳ガイドが集まり、登山の拠点となってきました。幕末の最盛期には、山開きのわずか2カ月の間に全国から6000人以上が参拝したと伝えられます。

 NHK『ブラタモリ』でも登場しましたが、岩峅寺の近辺は、ここを扇の中心として下流に広大な扇状地が広がります。富山市はこの平坦な土地にできた町です。逆に言えば、この岩峅寺を入口に、徐々に山が深くなっていくのです。

グーグルアースで富山を見ると扇状地がはっきり
グーグルアースで見ると扇状地がはっきり



 登山者たちを喜ばせたのは、立山の直下にある「立山温泉」です。ここは昔から登山の起点となっており、新田次郎の小説『劔岳〈点の記〉』では、剱岳登頂を目指す陸軍測量チームの前線基地として登場しています。立山温泉は、山奥にもかかわらず、夏の間はいつも多くの客で賑わいました。

 1858年(安政5年)4月9日、跡津川断層がずれ、この地を大規模な地震が襲いました。マグニチュード7.0以上で、推定震度も7。この「飛越地震」の影響で山が大規模に崩れ、立山温泉にいた36人が生き埋めとなりました。

跡津川断層
跡津川断層



 イギリスの外交官であるアーネスト・サトウは、日本中を旅したことで知られますが、1878年(明治11年)、この立山温泉にも立ち寄っています。

《温泉水は味はないが摂氏51度もあり冷泉水とともに飲料水として使われている。
 温泉は共同風呂なので外国人には不向きである。付近一帯の土壌は不毛で、食料などの生活必需品はすべて下流の原から運ばれている。
 1858年の大地震の爪痕が至るところに残されていて、大きな岩石が転がり、砂や小石も散在し大自然の猛威を物語っている。その時、温泉の南側にある鳶岳の絶壁は、その大半がこちらの谷に向かって一直線に落込み、崩壊した土石流は谷を埋め尽くし、水流を止めてしまった。その1か月後、融雪水によってこの土石堰が崩れ、下流の山麓の村々など実に常願寺川渓谷に至るまで泥流が押し寄せ、家や畑や人々が大打撃を受けたのである》(アーネスト・サトウ『明治日本旅行案内』)

立山温泉(1930年頃)
立山温泉(1930年頃)



 このとき崩れたのは、いわゆる「立山カルデラ」と呼ばれるものです。カルデラはポルトガル語で「大鍋」の意味。東西6.5km、南北4.5km、最大標高差1700mの巨大なくぼ地で、火山活動と浸食でできたとされます。地質はきわめてもろく、昔から土砂崩れで有名でした。16世紀には佐々成政が「佐々堤」など治水に尽力しますが、そうしたレベルをはるかに超える大崩落でした。

 大地震により、立山カルデラ内の大鳶(おおとんび)山、小鳶(ことんび)山が崩壊し、4億立方メートルもの土砂が流れ出しました。土砂は、近くを流れる湯川と真川を堰き止め、川底は100メートル上がったと伝えられます。

 問題はそれで終わりません。その後、川は2度にわたって決壊、土石流となって富山平野を襲ったのです。石は火花を飛ばしながら川を転がってきました。被害は富山城のそばまで及び、富山だけで1600戸を押し流し150人ほどの命を奪いました。富山平野には、このときの土石流の痕跡が今も残っています。たとえば、「西大森の大転石」は高さ7.2m、周囲32.4mもの巨石です。これだけの巨大な石が吹っ飛んでくることを思えば、水害の怖さがわかります。

立山大鳶山抜絵図
「立山大鳶山抜絵図」



 このときの大崩落を、富士山の「大沢崩れ」、長野県の「稗田山崩れ」と並び、日本3大崩れと呼んでいます。しかし、まだカルデラ内には2億立方メートルの土砂が残っています。「鳶泥」と呼ばれるこの土砂は、豪雨のたびに崩れては下流を襲い、何度となく洪水を引き起こしました。仮に一度に流れ出れば、川ぞいの平野を2メートルの高さで埋めてしまうと言われる量です。富山県は、この土砂をせき止めることが、県の存立を左右するような至上命題となったのです。

大鳶崩れ、小鳶崩れ
大鳶崩れ、小鳶崩れ



 1871年(明治4年)7月、廃藩置県がおこなわれ、富山藩は富山県となりました。しかし、同年11月に富山県は廃止され、新川県と改称。さらに、1876年4月、新川県は石川県に編入されることになり、県の中心は金沢に移りました。

 現在の石川県には、大きな川が手取川と梯川の2つしかありません。一方、富山県には常願寺川、黒部川など急流河川が7つもあります。手取川も、前田利家のころから霞堤などが築かれるなど治水が進み、そこまでの暴れ川ではなくなっています。そのため、石川県では予算の大半を建造物や道路整備に使うつもりでした。しかし、これでは富山は安全が確保されません。

 そこで、石埼謙、米沢紋三郎ら越中出身の有志が分県運動を起こし、何度も請願がおこなわれました。こうして、1883年(明治16年)、石川県から分離し、富山県が誕生します。富山は予算の多くを治水や砂防に使い、1892年には県予算の82%が充てられました。

「越中大川多し」と書かれた石埼謙の分県請願書
「越中大川多し」と書かれた石埼謙の分県請願書(国立公文書館)



 明治を迎えたばかりの日本には、砂防に詳しい人材はいませんでした。
 そこで、お雇い外国人を招聘するのですが、1873年(明治6年)、内務省に雇われて来日したのが、オランダ人のヨハネス・デ・レーケです。デ・レーケは淀川の改修や木曽川の分流化など各地の治水工事を指導しました。そして、常願寺川の大水害を受け、堤防の建設や用水の一本化などをおこないました。まさに、日本の土木の基礎を築いた恩人です。

 デ・レーケは、常願寺川を見て「これは川ではない。滝だ!」と叫んだと言われます。流路が56kmと短いにもかかわらず、3000メートル級の山から一気に海に流れるため、河床勾配は山地部で1/30(30メートル流れると高さが1メートル下がる)、扇状地部で1/100と、日本屈指の急流河川なのです。

 この川を「暴れ川」にする理由がもう一つあります。それは、「天井川」だということ。天井川は、簡単に言えば、市街地より高いところを流れる川のことです。堤防が作られ川の流れが単純化すると、一時的に氾濫はなくなりますが、河床にはどんどん土砂が堆積します。河床が上昇すると、それに合わせて堤防を高くしていくことになり、結果、川の高さが上へ上へと高くなるのです。

 川をそのままにしておけば、水の勢いでどんどん河床や山肌がえぐられ、土砂があふれてしまう。そこで、流路を単純にすると、土砂が溜まって川床が高くなってしまう。結局のところ、治水のやり方としては砂防ダムを作って水量を調節したり、コンクリートで護岸工事したり、川床を掘削したりするしか手はありません。

天井川
天井川である常願寺川(向かって右が川、左が農地)



 1906年(明治39年)、富山県は常願寺川の抜本的な治水対策として水源部の砂防工事に着手します。基本計画は、立山カルデラの出口となる場所に湯川第1号堰堤を造ることでした。しかし、この堰堤は、1919年(大正6年)の出水で決壊。1920年から復旧工事をしましたが、1922年の出水で再び決壊します。富山県はあまりの難工事に加え、莫大な支出に困窮し、何度も砂防事業の直轄化を国に要望します。しかし、砂防法では、 2県以上にまたがらないと国が関与しないと決められていました。

 1923年、関東大震災により、神奈川県の相模川や酒匂川などの流域が甚大な被害を受けます。しかし、神奈川県のみで復旧することは不可能に思われました。これが契機となって砂防法が改正され、ついに1926年、常願寺川の砂防事業は国による直轄となりました。

 国の直轄になるまでの20年間で、土砂を受け止めて下流に流れる量を調節する石積みの堰堤、崩壊斜面の拡大を防ぐ山腹工や護岸工など333施設を施工したことが記録に残っています。近年、それらを再調査したところ、30カ所ほどが現存していることがわかりました。

 なかには、長さ40メートルに及ぶ規模の大きい堰堤も見つかっています。当たり前ですが、当時は1個数百キロになる石を人力で積み上げたわけで、それらがいまも砂防機能を保っていることに驚きます。

明治から大正にかけて富山県が工事した「金山谷山腹工」
明治から大正にかけて県が工事した「金山谷山腹工」



 さて、国の直轄になり、立山砂防工事事務所の初代所長となったのが赤木正雄です。後に「砂防の父」と称される人物です。

 赤木は、直ちに「常願寺砂防計画」を策定し、1931年(昭和6年)に砂防堰堤の工事に着手します。計画のポイントは、本宮砂防堰堤(1937年完成)と白岩砂防堰堤(1939年完成)の建造でした。

 本宮堰堤は常願寺川の中流域にあり、国内最大級の500万立方メートルの貯砂量を誇ります。上流から流れ出る土砂の量を調節する役割を持っています。また、上流には階段式の泥谷堰堤(1938年完成)もあります。標高差122メートル、延長457メートルの区間に堰堤19基が並んでいます。

本宮砂防堰堤
本宮砂防堰堤(重要文化財)



 白岩砂防堰堤は、湯川第1号堰堤と同じ場所にあります。ここは湯川本流で唯一、花崗岩の岩盤が露出している場所で、上流にある数基の砂防堰堤と組み合わせ、湯川筋の山腹崩壊を抑える計画です。本堰堤の高さ63m、7基の副堰堤をあわせると落差は108mとなり、これは現在でも日本一の高さです。

 このあたりは積雪のため、年間5カ月ほどしか工事ができず、しかも過酷な自然環境です。そのため、工事専用のトロッコやインクライン、コンクリート打設用のデリッククレーン、掘削機械であるタワーエキスカベーターなど、さまざまな機械が導入されました。

 この3つの堰堤により、常願寺川の氾濫は大きく減少しました。3つの堰堤はいずれも重要文化財に指定されています。

白岩砂防堰堤
白岩砂防堰堤(重要文化財)



 なお、こうした工事関係者が集まったのが、先にも触れた立山温泉です。立山温泉は、1580年頃から湯治客でにぎわいました。当時はほとんが立山信仰の信者でしたが、近代になると工事関係者や湯治客もたくさん集まりました。立山温泉のそばには、飛越地震のときに堰き止められてできたという泥鰌(どじょう)池があります。大正から昭和初期には、芸者を連れた温泉客が舟を浮かべて楽しんでいたとも伝えられます。

 立山温泉は、1969年に起きた水害で温泉への道がずたずたに遮断されたため、1973年に閉鎖されました。今は洋風のタイルがはめこまれた浴場など、ごく一部が残っているだけです。もちろん現在も、工事関係者以外は原則として立入禁止です。かつて、大きく繁栄した温泉は、弥陀ケ原や室堂にバスが通るようになり、立山黒部アルペンルートも全通したことで、観光のメインルートから外れてしまったのです。

泥鰌池
泥鰌池



 常願寺川の砂防工事が完成し、その後、神通川など各河川の工事も進んだことで、富山の安全は守られました。
 大正時代以降、県の河川政策は、水力を利用した発電事業にシフトしていきます。

 1919年(大正8年)、国の技監が砂防工事を視察した際、常願寺川の支流で発電の見込みがあると報告しました。当時の県知事は、翌年に県営発電所の設置を県議会に提案しています。これは、治水工事費がふくらみ、財政が圧迫されていた県の起死回生の事業となりました。

 1924年、まずは常願寺川水系で中地山、松ノ木、上滝の3発電所が運転を開始。そのうえで、巨大な有峰ダムの建設が始まります。

有峰ダム
有峰ダム



 水没が予定された地域はほとんどが山地でしたが、そのなかに不思議な集落が残されていました。有峰地域は、天正時代、上杉謙信に敗れた武将・河上中務丞富信の家臣たちが逃げた場所だと伝えられています。住民は、その後、外界と一切の連絡を絶ち、木の実やヒエ、魚を釣って生活しました。迷信深く、服装も独特だったとされています。県は、ダムで水没することから、この土地を買収。住民は突然手に入った巨額マネーを手に散り散りになりました。

有峰集落の写真(1930年頃)
有峰集落の写真(1930年頃)



 有峰ダムは昭和初期に工事が始まったものの、第2次世界大戦で中断。戦後、北陸電力が開発に乗り出し、ようやく完成しました。このダムの水資源と電力のおかげで日本海側が工業化され、町も近代化したのです。

「砂防の父」と呼ばれた赤木正雄は、東京の「砂防会館」ビルの前に銅像が作られました。銅像の周りには、47都道府県の川原の石が並んでいます。日本の砂防技術は世界的に有名となり、「sabo」は「tsunami」に並ぶ世界の共通語となるのでした。

知られざる日光 「滝尾神社」と「砂防ダム」


制作:2022年9月4日

<おまけ>

 常願寺川を見て「これは川ではない。滝だ」と言ったのは、オランダ人土木技師デ・レーケだとされますが、最近になって、実は同じくオランダ人の技師ローウェンホルスト・ムルデルによるもので、滝にたとえられたのは早月川だったとする説が出ています(「北日本新聞」2020年8月16日による)。ムルデルは1879年に来日し、新潟港の改修や東京港の建造アイデアを出しました。

 デ・レーケは、常願寺川を視察した際、「流域を守るには山をすべて銅板で覆うしかない」と語ったと伝えられています。崩れないように山肌を抑えることは重要ですが、ほかにも川底が削られるのを防ぐコンクリート製の「床固(とこがため)工」や、堤防沿いの流れをはね返す「水制」も重要です。常願寺川では、橋本規明氏により、さまざまなコンクリートブロックが開発されました。これは「橋本工法」と呼ばれ、台湾などでも使われました。

岩峅寺付近から広がる扇状地と床固工、コンクリブロック
岩峅寺付近から広がる扇状地と床固工、コンクリブロック
 
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