鉄道「流線型」革命
列車の高速化はどのように実現したのか

ウェスタン・パシフィック鉄道 913
ウェスタン・パシフィック鉄道 913(EMD F7形ディーゼル機関車、1950年、カリフォルニア州立鉄道博物館)


 1902年2月20日、詩人マリネッティはパリの新聞「フィガロ」に「未来派宣言」を発表します。当時イタリアは第一次世界大戦直前で不穏な空気が漂っていました。そして、虐げられてきた労働者の反発や植民地主義などに押され、伝統や旧弊をすべて否定するような気運が起こりました。

 未来派は進歩しつつあった機械や速度のダイナミズムを絶賛、まったく新しい美学を成立させました。原文は冗長でわかりにくいのですが、「我らが手に入れたスピードは、世界をより美しくした」として、「夜でも止まらぬ兵器庫の振動」「列車を呑み込み続ける駅」「煙を吐き続ける工場」「水平線を越えて進む商業船」「鉄路を驀進する機関車」「プロペラの轟音が心地よい飛行機」などを称賛したのです。

 そうした未来派の拠りどころとなったのが「流線型」と呼ばれるものです。

 汽車が動くとき、車輪の軸受と軸、線路と車輪の間など、さまざまな場所に抵抗が生まれます。さらに、大きな問題になるのが空気抵抗です。ものが高速で動くと、そこに空気による複雑な渦が生まれます。加速すれば、後部に真空に近い場所ができ、これが後ろに引っ張る力につながります。つまり、汽車や車が動くには、多くの抵抗を振り切って進む必要があるのです。「振り切って前に進む」、これこそ、まさに未来派が望んだことでしょう。

 そんなわけで、今回は「流線型」の歴史を振り返ります。

満鉄あじあ号
満鉄あじあ号(『科学朝日』1942年10月号)


 世界で初めて車の大量生産に成功したヘンリー・フォード。ヘンリーは、1896年、初めてガソリン自動車を製作しますが、商売はうまくいきません。それはあまりに高額だったからです。しかし、1908年に発売されたT型フォードは格安で、1年間で1万台以上を売り上げたとされます。

 道路も整備され始め、ついに車の時代が始まりました。特にアメリカでは、バスによる長距離移動も当たり前になっていきます。これに困惑したのが、それまで物資輸送を担っていた鉄道会社です。鉄道が運んできた旅客や物資が次々に自動車に奪われていくなかで、鉄道会社も、蒸気機関車ではなく、ガソリン機関やディーゼル機関など、いわゆる内燃機関の導入を図ります。

 しかし、スピードが速くなるにつれ、空気抵抗の問題が大きくなってきました。

 空気抵抗は、車両の断面積と速度に関係します。断面積が大きければ大きいほど、速度が速ければ速いほど空気抵抗は大きくなります(空気抵抗は速度の2乗に比例)。しかし、断面積を小さくするのはなかなか難しいので、空気をうまく逃がして抵抗を減らすことが求められました。これが「流線型」の始まりです。

「北方急行」ポスター
「北方急行」ポスター(カッサンドル、1927年、英国科学博物館グループのサイトより)


 世界初の流線型機関車は、1900年、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道が製造した「ウィンドスプリッター」だとされています。しかし、写真を見ればわかるとおり、流線型の特徴はほぼなく、実際になんの効果もなかったと言われます。

ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の「ウィンドスプリッター」
ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の「ウィンドスプリッター」(アメリカ議会図書館)


 1930年代には、アール・デコの影響を受け、流れるような流線型デザインが鉄道車両に広がりました。そうしたなか、イタリアの自動車メーカー「ブガッティ」も流線型の車両を発表しています。フランス国鉄のために、名車「タイプ 41ロワイヤル」のエンジンを搭載した「オートレール」を開発。1933年、当時の世界記録である時速172km(1934年に時速196km)を実験的に記録しています。

オートレール
オートレール(ブガッティ広報資料より)


 営業運転では、1934年に導入されたアメリカ初の流線型気動車特急、ユニオン・パシフィック鉄道のM-10000形が有名です。
 
 それまでの記録は、1906年、サンフランシスコ地震で記録された救援列車で、これは最高時速90km程度だったと考えられています。当時の鉄道王ハリマンが、ネブラスカ州オマハからサンフランシスコまで、驚くべきスピードで支援物資を運びました。
 
 その記録を塗り替えたM-10000形はジュラルミン製で、ロサンゼルス〜ニューヨークおよそ5365kmを57時間ほどで疾走。平均時速100km弱で、最高時速は190kmを超えたとされます。なお、ジュラルミン製だったことが仇となり、戦争で金属供出の憂き目にあい、車両は現存していません。

M-10000形
M-10000形(アメリカ議会図書館)


 同時期に、シカゴ・バーリントン・クインシー鉄道は、「パイオニア・ゼファー」という気動車を採用し、一世を風靡しています。また、バーリントン鉄道では、M-10000形に対抗すべく、新しいディーゼル電動車を導入、こちらは平均時速104kmを実現したとされています。

バーリントン鉄道の流線型特急
バーリントン鉄道の流線型特急(『科学画報』1936年4月号)


 1937年、アメリカでは、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道が、世界初のディーゼル流線型列車「ロイヤル・ブルー」号を導入。明るいグレーとロイヤルブルーに金色のストライプを入れた、美しい流線形の車両を導入します。まるで弾丸のようで、あまりの格好よさに、人々は驚嘆した、と記録されています。

オットー・クーラーの試作デザイン
「ロイヤル・ブルー」をデザインしたオットー・クーラー(Otto Kuhler)の試作デザイン(『科学画報』1936年4月号)

「ロイヤル・ブルー」
「弾丸の先端」を採用した実際の「ロイヤル・ブルー」(ウィキペディアより)


 また、1938年には、ニューヨーク・セントラル鉄道のニューヨーク〜シカゴ間の特急列車で流線型のNYCハドソン機が登場。これは「20世紀 特急」として知られています。

「20世紀特急」の宣伝ポスター
「20世紀特急」の宣伝ポスター(カリフォルニア州立鉄道博物館)


 流線型はアメリカで花開きましたが、その他の国でも盛んに研究・採用されました。たとえば、ドイツ国鉄05形蒸気機関車は、試験改造を経て、 1935年にボルジッヒ社が制作しました。また、1934年には、南満州鉄道でパシナ形蒸気機関車(満鉄あじあ号)が運行を開始しています。
 
 いずれも、流線型が「絵になる」ことから、当時の科学雑誌ではしばしば表紙を飾ることになります。

ドイツ国鉄05形機関車
ドイツ国鉄05形機関車(『科学画報』1936年4月号)


 さて、では日本はどうか。移動する人が増えると、駅での停車時間を減らし、できるだ運転間隔を短くする必要があります。そうした運用をするには、従来の蒸気機関車は不向きです。そこで、日本でも、ガソリンで動く機関車が徐々に採用されるようになります。

 そうしたなか、昭和初期に鉄道省が開発したのが、ガソリンで動く「キハ42000形」です。名古屋、大阪で最初に導入され、その後、各地に広がっていきました。前型の41000に比べ、車体前頭部が半円形スタイルになっており、実際に空気抵抗が減ったことがわかっています。

キハ42000形
キハ42000形(『科学画報』1936年4月号)


 空気抵抗を減らす流線型は、長大な蒸気機関車より、軽量のガソリン機関車で特に重視されました。

 実は、空気抵抗は重量とはあまり関係ありません。1両で動く列車も10両で動く列車も、空気抵抗はほぼ一緒です。逆に言うと、1両で動く車両は、10両で動く列車のざっくり10倍の空気抵抗を受けることになります。それだけ、馬力が必要になるわけで、まずは編成の小さい機関車、さらにいえば車長の短い自動車から流線型の研究は始まりました。流線型にすれば燃料も少なくて済み、さらに乗り心地もよくなることで、研究は加速度的に 進むのです。

 鉄道省の技術者が、蒸気機関車と42000型の空気抵抗について語っています。およそ90年前の見解なので、現実に正しいのかどうかはわかりま せんが、当時の科学力を示すものとして掲載しておきます。

 1930年、東京〜神戸間で運転を始めたSL超特急「燕」は平均時速65kmで、最高時速95kmでした。

《この程度の速度では、空気抵抗の走行抵抗(注:SL全体にかかる抵抗)に対する割合は10%ぐらいに過ぎないから、仮に機関車を流線型にするこ とによって空気抵抗を半分に減じ得たとしても、走行抵抗の5%ぐらいしか減じないので、あまり大した効果はない》(『科学画報』1936年4月 号)

 たしかに、これでは巨額の予算をかけて技術開発が進むわけもありません。

C53の流線型改造版
1934年に登場したC53の流線型改造版。「燕」にも使用された

C55流線型
1936年以降はC55も流線型に。主に急行列車を牽引


 一方の42000型は、

《平坦線を走るときには時速45kmあたりで、すでに空気抵抗の大きさが車輪車軸の摩擦抵抗と同じになり、時速80kmになると、空気抵抗が非常に大きくなって、走行抵抗の80%ほどになる。言い換えると、機関が出している力の約8割が空気を押し分けて進むのに用いられる》(同)

 これが正しいとしたら、ガソリン気動車で流線型が進む理由もうなずけます。

42000型
42000型(九州鉄道記念館)


 日本では、安全上の理由で、列車は時速95km以上出すことが禁止されていました。しかし、高速化とともに、この規則も撤廃されました。こうして、蒸気機関車の時代が去るとともに、世界中で流線型の開発競争が進むのです。

 1937年(昭和12年)、鉄道省は外国人観光客を誘致するため、斬新なポスターを制作します。著名なグラフィックデザイナーである里見宗次が作ったもので、疾走する列車が消え、スピード感が直線的なデザインで表現されています。里見は、1922年に渡仏し、アールデコのデザイナーとして活躍。このポスターは、1937年のパリ万博で名誉賞と金杯を受賞するのです。

鉄道省「JAPAN」ポスター
鉄道省「JAPAN」ポスター(アドミュージアム東京)

 1902年に始まった「未来派」の思いは、1937年、このポスターで結実したと言ってもいいかもしれませんね。

「流線型」の誕生/プロペラ鉄道の世界

制作:2024年11月17日


<おまけ>

 流線型は、車や鉄道だけではなく、船でも想定されました。たとえば、アメリカの工業デザイナーであるノーマン・ベル・ゲデスは、流線型船舶をデザインしています。しかし、船舶の高速化はなかなかうまくいかず、結果的に原子力船につながっていくのです。

ノーマン・ベル・ゲデスの流線型船
ノーマン・ベル・ゲデスの流線型船(『科学画報』1936年4月号)
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