幻の東京五輪
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1940年、幻の東京オリンピック
東京オリンピックの開催決定を喜ぶ市民
1936年(昭和11年)7月31日、ベルリンの高級ホテル「アドロン」で、次回オリンピック(1940年の第12回オリンピック。第11回はベルリン)の開催地が決定されようとしていました。
午前10時、ホテルの「鏡の間」には各国のIOC(国際オリンピック委員会)のメンバーが集まり、最終会議が始まりました。まず最初に、IOCの最古参委員である日本人の嘉納治五郎が挨拶します。
嘉納は、近代オリンピックはすべての国、すべての民族に開放されるべきだと高らかに宣言したあと、
「アジアの一角に全世界の若者が集まる時、世界は新しい平和への幕開けの時を迎えるであろう」
と演説を締めくくりました。この演説が委員の気持ちを揺さぶったのか、36対27という大差で次回の開催地が決まりました。破れたのはヘルシンキ(フィンランド)、そして勝ったのは、極東アジアの東京でした。
英、仏、独語で書かれた東京大会規約
1940年(昭和15年)は
皇紀2600年
に当たり、日本では数多くの壮大な国家イベントが予定されていました。そのなかでもオリンピックは、万博と並ぶ大イベントと位置づけられたのです。
幻の東京五輪の会場
A:オリンピックスタジアム B:記念広場 C:プール D:オリンピック村
開会式は9月21日(土)午後3時、閉会式は10月6日(日)午後2時。競技種目は以下の22種。注目は、芸術競技として、音楽や建築も含まれていた点です。
●正式種目14種
陸上競技、拳闘(ボクシング)、転車、馬術競技、フェンシング、体操、近代五種競技、漕艇(ボート)、射撃、水上競技、重量挙げ、レスリング、ヨット、芸術競技
●選択種目6種
蹴球(サッカー)、水球、ホッケー、籠球(バスケ)、送球(ハンドボール)、カヌー
●番外競技2種
武道(剣道、柔道など)、野球
幻のオリンピックポスター
五輪マーク
では、この幻のオリンピックを見に行くよ!
まず主会場は、当初、代々木の練兵場が予定されましたが、陸軍の協力が得られず断念。
次いで、内務省の反対を押し切って明治神宮外苑の改造で決着しますが、敷地の狭さから予定の3分の2しか観客を入れられないことがわかり、これも断念。
結局、都心から10キロ離れた世田谷の駒沢ゴルフ場に主競技場と水泳場、オリンピック村、練習場を新設することになりました。
駒沢ゴルフ場
14万坪という広大な敷地の東側に入口を設け、中央に8000坪の記念広場と記念塔。
オリンピック村は1300人規模の木造施設ですが、ここは役員と男性選手専用で、女性選手は都内の既存施設を利用する計画でした。
オリンピック村
メインの陸上競技場は、トラック1周400m。10万人収容可能ですが、うち4万人は仮設スタンドの計画でした。
駒沢の陸上競技場
水泳場は中央広場の南側に設置。2万8000人収容可能(約半数は仮設スタンド)。最新の浄化装置、防波装置、照明が設置される予定でした。
駒沢の水上競技場
水上競技場(神宮外苑時の予想図か)
室内運動場は、「近代スポーツの父」とよばれた日本体育協会・岸清一の寄付により、五輪決定前にお茶の水(旧岩崎邸跡地)に土地がありました。
そこで、ここに地上6階、地下1階建ての体育館を建造することになりました。オリンピックではバスケと体操のみこの体育館で開催予定でした。
室内体育館
室内体育館の設計図
ボートコース(漕艇場)は、五輪決定前に埼玉県戸田橋で建設が始まっており、1937年5月30日に起工式が行われ、1940年に完成しています。長さ2400m、幅70m。観客席は2500。幻のオリンピックで、唯一完成した施設でした。ここは1964年の東京オリンピックでもボート会場に使われています。
漕艇場予想図
現在の戸田競艇
ヨットコースは横浜新山下町の埋立地沖に作る予定でした。45万円の予算が通過するも、未着工。
横浜新山下町沖のヨットコース
このほか、芝浦に自転車競技場、村山貯水池の隣に射場などを作る計画でした。
東京五輪の総予算は3000万円を超えていました。1938年(昭和13年)秋には、工事開始のはずでしたが、結局のところ、漕艇場を除く一切の工事が行われることはありませんでした。
なぜか?
実はこの前年の1937年7月7日、中国で盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まっていました。戦時下、資源の統制はすすみ、1938年6月には鉄鋼配給の統制も決定してしまいました。
メイン競技場建設に必要な鉄は1000トン。やむなく東京市はスタジアムの一部を木造に設計変更、必要とする鉄を600トンにまで切り詰めましたが、それでも見通しは立ちませんでした。予算面でも、競技場建設に必要な800万円は、当時の国家予算の3%にも相当する巨大な金額でした。
その上、イギリスなどは戦争が続く限り選手を派遣しないと公表、以後、ボイコット国が増えていったことも、オリンピック開催にとってはマイナスでした。
かくて1938年7月15日、政府は万国博覧会と東京オリンピック開催返上を閣議決定します。日本の威信をかけた国家イベントは、こうして幻に終わったのでした。
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1964年、東京オリンピック開会式
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国立競技場の誕生
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札幌オリンピック夢の跡
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1940年、幻の日本万国博覧会
更新:2017年10月6日
<おまけ>
東京五輪に次いで、札幌で冬季五輪の開催も決まりました。こちらは1940年2月3日—2月14日です。正式種目はスキー、スケート、アイスホッケー、ボブスレーの4種目。これに形式的な正式種目トボガン(アメリカ先住民のソリ)、番外競技に軍隊スキーなどがありました。場合によってはカーリング、犬ぞり競争なども行われた可能性があります。
もちろん、この札幌五輪も幻となりました。
幻の札幌オリンピック競技場見取図
<おまけ2>
「鏡の間」で演説した嘉納治五郎は、1909年(明治42年)に、アジア人で初めてIOCの委員に選ばれています。灘の豪商の三男で、東京高等師範学校の校長を務め、「柔道」をひとりで作り上げた人物です。
それにしても、なぜこんな時期に “文明外” のアジアから委員が選ばれたのでしょうか? それは、1904年に起きた日露戦争で日本が勝利し、初めて国際的に認知されたから。日露戦争は、まさに日本の国際舞台へのデビュー戦だったわけです。
嘉納は第12回オリンピックが東京に決定すると、こうつぶやいたと言います。
《36票の重みは、日本が世界に平和を公約した重みでもある。日本政府が、関係者が、日本国民が、その数の重みを本当に理解し、これからの日本が進んでゆくことを、唯々祈るだけだ。本当に、そうなっていくだろうか》(『「東京遂に勝てり」1936年ベルリン至急電』より)
残念ながら、歴史は嘉納の思い通りには進まず、オリンピックは開催されませんでした。しかし、幸か不幸か、嘉納は返上を知ることなくこの世を去っています。1938年5月4日没。返上決定の、わずか2カ月前のことでした。
【東京五輪のスケジュールと会場】
●開会式 9月21日 午後3時 オリンピック主競技場
●陸上競技 9月22日—9月29日 オリンピック主競技場
●体操 9月23日—9月24日 オリンピック体育館
●ボクシング 10月1日—10月5日 国技館
●フェンシング 9月23日—10月4日 芝浦スケート場など
●レスリング 9月22日—9月30日 国技館
●射撃 9月25日—9月27日 村山射場
●ボート 10月1日—10月4日 戸田漕艇コース
●水上競技 9月28日—10月5日 オリンピック水泳場
●馬術競技 10月1日—10月6日 オリンピック主競技場、馬術競技場
●近代五種 9月22日—9月26日 世田谷、芝浦、オリンピック水泳場など
●自転車 10月2日—10月5日 芝浦自転車競技場、中仙道コース
●重量挙げ 9月25日—9月26日 国技館
●ヨット 9月24日—9月30日 横浜ヨットコース
●サッカー 9月23日—10月4日 オリンピック主競技場など
●カヌー 9月22日—9月23日 戸田漕艇コース、荒川コース
●ホッケー 9月22日—10月1日 明治神宮外苑競技場
●ハンドボール 9月27日—10月2日 オリンピック主競技場など
●バスケ 9月27日—10月2日 オリンピック体育館など
●芸術競技 9月 5日—10月 6日 東京府美術館(建築、絵画、彫塑)
期日未定 東京市公会堂(音楽、文学)
●閉会式 10月6日 午後2時 オリンピック主競技場
(1938年刊行『オリンピック精神』より)
【東京五輪の予算】総額3100万円
<施設費>2014万2427万円
1292万227円(組織委員会負担)
722万2200円(東京市・横浜市ほか負担)
<道路整備費>1080万円(東京市負担)
当時は韓国も日本でした