「イスラム国」誕生への道
始まりは500年前の「カピチュレーション」?
イスラム国(ISIS/ISIL)の軍事訓練
(公開されたビデオより)
日産自動車のカルロス・ゴーン社長は、フランスの「パリ国立高等鉱業学校」という超名門大学を卒業しています。しかし、高校までは両親の故郷レバノンで過ごしました。レバノンは国民のほとんどがアラブ人であるにもかかわらず、20ほどの宗教が共存しているモザイク国家です。
ゴーン社長はキリスト教徒ですが、マロン派カトリックという、レバノン以外では比較的珍しい宗派です。
今回は、このマロン派を入口に、「イスラム国」誕生までの道を検証していきます。
現在のシリア・レバノンは、かつてオスマン帝国に支配されていました。オスマン帝国は、16世紀前半、対外遠征を繰り返したスレイマン1世の時代に最盛期を迎えます。
ちょうどその頃、西側にはハプスブルク家が繁栄していました。
ハプスブルク家支配地(ウィキペディアより)
上の地図の緑の部分が、1547年のハプスブルク家の支配地です。その谷間にあるのがフランス。
当時、弱小だったフランスのフランソワ1世は、ハプスブルク家のプレッシャーに対抗するため、敵の敵であるオスマン帝国と手を結びます。
1536年、オスマン帝国が、フランスに対し特権を与えます。領土内のフランス人に対し、生命の安全、通商・居住の自由、領事裁判権、租税免除などを保障する「カピチュレーション」です。
カピチュレーションは、1579年、イギリスにも与えられます。この段階では、強国オスマン帝国が弱小国に対して与えた「異教徒保護」の恩恵でしたが、18世紀になってオスマン帝国が衰退していくにつれ、「帝国主義の入口」のような様相を呈してきます。
つまり、強国(フランス、イギリス)が弱小国(オスマン帝国)に対して結ぶ不平等条約となっていったのです。
シリアの旅人(1930年頃、以下同)
1860年、マロン教徒がオスマン帝国に対し、武装蜂起を起こします。このとき、同じカトリックのフランスが支援。一方、イギリスがドゥルーズ派のイスラム教徒を支援したことで、状況は大混乱。
結果として、ドゥルーズ派(イスラム教)がマロン教徒(キリスト教)を1万人以上殺害するデイル・エル・カマールの虐殺につながります。
虐殺事件を受け、フランスのナポレオン3世は、キリスト教徒保護を口実に、シリアへ6000人の兵を派遣します。「カピチュレーション」違反なので、オスマン帝国も黙認せざるを得ませんでした。
これ以後、フランスは特権の下で、シリア周辺への投資を加速させます。たとえば、ヤハウェとエルサレムを結ぶ鉄道はフランス資本で作られ、この鉄道はさらに拡張していくのです。
シリアの刀剣屋
第1次世界大戦が始まると、同じく特権を持っていたイギリスは、シリア領有を目指します。
1915年、エドモンド・アレンビー将軍が、20万の兵士と16万頭の家畜を引き連れ、エジプトを出発。翌年にはエルサレムを陥落させます。
1918年には、カイロとエルサレムを結ぶ鉄道が敷設され、遠征軍はさらにオスマントルコ内部へ侵攻します。そして、同年、シリアのダマスカス陥落。
ダマスカス
1920年、イギリスは、ハシム家(イスラム教の創始者ムハンマドの直系とされる名家)の三男ファイサルをシリア王として即位させます。しかし、フランスはこれに異を唱え、王を追放。結局、サンレモ会議によって、フランスがシリアを委任統治領としました。
イギリスは、このとき交換条件としてパレスチナを委任統治領にしており、エジプトとインドを結ぶ陸のルートを確保。また、フランスに追われたファイサルを皇帝にして、イラクを独立させるのです。
1922年、国際連盟はフランスのシリア委任統治権を承認。フランスはシリアの通貨ピアスターとフランを連動させる経済政策をとります。
シリアではフランスへの抵抗運動が盛んになりますが、特に激しい抵抗運動が1926年に起きています。
フランスは、第1次世界大戦後、財政再建がうまくいかず、この年、フランが前代未聞の大暴落を起こすのです。当然、連動していたシリア通貨も下落し、市民生活は恐慌を来します。
こうして、ドゥルーズ派のイスラム教徒が中心となって、首都ダマスカスを占拠。町の中心部はフランスの空爆によって完全に破壊され、反乱は鎮圧されました。
しかし、これをきっかけに、シリア全土で反仏闘争が巻き起こります。
シリアの反フランスの民兵
1936年、独立を目的にしたマロン派系の「ファランヘ党」が設立されます。ファランヘ党は、ヨーロッパで台頭していたイタリアのファシスト党やドイツのナチスを模範としていました。この民兵組織が、反フランスの抵抗運動を進めます。
1941年、フランス本土がドイツに侵攻されていくなかで、シリアとレバノンが相次いで独立を宣言。これをイギリスが即座に承認したことで、戦後、正式に両国は独立します。
ダマスカスの陶器屋
1948年、イスラエル建国。これにより、難民となったイスラム教徒がレバノンに大量に流入。
レバノンの「ファランヘ党」は、国内のイスラム勢力に対抗するため、一気に親イスラエル路線に変わっていきました。
レバノンは、中東では珍しいキリスト教徒が中心の国家となっていましたが、パレスチナ難民の大量流入によってバランスが崩れると、長期の内乱が始まります。パレスチナ解放機構(PLO)やドゥルーズ派(イスラム教徒)と、マロン派(キリスト教)は激しく争い、お互いに誘拐・拷問・処刑という残虐行為を繰り返します。
さらにPLOがイスラエルを攻撃することで、レバノン内乱にイスラエルが参戦。
レバノン国内のイスラム過激派の勢力が増すと、その一派がいるシリアもイスラエルから攻撃を受けるようになり、今度はシリアもレバノンに駐留します。
レバノンのベイルート
レバノンに駐留したシリア軍は、レバノン国内のイスラム過激派の掃討に乗り出します。こうして、シリアのアサド政権は、国内のイスラム諸派と対立することになり、1981年、ハマーで大虐殺事件が起きます。1万人とも4万人とも言われるイスラム教徒(スンニ派)がアサド政権(シーア派に近いアラウィ派)によって殺されたのです。
これがシリア内戦につながります。
一方、イラクでは、アメリカが原油欲しさに戦争を起こし、占領。イラク軍の兵士や政府の官僚を大量にリストラします。地元に帰ったイラク人が米軍の空爆に遭い、多くの人材がアルカイダに合流。イラク式の軍事訓練と統治方法を伝えます。
まもなく過激なイスラム国が生まれ、イラクの油田に次いで、隣国シリアの油田も占領。
シリアではアサド政権(ロシア、イランなどが支援)と反体制派(サウジアラビア、トルコ、英、米、仏が支援)の戦いが続いていましたが、ここにイラクからイスラム国(スンニ派)が割り込んできたわけです。その流れにクルド人やらアルメニア人やらが巻き込まれ、シリア情勢は混沌を極めているのです。
そして、イスラム国は2014年6月29日、最高指導者アブ・バクル・バグダディの下で、「カリフ」(イスラム教の開祖ムハンマドの正統な後継者)が統治する新たな国を樹立するのです。
シリアのバールベック遺跡
制作:2015年2月3日
●アラビアのローレンス:イラク・ヨルダン独立への道