世界で最もマニアックな
「浅草寺」大観光

浅草寺二王門
明治29年(1896)の浅草寺二王門
左上は凌雲閣


 今でも浅草の仲見世で売ってますが、その昔、浅草は海苔(のり)の名産地でした。しかしながら、「その昔」とはいったいいつのことかというと、今から400年以上前、『大日本産業事蹟』によれば、元亀・天正(1570年頃)までのようです。

 徳川家康によって江戸が整備されるまで、浅草は海に近く、浅瀬で海苔がよく取れました。干拓で海が埋め立てられると、漁場は今の大森から品川にかけて移動します。この地を昔は「荒藺(あらゐ)」といったため、「荒藺海苔」と呼ばれましたが、いつのまにか「浅草海苔」というブランド化が進んだわけですな。
 産地偽装とも言えますが、まぁ、浅草には海苔問屋が多かったため、こう呼ばれたわけです。

海苔製造の様子
海苔製造の様子(東海道名所図会、1797年)


「浅草海苔」の製造がいつ頃から始まったのかはよくわかりません。一説には正木四郎左衛門という海苔商人が寛永末期(1640年頃)に始めたとも言いますが、これは現在のような漉いた紙状の海苔のこと。当たり前ですが、それ以前から海苔は天日干しで食べられていました。しかし、詳しい記録は残っていません。
 
 さて、今回なぜ海苔の話から始めたかというと、実は浅草寺のご本尊は、もともと漁業の信仰から始まったからです。
 どういうことか。話はさらに1000年飛びます。

 推古天皇36年(628年)3月18日、浅草川で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網に、観音像がかかりました。魚はまったくおらず、何度網を投げても、またいくら場所を変えてもその観音様ばかりかかるのでした。翌日、拾い上げた観音様に「今日は魚をたくさん捕らせて」と頼むと、大豊漁となりました。
 この霊験に驚き、祀られたのが、浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像です(『武蔵国浅草寺縁起』による)。

浅草寺
“浅草寺”の誕生(江戸名所図会、1836年)


 これが東京最古の寺「浅草寺」の誕生で、以来、多くの信仰を集めてきました。1180年には源頼朝が平家追討の戦勝祈願をしているし、徳川家康もここで 祈願しています。

 でだ。
 この霊験あらたかな観音像ですが、その実体は不明です。高さ1寸8分(約5.5センチ)で金色の像だと言われていますが、大化元年(645年)に勝海上人が本尊を秘仏と定めて以来、ほとんど公開されたことがないからです。観音像には

・伊勢から牡蠣の殻まみれで漂着した
・洪水で埼玉県川越市から流れてきた

 などいろんな説があるため、明治30年、山下重民という編集者が、住職の奥田貫照に直接話を聞いたところ、次のように語ったそうです。

「明治以来、神道家のなかに浅草寺の本尊は少彦名命という説が起こったため、神祇官の役員と一緒に調べたところ、仏像を何重にも巻いた紙『龕(がん)』が空気に触れると同時に粉々になってしまいました。龕には文字が書かれていたのですが、縁起(由来)なのか経文なのかはわかりませんでした。
 龕内にはだいたい1尺8寸(55センチ)程度の木像と銅像が入っていました。その像は確かに観世音でした」(『風俗画報』臨時増刊『東京名所図会』第4編より意訳)


 つまり、世の中の噂と違ってご本尊は10倍大きかったわけですな。

 で、『浅草寺志』によると、どうやら本尊はさらに5体あって、次のように並んでいるようです。

(前)    (後)
   右本尊 右2番目の本尊
 前立本尊         本尊
   左本尊 左2番目の本尊


 江戸時代の詳細な年表である『武江年表』によれば、承応3年(1654)に初めてご本尊が開帳されたようです。どの本尊かまでは記録されていませんが、少なくとも宝暦元年(1751)や安永6年(1777)には、すべての本尊が公開されています。
 いずれにせよ、秘仏の姿を見たことがある人は、きわめて限られているのです。

 さて、浅草寺本堂は何度も焼失の憂き目にあっているんですが、昭和20年の東京大空襲でも燃えてしまいました。昭和33年(1958)に再建され、2008年、50周年を迎えました。それで本堂落慶50周年記念大開帳が開催されたんですな。

浅草寺
本堂落慶50周年記念大開帳


 今回もご本尊「聖観世音菩薩像」は開帳されなかったんですが、代わりに前立本尊が公開されました。これは約1200年前(828年?)に延暦寺の慈覚大師円仁(じかくだいし えんにん)が彫ったものだそうです。

 で、先の『浅草寺志』によれば、この前立本尊は、浅草川で見つかった本尊を模して作ったものらしい。つまり、本尊は見られないけれども、そのコピーは見られるわけですな(ただし、『浅草寺志』では作者不明となっているので、違う可能性もあります)。

 そんなわけで、さっそく浅草寺に向かいました。
 ありがたいことに写真撮影が禁止されてなかったので、記念に撮って来ました! いや〜すばらしいな、浅草寺。

浅草寺 浅草寺
右が前立ご本尊!優美な姿がうかがえますね
(超望遠撮影の上、ものすごい画像処理しています)

 

 さて、せっかくなので焼失前の浅草寺も観光に行きましょう。まずは本堂から。

浅草寺 浅草寺
左が江戸名所図会、右が最古の?写真で明治7年頃

 本堂は慶安2年(1649)、徳川家光の発願で完成し、明治44年(1911)に国宝に指定されています。本堂内はいろんな額が飾られ、今よりずいぶん賑やかでした。
 ちなみに左2本目の大柱に、巨大な節穴(直径10cm、深さ13cm)が空いていて、これは弁慶が開けた穴だとの言い伝えがありました。また怪力で知られた鎌田又八が開けた穴だとも言われていました。

浅草寺
本堂入口部分
(明治30年『東京名所図会』第4編より)


 続いて仁王門と五重塔。

浅草寺 浅草寺
左が1931年、右が現在

 五重塔は慶安元年(1648)に再建され、明治44年、やはり国宝に指定されています。かつて五重塔は本殿に向かって仁王門の右に立っていましたが、現在は左手にあります。なお、仁王門は現在、宝蔵門と呼ばれています。

 浅草寺といえば雷門が有名ですが、これは1865年に焼失し、戦後、松下幸之助の寄進によって再建されるまで、100年間近い間、幻の存在でした。なので、かつての画像はありません。
 残念なので、濡れ仏と呼ばれた2仏を紹介しときます。

浅草寺再建 浅草寺
左は明治30年、右が現在。昔は子供が乗って遊んでたみたいですね


 さて、古刹の浅草寺は何度も危機に瀕してるんですが、近年の例をあげれば関東大震災(1923年)と東京大空襲(1945年)です。
 関東大震災では、仲見世は燃えましたが、奇跡的に仁王門や本堂は生き残りました。

浅草寺
関東大震災直後の写真


 しかし、さしもの浅草寺も空襲には勝てませんでした。
 SF作家の海野十三は、空襲の4日後、浅草に行っており、『敗戦日記』に次のように書いています。

《3月14日
◯浅草へ行って3月10日の空襲のあとを見る。震災に比べて、延焼の時間が短かかったので(震災は3日間で焼け、今度は6時間位で焼けた)惨害もひどかったことがうなずける。こんなに焼けているとは思わなかった。浅草寺の観音堂もない、仁王門もない、粂(くめ)の平内殿は首なし、胸から上なし、片手なしである。五重塔もない。
◯吾妻橋のタモトに立って眺めると、どこもここも茫々の焼野原。
◯大正震災のときは、それでもかなり今戸の川ぷちに家が残ったものだ。今度は完全に焼けてしまった。痔の神様ももちろんなし。》


 浅草寺は、焼失後、すぐに再建のための寄付を集め始めます。
 
浅草寺再建
再建のため、当時、配っていたビラ


 このビラの裏面には、

《終戦後日本は文化国家、平和国家と云う目標の下にいささか復興しつつありますが、しかし日浅くして未だに道義も礼節も回興せず、その日の生活に追われた人々は狂燥の渦中にもだえる有様です。国民は恰(あたか)も闇夜の海に漂う小舟のように只(ただ)落ち着きなくあえぐだけで未だ文化国家、平和国家として何等(なんら)形に現わして示すものがありません。
 この時に当り闇夜の燈となり、すさんだ人心の憩いの場所として荘厳なご本堂を皆様の手で作って戴きたいと思います。》


 とあり、必死さがうかがえます。
 このビラを見たのかどうか、昭和20年の11月に浅草を再訪した海野十三は、浅草寺に5円を寄進しています。再び日記から。

《11月24日
◯浅草へ初めに行く。3月10日の空襲から2日後に行って以来のこと。小本堂出来、朱塗りの色も鮮やか。本堂建立のため、金5円也を寄進す
◯仲見世はいうに及ばず、境内いたるところにつまらん物の店と、あやしき食い物店とあり、その数無慮2〜300軒。こっちも釣りこまれ、つまらぬものを買い込む。
 しかし浅草の景気がいいのは、この敗戦の秋に頼母しい事である。
 こういう人達の中から、新日本が生まれ出るかと思えば、感慨無量である。》


 こうして浅草寺は、昭和33年(1958)に再建されました。まさに《新日本の生まれ出》でした。 


制作:2008年11月10日

<おまけ>
 2009年10月15日の埼玉新聞によれば、浅草寺のご本尊は、飯能市の歓喜寺岩井堂にあった観音様という説があるそうです。およそ1400年前、旅の僧が木彫で金塗の観音像を置くため観音堂を建てたものの、大暴風雨で成木川に流出したと。それが、628年、江戸浦(隅田川)で漁師の網に引っかかったというんですな。
『浅草寺志』(1813年)には、《武州川越出丸中之郷に観音堂あり。往古洪水の時、この本尊流れて荒川に沈む。その後、武州宮戸川で網にかかる。浅草の観音は是なり》とあるそうで、出丸中之郷が岩井堂のことだとされています。

<おまけ2>
 浅草寺は節分が有名ですが、もともと2月3日ではなく、年末に行われていました。これは宮中行事の「追儺(ついな)」からきたものです。しかも豆ではなくお守りを配っていたようです。「この日のかまびすさは言葉にできない」と『江戸名所図会』に書かれています。
追儺
上からお札をばらまく様子がすごいですな

© 探検コム メール