「札幌」の誕生
あるいは「蝦夷共和国」について
函館に向かう榎本武揚
慶応3年(1867年)、大政奉還で江戸幕府が消滅し、江戸城の無血開城が決定すると、幕府の海軍副総裁だった榎本武揚は、品川から開陽丸で蝦夷地に向かいます。
榎本は、新政府の箱館府知事・清水谷公考を敗走させると、蝦夷地全域を支配下に置いた「蝦夷共和国」を建国します。“首都” は函館の五稜郭です。
五稜郭
当時、函館は開港地で、各国の公使館が存在しています。
榎本が函館にやってくるとの噂が広がると、イギリスもフランスも軍艦をまわし、攻撃を受けたら反撃すると宣言します。アメリカは、外国人居留地を砲撃することはないと判断し、軍艦の回航まではしませんでしたが、もし戦端が開かれたら反撃する準備はしていました。
開陽丸の砲弾(北海道庁旧本庁舎内展示物)
結果的に外国人居留地への攻撃はなく、榎本は首尾よく五稜郭をおさえることに成功します。
榎本は、各国の公使に「自分たちは海賊ではないので手出ししないでくれ」との声明文を送ります。
《官軍は吾輩を以(もっ)て、法則を知らざる海賊なりと心得たる事と思われ候に付き、海賊にあらざる証拠を官軍に見せたき故(ゆえ)に、蝦夷地を取る事と決定いたし候、(中略)
吾輩は自己を守るには十分の力あれば、なにとぞ日本の手にて日本を支配せん事を望み、外国より手出しなきよう祈る事也》(新聞「横浜新報もしほ草」明治元年11月23日)
フランス語で書かれた声明文には、外国に手出しはしないという宣言と、「蝦夷共和国は交戦団体である」と書かれていました。
国際法には「交戦団体承認」の規定があり、もし交戦団体と認められれば、第三者は中立を守らなければなりません。各国に局外中立を守らせるという、国際法に通じた榎本の秘策でした。
新政府の軍艦「朝陽」の大砲(函館水天宮)
こうした態度に、イギリスとフランスは好感を寄せ、新政府との仲介を約束してくれます。
榎本は、両国の公使に手紙を託し、徳川家の家臣30余万人を食わせるため、北海道の開拓を認めてくれるよう、請願します。
《終古不開の蝦夷地に移住いたさせ、蓁莽(しんぼう)を開拓して、後来北門の警護を勤め、無益の人を以て、有益の業をなさんとするのが我々の願い》(『資料近代日本史』による)
しかし、この請願を新政府は却下。
さらに、各国は数週間の協議を経て、蝦夷共和国を交戦団体だと認めないことを決定。実はこのとき、幕府がアメリカに注文した最新鋭の軍艦が横浜に到着していましたが、交戦団体と認められなかったことで、軍艦は新政府のものになりました。
榎本軍に参戦したフランス人将校たち
明治2年(1869年)、新政府は蝦夷共和国を倒し、箱館戦争は終結。そのまま、函館に開拓使が置かれます。
このとき、蝦夷地全体を「北海道」と呼び、渡島(7郡)後志(17郡)石狩(9郡)胆振(8郡)日高(7郡)天塩(6郡)十勝(7郡)釧路(7郡)根室(5郡)北見(8郡)千島(5郡)の11国86郡に分けました。2018年、北海道150年のイベントが行われましたが、それはこのときから数えての話です。
開拓使の初代長官は、佐賀藩主の鍋島直正が就任しました。鍋島に同行した島義勇は、銭函(小樽市)に開拓使仮役所を開設し、札幌を「五州第一の都」とする計画を立てました。
荒野だった札幌は、アイヌ語の「サト・ポロ」(乾いた広い土地)が語源だとされます。のちに「北海道開拓の父」と呼ばれる島は、人工河川「創成川」と中央火防線(現在の大通)を基準に碁盤目状の市街地を設計しました。しかし、予算の使いすぎで解任されてしまいます。
札幌(明治初年)
北海道の開拓にあたって、大きな問題がありました。当時、北海道南部の大きな街は、函館と室蘭です。室蘭は、江戸時代から絵鞆場所という交易場がありました。
しかし、両市とも南すぎて、北海道の中心には向かないと判断されていたのです。では、いったいどこに首府を置けばいいのか。島義勇が解任された今、北海道の中心をどこに置くかさえ決まっていませんでした。
札幌大通公園(大正7年=1918年ごろ)
明治3年、政府は新たに樺太開拓使を設置し、黒田清隆をトップに据えます。黒田は、箱館戦争で新政府の参謀を務め、榎本武揚と戦っていました。榎本は、降伏するとき、自身が持つ国際法の貴重書『海律全書』が焼失するのは惜しいと、この本を黒田に渡しています。こうしたこともあり、黒田は榎本の助命に奔走し、榎本は開拓使で働くことになりました。
さて、樺太に赴いた黒田は、すぐにロシアの侵略意図を見抜き、北海道の開拓を早急に進めるよう具申します。
黒田の主張は以下の通り。
・石狩に鎮府を置いて、樺太と一緒にまとめて開拓する
・各藩の支配を廃止し、開拓使に統合する
・予算を増やし、外国から拓殖の専門家を呼ぶ
この具申は、かなりの部分がそのまま採用され、黒田は北海道開拓の中心人物となります。そして、アメリカのグラント大統領の厚意で、多くのアメリカ人を御雇い外国人として招くことに成功します。
原野の測量
開拓使に招かれた外国人75人のうち、45人がアメリカ人でした。
なかでも重要な役割を担ったのが、ホーレス・ケプロン(アメリカの農務長官)、ワルフィールド(陸地測量の専門家)、アンチッセル(地質鉱山の専門家)です。
この3人が、北海道の中心地をどこにしようか議論しました(以下『室蘭市史』ほかによる)。
札幌付近の地図(年代不明、国立公文書館)
●アンチッセルの意見
札幌は夏も低温なので、食べ物を多くは生産できない。冬の5カ月間、食料は南方に頼る必要があるから、札幌は首府に向かない。石狩原野の代わりに、室蘭から根室までの東海岸に首府を設置するべきである。
仮に防衛のため札幌を開くとして、札幌に近い海岸には、安全な港を作れない。港があったとしても、移動できるのは夏だけで、冬は難破する可能性もある。これでは、日本の軍艦より先にロシアの軍艦がこの地に到着してしまう。
札幌と北海道各地、内地を結ぶルートもない。
どうしても東海岸に首府の最適地がなければ、まず室蘭と石狩川との間に道路を作り、ついで、室蘭から千歳を経て石狩まで鉄道を敷くべきである。
南方の海岸は凍結しないので、まずは室蘭を首府の玄関港とすべきである。
●ワルフィールドの意見
函館と砂原の間に道路を開削し、室蘭を整備すれば、札幌を巨大な首府にすることは可能。室蘭と札幌の間に道路を作り、また鉄道を敷くべきだ。
札幌の玄関港としては室蘭と小樽が想定できるが、小樽は冬に使えなくなる上、敵国ロシアに近いので、札幌〜石狩川の運河と道路によるルートも構築すべきだ。
小樽(明治2年)
●ケプロンの意見
札幌は豊穣な場所もあり、開拓の膨大な人口を養うことは可能だ。
現在は人跡未踏の地だが、整備すれば、潮の干満にかかわらず、石狩川の河口に軍艦を停泊させることは可能だし、奥地に行くこともできる。
ケプロンは、札幌への玄関港は室蘭とし、その理由をこう語っています。
「旅客は、東京から札幌まで、室蘭経由なら5日で来られるが、函館経由だと最短で9日、風待ちすればさらに数日かかる」
一方、開拓使で働く榎本武揚も「室蘭を開港して札幌とつなげば、北海道は大繁栄する」としています。榎本は、石狩山地で空知炭田を発見しており、この石炭を運ぶには石狩川の水運を利用すべきだと考えていました。
こうして、まずは札幌を首府とすることが決まり、室蘭から札幌までの道路、函館から札幌までの道路(札幌本道)が準備されます。室蘭では、測量の基礎となる三角点が測量山に置かれました。
室蘭(明治4年)
道路開削にあたって、大きな力となったのが東本願寺です。
本願寺と松前藩は友好関係にあり、北海道ではもともと真宗大谷派(浄土真宗)が強かったのですが、東本願寺第22代法主の大谷光瑩(現如)が開拓を決意。
明治3年、現如は函館から西海岸を経て、未開拓の札幌に到着します。以後、門徒の働きで、次々に道路が開かれていきます。
工事は、教化と募金と北海道への移住勧誘を同時に行いながら進み、たとえば国道230号の基礎となった、有珠山を超えて札幌に行く山越えの道は、いまでも「本願寺街道」と呼ばれます。
本願寺街道
明治4年、開拓使庁が札幌に移転。
明治5年、トキカラモイに室蘭港が完成し、翌年、室蘭と札幌をつなぐ大動脈が開通。この「札幌通り」(現・室蘭中央通)は、現在も街の中心となっている道路です。
トキカラモイ桟橋の周辺には、石炭を扱った旧三菱合資室蘭出張所、旧北炭倶楽部などが現存しています。
旧三菱合資室蘭出張所
明治7年(1874年)、政府は屯田兵制度を導入し、翌年、札幌郊外の琴似兵村への屯田が開始されました。
明治15年(1882年)、北海道開拓使は廃止され、札幌県・函館県・根室県の3県が成立します。これを三県一局時代といいますが、わずか4年で北海道庁が設置され(明治19年)、北海道は一元管理されていくのでした。
北海道庁(明治42年焼失後の仮庁舎)
旧室蘭駅は港のそばにあり、ここから高台の旧札幌通りに上がる道に「日本一の坂」があります。名前の由来は、この坂にあった蕎麦屋「福井庵日本一」で殺人事件があったから、とされますが、定かではありません。
実は、この坂は、港湾労働者が、仕事が終わった後、幕西町の遊郭街へ行く道でもありました。
明治初期には、室蘭の開港、札幌本道工事に従事した男たちが、明治20年代になると、室蘭の輪西に屯田兵が駐屯し、炭礦鉄道の工事も始まり、多くの労働者が集まりました。
明治28年、道庁の指定により「幕西遊郭」が生まれます。長さ約700m、標高差約90mの幕西坂にあり、最盛期の明治42年(1909年)には料理店78軒、貸座敷13軒、芸者54人、娼婦108人、酌婦96人がいたと記録されています。
日本一の坂