1980年、情報化社会がやってきた
あるいは、日本の「IT革命」を準備した男
東京駅前から始まった日本のIT革命
1980年5月14日、マイクロソフトのビル・ゲイツ(当時24歳)が東京に姿を現しました。
ちょうどこの日、平和島でマイクロコンピュータショウが始まったのです。
ビル・ゲイツは、とあるブースに立ち寄ると、そこにいた顔見知りの社長に声を掛けました。
"Which one is most exciting in this show, Watanabe?"(渡辺さん、いちばんよかったパソコンはどれですか?)
"Still PC-8001 is leading, I think."(やっぱりPC-8001でしょう)
するとビル・ゲイツは、やや意外そうに「Why?」と聞いてきました。社長は「だって価格が魅力的だから」と答えます。
このマイコンショーでは、日立の「ベーシックマスター レベル3」と沖電気の「if800」という常識破りの新機種が発表されました。画面表示640×200という、当時としては圧倒的なグラフィックスを表示できたのです。
ついにひらがなの表示を実現させた「レベル3」
しかし、「レベル3」は29万8000円、「if800」は37万円と、かなり高価格でした。一方、前年の秋に発売されたNECの「PC-8001」は160×100ドットしか表示できませんが、16万8000円で買えました。
ビル・ゲイツが「そりゃまたどうして?」と意外そうに聞いてきたのは、社長が機能の低いパソコンを一押ししてきたからです。
ビル・ゲイツもやってきた1980年のマイコンショー(中央の黒い服が渡辺氏)
この社長の名は、渡辺昭雄(1933年生まれ)。日本にパソコンブームをもたらした、当時のベンチャーの旗手とされた人物です。
現在、ネット上に渡辺氏の名前はほとんど出てきませんが、電子メール、オンラインショッピング、電子書籍など、社会の情報化を草の根で推進した人です。
今回は、この渡辺昭雄氏の業績を中心に、「日本のIT革命」草創期についてまとめます。
25万台も売れたPC-8001の広告
かつて、計算機はメインフレームと呼ばれる大型コンピュータが中心でした。圧倒的なガリバーがIBM。このころの計算機はハードとソフトが一体となっていて、しかもレンタル中心。そのため、IBMをはじめとする各メーカーは、まるまるすべてを「保守」するのが当たり前でした。
ところが、1969年6月23日づけで、IBMはF・G・ロジャース事業部長名義の手紙を全顧客に送ります。「これからはソフトとハードとメンテナンスは別々の料金です」という内容。俗に「ロジャース・レター」と呼ばれるものですが、この手紙をもって、コンピュータビジネスは大変革の時代に突入します。自分で好きなハードを買い、好みのソフトを導入することが可能になったからです。
1977年4月、サンフランシスコで第1回ウエスト・コースト・コンピューター・フェア(WCCF)が開催されます。このとき、事実上、世界初のパソコンであるコモドール社のPET-2001とアップル社のAppleIIが展示されました。
コモドールの広告(1980年。写真は2001ではなく3000シリーズ)
このイベントには、日本でマイコン雑誌『I/O』を創刊したばかりの西和彦が参加していました。西は、PET-2001を見てパソコン時代の到来を確信し、翌月、アスキー出版を設立。1978年10月には、マイクロソフトと提携し、極東総代理店の資格を得ます。
西和彦は、TK-80という日本初のマイコンキットを発売していたNECに働きかけ、開発中のパソコンにマイクロソフトBASICというプログラム言語の導入を実現させます。これがPC-8001で、この機種がバカ売れしたことで、NECとマイクロソフトが覇権を握ることに成功します。
キットではなく完成品として販売されたTK-85の広告(1980年)
渡辺昭雄もPET-2001を見て衝撃を受けた一人です。
渡辺氏は大阪大学工学部を卒業後、東洋工業(現在のマツダ)に入社、会社の情報化を進めます。入社3年目、社長から「野球を科学してみろ」と命じられ、広島東洋カープのスコアブックを基に、巨人軍の王貞治選手の打球を分析、「王シフト」を発案して有名になりました。
その後、富士通に転身し、ベストセラーのオフィスコンピューターFACOM230-10を開発します。
渡辺氏は、富士通の重役がアメリカから買ってきたパソコンPET-2001を見せられます。495ドルという信じられない安い値段に驚愕し、独立してパソコンの普及に取り組むことになりました。
1978年、システムズ・フォーミュレート(略称SFC)を設立。訪問販売が常識だった時代に、東京駅の目の前にショールームを開設し、さらに「昭和ひとケタ・コンピューター落ちこぼれ族のためのマイコン道場」という日本初のパソコン教室を開きます。
SFCが開いた日本初のマイコン道場
SFCはコモドール社の代理店となり、さらにPC-8001なども大量に販売し、パソコンブームを仕掛けていきます。独立から1年半で、月300台のパソコンを売り、1億円の月商を達成していました。
絶頂期、渡辺氏は『日経ビジネス』(1980年6月2日号)の取材にこう豪語しています。
《現在の日本のコンピューターの状況は、第二次大戦後の電機業界とよく似てると思うんです。重電一色で『家電なんてあんなオモチャみたいものウチでは作る必要ない』と軽蔑されがちだった。ところがどうです、今では家電に“おんぶ”している企業も相当ある。ホーム用コンピューターも産業用と肩を並べ、数千億円ぐらいの市場をきっと形成する。それは独立後10年とみているんです。創業から1年半、だからあと8年半後にわが社の売り上けが富士通を抜きます》
この時点で日本には、PC-8001以外には、日立の「ベーシックマスター」(日本初のパソコン)、シャープの「MZ-80C」など、数えるほどしかパソコンは存在していません。
基本ソフトをカセットテープから読み込ませたMZ-80C(左)
そこで、渡辺氏は日本最強のパソコンの製造に乗り出します。開発は、まだパソコンを販売していない古巣の富士通に委託しました。そして、1981年9月、「バブコム80」を発売すると、売り上げは順調に伸び、月商は1億7000万円を達成します。
フロッピーディスクも標準装備だった「BUBCOM80」
しかし、バブコム80は、4カ月後にぱったりと売れなくなりました。
同時期に、富士通の「FM-8」、NECの「PC-8801」、沖電気の「if800モデル30」など大手のパソコンが一気に登場したからです。
PC-8801ではさまざまなゲームが楽しめた(1982年、九十九電機の広告)
1982年になると、パソコンは乱売合戦が始まります。技術進歩が激しく、後発ほど製品は質があがり安くなります。ベンチャーだったSFCはその流れについて行けず、赤字を抱え始めます。SFCは1982年10月から「バブコム80」の輸出にも乗り出しますが、焼け石に水。1983年に入ると、パソコンを8000万円売っても2000万円の赤字が出る状態でした。
当時の状況をもう少し説明しておくと、1983年ごろは、大手以外にも、名のないメーカーから雑多なパソコンが大量に販売されていました。この年の春には、アップルコンピューターのスティーブ・ジョブズ(当時27歳)が来日し、秋葉原で堂々と売られていた「アップルⅡ」の模造品「オレンジ」を訴えています。「オレンジ」は日本製半導体を使っており、性能は本家より上なのに半額以下でした。
こんな状況では、もはやパソコン販売に望みをかけることはできません。とはいえ、SFCの頼みの綱だったパソコン教室も、大手が無料講座を開設し、売り上げは激減しています。
おそらく日本で初めてハードディスクを内蔵したif800(1982年)
そこで、SFCが起死回生策として目を付けたのが、ネットワークシステムでした。
このころ、パソコン通信は存在していましたが、通信サービスはまだまだ閉鎖的でした。1982年末、郵政省は第2次通信回線開放を発表します。当時、注目を集めていたのが、VAN(Value Added Network)と呼ばれる高度情報通信サービス。このときは中小企業にのみVANサービスが認められ、SFCを含め4社がサービス導入に手を挙げます。
具体的には、SFC本社と大阪営業所、横浜流通センターの3カ所に「バブコム80」をネットワーク端末として配置し、富士通の電算機を利用し、公衆回線で結び付ける構想です。これで、電子メールや注文伝票のやりとりに活用する計画でした(画像の伝送は不可)。もちろん、最終的にはこのネットワークを取引先にも広げる予定です。
この先進性は、「バブコム80」が最初から多くの通信機能を持っていたことで可能となりました。
ネットワーク機能が自慢のバブコム80(右は通信用の音響カプラー)
しかし、SFCはこのサービスを始める前に、8億7000万円の負債を抱えて自己破産しました。1983年4月のことです。
SFCの倒産を知って、京セラの稲盛和夫、アスキーの西和彦ら、有名人が渡辺氏を激励してくれました。なかでも、いち早くかけつけ、再起の道を与えてくれたのが、西武流通グループの堤清二でした。
1984年8月、西武グループは渡辺氏を社長に、ニューメディア事業会社「リンケージ・システムズ」を設立します。実はここから、渡辺氏の爆走が始まるのです。
以下、時系列でその業績を見ていきます(新聞報道によるので、実際に実施されたかどうかは不明)。
●1985年3月 デザイナー向けCG作成システム発売(デザインソフト「イラストレーター」の一歩手前)
日本で初めてマウスに対応したNEC「PC-100」を使い、絵やCGを自由に描けるシステムを構築。完成画像をほかのパソコンに伝送することも可能。すでに完成された各種の絵も提供することで、デザイン作業を効率化。
日本で初めてマウスがついたPC-100
●1985年4月 「店舗のないデパート」で自宅ショッピング(アマゾンの一歩手前)
市販のパソコンを使い、家庭で電子メールが可能に。将来的には、百貨店、スーパーの商品情報に加え、映画、演劇、イベント情報を自由に見られるビデオテックス(双方向文字図形情報システム)を家庭に普及させ、自宅ショッピングを楽しめるように。ホームバンキングも視野。グループ全店へのビデオテックス設置後に実施予定。
●1986年3月 印刷業界用に画像データを外販(オンライン印刷の一歩手前)
オンラインで料理、風景、絵画など3000種類以上の画像を購入可能に。サイズ変更、色変更、色分解までを自動処理。できたデータは直接カラー印刷が可能なので、色分解技術者は不要に。その後、金属への印刷やビデオ映像の印刷なども事業化。
●1986年6月 書籍のデータベース事業(電子書籍の一歩手前)
ビデオテックスに書籍のデータベースをつくり、書店の店頭でデータ検索。希望する画面はそのままカラー印刷ができた。岩波書店と共同で実験。
電電公社が開発したテレホンカード式公衆電話(『アスキー』1981年10月号)
●1986年8月 テレホンカード向けの簡易印刷システムを開発(プリクラの一歩手前)
一般ユーザーが既存画像を使って、オリジナルのテレホンカードを作成可能に。1987年5月からは、顧客が持参した写真を1枚からテレカに印刷できるように
渡辺氏は、1985年の段階で「パソコンをあらゆる家庭に置き、新しい社会をつくり上げる」「端末を無料にし、通信料を無料にすればシステムは普及する」と語っています。それはまさに現代のネットそのもの。インターネットが普及する10年以上も前に、渡辺氏は日本のIT革命を準備していたのです。
残念ながら、1987年以降の動向は不明です。現在、存命なら80歳を超えています。本サイトの管理人は、ぜひとも歴史の生き証人として、渡辺昭雄氏にお会いしたいのです。
SFCのマイコンショップ
制作:2016年6月18日
※今回掲載した画像は、テレカ式公衆電話以外、すべて当時の広告、カタログから転載しています。著作権はいずれも各社に存在していますが、これらは本来、広く伝える用途で公表されたものであり、本サイトでも適正な引用だと判断し、公開しました。