札幌オリンピック・夢の跡
今でも残されている五輪マーク
1972年2月3日から13日まで、札幌で第11回冬季オリンピックが開催されました。35カ国から約1600人の選手・役員が参加し、6競技35種目が行われました。
日本は70m級ジャンプで笠谷幸生、金野昭次、青地清二の3選手が金、銀、銅を独占しました。これは「日の丸飛行隊」と呼ばれ、日本中が熱狂したのです。
さて、その札幌オリンピックの「遺跡」が、現在も残っているのですよ。今回はその遺跡を見にいきます!
札幌市中心部から西に約15km行くと、標高1023.7mの手稲山(ていねやま)があります。ここにはオリンピック当時、アルペンスキー、リュージュ、ボブスレーの会場が置かれました。
で、まずはこちらが聖火台。
手稲山聖火台
聖火台の背後には小さく観覧車が見える
そしてこちらが「手稲山ボブスレー競技場」跡地。4億3300万円をかけて建設された日本初の正式コースです。全長1563m、標高差132m、カーブ数14。造成には約400トンの氷が使われたそうです。
廃墟となったゴールポイント
2000年2月まで現役だったコース。予算難で最後は300mしか維持できず
日本がボブスレーに初めて参加したのは、この札幌オリンピックからですが、実はもっと昔から日本ではボブスレーが始まっていました。
戦前の1940年、札幌では第5回冬季五輪が開催されるはずでした。当時は夏の五輪開催地が冬の開催でも優先権があったため、幻の東京オリンピックに次いで札幌でも開催が決定していたのです。
結局、両方とも第2次世界大戦によって開催返上が決まってしまうのですが、五輪の準備のために、北大工学部がボブスレーの試走をしていたのです。五輪開催の2年前、1938年のことでした。
1940年、幻の札幌五輪のロゴ
この日本初のボブスレーのハンドルを握ったのが、1972年の札幌オリンピック開催時に北海道知事だった堂垣内尚弘さんでした。
戦後、堂垣内さんは道庁土木部技官の立場でGHQのスキー場を札幌・藻岩山に建設します。実はそのときボブスレーコースも併設、試走もしていました。
そして、72年五輪では、知事として、ボブスレーコースの設計にも関与していたのです(読売新聞2001年11月10日による)。
余談ながら、72年五輪の際、手稲山のコースでは浩宮様がボブスレーに挑んだこともあったそうです。
1970年に人口100万人を突破した札幌市は、オリンピックのために突貫工事で都市基盤が作られていきました。1971年11月には青函トンネル本工事の起工式があり、12月には札幌市営地下鉄(南北線・北24条─真駒内間)が開業、また道央自動車道(北広島〜千歳)と札樽自動車道(小樽〜札幌西)も開通しています。
五輪開催のために投資された予算は約2000億円。おかげで都市基盤が20年早く整備されたと言われました。
そして、1972年4月、札幌は政令指定都市に移行するのでした。
制作:2007年5月21日
<おまけ>
72年五輪で表彰台を独占したジャンプ3選手のその後の道のりはさまざまでした。
金の笠谷幸生さんは引退後もコーチとしてジャンプ選手の育成に努め、2004年には紫綬褒章を受章しています。
銀の金野昭次さんは、引退後、北海道拓殖銀行に勤務します。1997年、大型リゾートホテル「札幌テルメ」出向中に、拓銀が破綻、翌年、テルメも自己破産します。
銅の青地清二さんは、引退後、雪印乳業に入社します。グループ会社出向中に、食中毒事件や牛肉偽装事件が相次いで起きるのを目の当たりにしました(週刊ダイヤモンド2003年7月26日号による)。
当時知事だった堂垣内尚弘さんは、1986年に設立された日本ボブスレー・リュージュ連盟の初代会長となり、1988年のカルガリー冬季五輪では日本選手団長も務めました。そして2004年2月、脳梗塞で死去しています。享年89。
こうしてみると、時間というのは、けっこう残酷なものですね。
オリンピック村のスタンプ(ボブスレーとリュージュ)