新幹線の誕生
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新幹線の誕生
幻の完成予想図と「新宿」始発計画
新幹線の完成予想図(1959年)
1959年4月、国鉄は、東京の渋谷区と世田谷区の6カ所で地質調査を行いました。
場所は参宮橋、駒場、三軒茶屋、駒沢、九品仏、玉川野毛で、ここから多摩川を渡って直進すると、横浜の端を通って平塚に出て東海道線と合流できるのです。
この調査は新幹線のルート選定を目的としていました。このルートの延長には新宿が位置しており、当初、新宿が新幹線の始発駅として有力だったことがわかります。
もともと、東京駅、皇居前、品川、渋谷、五反田、東京湾の埋立地、市ヶ谷の旧陸軍士官学校跡などが始発駅の可能性がありました。
ところがボーリング調査の結果、地盤が非常に強固だとわかり、新宿は一躍注目の的になりました。
新宿が基点となった広軌新幹線ルート図
(『貿易と日本』1959年9月号より。名古屋ー京都が最後までルート未定)
当時、新宿周辺には、淀橋浄水場や、在日米軍の宿舎ワシントン・ハイツなど広大な敷地があり、もし始発駅となれば大きな駅前広場を作ることができました。
地下を通って東北線に線路をつなげることも可能で、新宿はターミナルとして申し分なかったのです。
しかし、結局、始発駅は東京駅となりました。
理由は不明ですが、調査の1カ月後、IOC総会で東京オリンピックの開催が決定したことが大きいと思われます。ワシントン・ハイツは東京五輪で選手村となり、駒沢は陸上競技場となりました。
あくまで推測ですが、新幹線とオリンピックの工事を同じエリアで同時に行うのは無理があったのかもしれません。
新幹線は、五輪に間に合わせるため工事を急ぎ、なんとか1964年10月1日に開通しました。東京五輪の開会式は10月10日です。ギリギリの営業開始でした。
それにしても、新幹線はどうしてわずか5年半で開業できたのか。今回は、超高速鉄道の知られざる開発物語です。
新幹線予想図(1959年)
東海道新幹線が開発された最大の理由は、戦後、日本の経済復興が進み、東海道線の輸送量が徐々に限界に近づいていたことにあります。
一般に貨物輸送量を測る場合、貨物のトン数と輸送距離を掛けた「輸送トンキロ」という数字が使われます。
1950年度、国鉄全線の輸送トンキロは333億、そのうち東海道線は59億で、およそ17.7%を占めていました。これが1957年度には22.8%を占めるまでになりました。
また、旅客の輸送量は、旅客数に乗車距離を掛けた「輸送人キロ」という数字が使われます。これも東海道線が占める割合は、22.2%(1950年度)から23.8%(1957年度)と上昇しています。
貨物新幹線の予想図
国鉄は、列車の増発や連結車両の増加、さらに電化の推進で輸送量をアップさせます。
しかし、東海道線は複線で、特急と貨物が混在して走ることから、1日片道120本の列車を走らせるのが限界でした。これでは、道路や空路が拡大しても、1961年か1962年頃にはパンクすると見なされていました。
そこで、国鉄は新幹線計画を推進するのです。
1957年8月、運輸省に「日本国有鉄道幹線調査会」ができ、1958年7月には新幹線を認める答申も出ました。同年12月には閣議でも了承。すでに調査や測量を進めていた国鉄は、1959年から本格的な工事に乗り出します。
計画のあらましは、東京ー大阪500キロを、最高時速250キロ、平均時速170キロで、3時間(貨物は5時間半)で結ぶというものです。
線路は東海道線とは別線で、「広軌」が採用されました。
模型による風圧実験
明治以来、日本の鉄道は、すべてレール間隔が1067ミリの狭軌でした。国際標準は1435ミリの広軌ですが、鉄道の導入時、大隈重信がお雇い外国人のアドバイスに従って採用したのです。狭軌は車両の走行が不安定になるため、スピードが出せない上に輸送量も制限されてしまいます。後にそのことに気づいた大隈は、「一世一代の失策」と後悔しています。
採用されなかった風圧ブレーキ
新幹線は、広軌で建造されることになりました。狭軌の方が土地代や線路代は安くすみますが、在来線との乗り入れ設備、
電化設備
(広軌=交流電気、狭軌=直流1500ボルト)を考えると、コストが余分にかかるからです。
参考までに、当時の予算案の比較をあげておきます(『科学朝日1959年2月号』より)。
●広軌:合計1725.4億円
土地(136.8億円)、線路(870.5億円)、軌道(118.5億円)、停車場(308.3億円)、
電化(140.9億円)、そのほか(50.4億円)、車両(100.0億円)
●狭軌:合計2020.0億円
土地(118.0億円)、線路(761.8億円)、軌道(100.0億円)、停車場(628.4億円)、
電化(240.4億円)、そのほか(71.4億円)、車両(100.0億円)
広軌にしたおかげで、1日片道180本程度の列車を走らせることが可能だと見込まれました。
用地は、戦前に東京ー下関を結ぶ
弾丸列車
計画があったことで、すでに30%は買収済みでした。その後も土地トラブルは比較的少なく、あとは、どこまで高速化できるかが問題でした。
広軌の採用など新幹線計画をまとめ上げ、プロジェクトを完成に導いたのは、かつて南満州鉄道の理事だった十河(そごう)信二国鉄総裁と、かつてD51機関車を設計した技師長の島秀雄です。島は、弾丸列車の実現に情熱を燃やした島安次郎の息子です。
新幹線計画で最も問題となったのは、加速するにつれ大きくなる振動でした。
そのことを重々承知していた島は、敗戦の翌年12月、鉄道技術者と航空技術者を集めて、「高速台車振動研究会」を発足させています。
振動を防ぐ試作台車
敗戦直後、GHQの命令で、日本は航空機の研究・生産が一切禁止されます。そのため、「零戦」「紫電改」など陸・海軍の飛行機を設計した航空技術者たちが失業し、路頭に迷っていました。彼らを大量に迎え入れたのが国鉄の鉄道技術研究所(鉄研)だったのです。
たとえば、元海軍航空技術者の松平精は、零戦を手がけていました。零戦は、試験飛行中にフラッターと呼ばれる振動(共振)を起こして空中分解しています。この問題を風洞実験などで解決したのが松平でした。
こうした知見が、鉄道の振動防止に役立ったのです。
ちなみに、松平らが1957年5月に行った「東京ー大阪間3時間への可能性」という講演が、新幹線開発が始まる直接のきっかけだったといわれています。
もともと新幹線は「万里の長城」「ピラミッド」「戦艦大和」に次ぐ「世界4大バカ」になるといわれ、国鉄内部でも反対の声が根強かったんですが、この講演が報じられると、一気に世論が味方についたのです。
浜松工場で行われた新幹線の強度実験
新幹線の工事は、難工事が予想された新丹那トンネルの鍬入式から始まりました。1959年4月20日のことです。
着工式では、十河国鉄総裁が「今後の洋々たる国運の隆盛に想いを致しますと、この新幹線の重要さは誠に大きなものがあると信じられます」と挨拶しています。
起工式で鍬入れを行う十河信二国鉄総裁
工事予算は、当初1725億円でしたが、国会では1972億円で通過しています。しかし、実際の見積もりは3000億円以上。新幹線が国益と信じた十河が、いわば騙し討ちで予算を通したのです。
そして、最終的に完成まで3800億円かかりました。この赤字の責任を取って、1963年5月、十河は任期切れを理由に辞任を余儀なくされます。
この事態を受け、十河に恩義を感じていた島も任期を残して辞任。
それから1年半後、新幹線は開業しますが、開業式に2人の姿はありませんでした。
この日の早朝、島は昔から住む高輪の高台にある自宅にいました。そのときの心境を次のように語っています(前間孝則『亜細亜新幹線』による)。
「辞める時には、新幹線はほとんど完成していたので、何も心配することはありませんでした。でも、招待状は来ると思っていましたが、何の手違いだか知らないが、こなかった。
一番列車は自宅で見た。その頃は建物の合間から見えた。命懸けでやれば変なものにはならないんだとつくづく思いました」
時速175キロという狭軌の世界最高速度を記録した速度試験
(1960年11月)
制作:2014年10月5日
<おまけ>
東海道新幹線は開業後、莫大な利益を稼ぎますが、国鉄全体は膨大な赤字を積み上げます。そのため、新型車両の開発費は捻出されず、
0系新幹線
は30年も運用されました。
しかし、1987年4月、国鉄が分割民営化されると、JR各社はいっせいに新型新幹線の開発に乗り出します。各社とも時速300キロ走行を目指しますが、このとき問題となったのが騒音です。特にトンネルに突入したときに起きる爆発音が問題でした。
どういうことかというと、車両がトンネルに入ったとき、空気もトンネル内に押し込まれ、まるで空気銃のように出口側で大きな音を出すのです。これが通称「トンネルドン」と呼ばれるトンネル微気圧波です。
この問題の解決には、JAXA(宇宙航空研究開発機構)などロケットや超音速機の技術が使われました。
現在の新幹線は、飛行機とロケットの技術の上に成り立っていたのです。
新幹線の風洞実験