常盤橋を早く渡ったものは好かったが、ぐずぐずしていて、内部が、内部にある印刷局が火になってしまった後は、そこには惨憺(さんたん)とした光景があたりに展開された。


 それというのも、皆な慌てて呉服橋の方へと向ったためで、車の歯は車の歯と噛み、荷物は荷物と重り合い、どうにもこうにもならないような形となった。すべてあそこいらは、肩と肩とが相触れるばかりではなく、人は人の上を乗越えて向うへ出ようとした。叫喚の声があたりに満ちた。

 荷物を持って行けないばかりではなく、後には、身一つですら、その混雑の中を技けて行くことは出来なかった。先に出ようとすると、大きな声で巡査が制した。

 常盤橋から呉服橋に出ようとする間にある橋、あれは何という橋だか忘れたが、あそこいらは、ことに雑沓が凄じかった。殆ど身揺(みうご)きすら出来ないくらいであった。火に追われた人達は、潮でもあるかのように滅茶苦茶に此方へと押寄せて来た。

 呉服橋の大通——あそこは丸の内へと入って行く大幹線道路のひとつなので、午後5時頃から群集と荷物とで一杯になっていたが、6時から7時になると、一層すさまじい光景を呈した。火が近づいて来るので、誰ももう気は気でなかった。皆なわくわくしていた。

『とても駄目でしょうかな、此方までやって来るでしょうかな!』

 こういう私語(ささやき)が到るところから起った。しかもそこにいる人達は、折角持ち出した荷物を捨てるのが惜しいので、思い切って橋をわたって丸の内の安全地帯に遁(に)げて行こうとはしなかった。8時から9時になると、もう橋の中の大きな建物や鉄道省が焼け出して、どうにもこうにも出来なくなった。もはや丸の内に逃げて行くことも出来なくなった。

 此処でも人が大勢死んだ。何でも鍛冶橋と呉服橋との間で、死屍が2300もあったということであった。

 日本橋——ことに魚河岸はひどいらしかった。あそこでも、堀割の中で溺れて死んだものが沢山に沢山にあったらしかった。

 それはずっとあとで、埼玉の方へと旅行した時のことであったが、久喜の停車場の二等待合で、汽車を待ち合わせていると、そこに、魚河岸のものだという、避難者の一人で、曾(かつ)ては狭斜(きょうしゃ=遊郭)にも籍を置いたことがあるであろうと思われる、何方かと言えば、粋な345の女が、頻(しき)りに田舎の人達を相手に、その当時のことを語っていた。

『それはえらいことでしたよ』

 かの女はこういう調子で、いかにも恐ろしかったという風で話した。

『私達はとにかく舟に乗れッて言うので、銘々大事なものを持って、それに乗ったんですよ。女子供は邪魔でもあり、また怪我などもあっては困るというので……。その舟ですか? それはそら、魚河岸に行くと、よくあるじゃありませんか。生魚を乗せて来るエンジンの仕かけてある舟、あれですよ。あれなら大丈夫だろッていうんで、皆なそれに乗せられたのですよ。

 何でも780人も乗ったでしょうかね。いざという時には、エソジンを動かして、何処まででも逃げて行こうというんですから、まア、安心なようなもんでしたんですけども……いざ、あたりが火になり出したとなると、それはえらいにも何にも……お話にも何にもなったものじゃありません。

 顔がピリピリと熱くって、とてもそこに出ていられやしません。それに煙いの何のッて言ったら? 今にも窒息して呼吸がなくなるのかと思うくらいでしたよ。

 それに、その舟の下のところには、氷庫が出来ていて、そこに下りていると、火の方は好いが、今度は冷めたくって、蒲団を氷の上に敷いて坐っているのだが、とても長く坐っていられない。本当に火水の責苦というのは、あのことだと思いましたよ。

 それから、舟は川の中を行くんですけれど、両側が火で、それがあおるように落ちかかって来るんですから、何のことはない、火の子の降る中を通って行くというようなものでした。ですから、あとでしらべて見た時には、780人も乗ったのが、あっちで落ち、此方で落ちして、終(しまい)には40人ぐらいになってしまいましたよ』

 かの女の話は容易に尽きようとはしなかった。