「鉄道連隊」の遺構を探せ!
「軍用工作列車」内部写真を公開

陸軍鉄道大隊の演習(明治時代)
陸軍鉄道大隊の演習(明治時代)


 靖国神社にある軍事博物館「遊就館」で、ゼロ戦と並んで人気ある展示品が、蒸気機関車C56型31号機です。

 このSLは、1936年(昭和11年)、日本車輌・名古屋工場で製造され、石川県の七尾機関区で活躍していました。その後、神戸港からタイに送られ、1942年、マレー戦線に投入。さらに同年10月末、泰緬鉄道に入り、開通式に参加しています。

蒸気機関車C56型31号機
蒸気機関車C56型31号機


 泰緬鉄道とは、日本陸軍が、タイ(泰)からビルマ(緬甸)間に敷設した全長約415kmの山岳列車です。わずか1年ちょっとで完成しましたが、連合軍の捕虜6万人超、現地の労働者30万人を動員し、過酷な労働に従事させたと言われます。

 現場は、雨期には水位が20メートルも上がるような渓谷で、そこにジャングルから切り出した材木で橋脚を組んでいきました。資材も少なく、ダイナマイトを使った後は、ノミとハンマーで切り通すような工事が続いたと伝えられます。

 泰緬鉄道は、戦後、分断され、現在はタイからミャンマー(ビルマ)に鉄路で行くことはできません。国境は、車やバスでしか行けず、それほど観光客がいるわけでもありません。

 泰緬鉄道を建設したのは、ミャンマー側が鉄道第1連隊(千葉)から送られた鉄道第5連隊、タイ側が鉄道第2連隊(津田沼)から送られた鉄道第9連隊です。実は、日本の鉄道連隊は、ほぼ鉄道第1連隊と鉄道第2連隊が母体になっています。今回は、そんな鉄道連隊の歴史をまとめます。

泰緬鉄道が通っていたタイ〜ミャンマー国境
かつて泰緬鉄道が通っていたタイ〜ミャンマー国境(1993年)


 1895年(明治28年)、日清戦争が終わると、大陸の占領地などへ物資を運ぶため、軍用鉄道の必要性が陸軍内で叫ばれます。そこで、ドイツ陸軍にならい、1896年、鉄道大隊が創設。任務は、兵隊や軍需品の輸送、戦地での鉄道建設、修理、運転などです。

東京・中野にあった陸軍鉄道大隊
東京・中野にあった陸軍鉄道大隊(1903年)


 1904〜05年の日露戦争では、北京とハルビンを結ぶ鉄道(現在の京哈線)の建設・修理、軽便鉄道の建設などで活躍します。日露戦争が終わると、鉄道大隊は鉄道連隊に格上げされ、東京・中野から千葉県に移転します。1918年(大正7年)、鉄道連隊は2個に増設され、鉄道第1連隊が千葉に、鉄道第2連隊が津田沼に設置されます。

 鉄道連隊は、演習のため、千葉県各地に鉄道を敷設しました。中心となったのは習志野線(習志野〜千葉)、下志津線(千葉〜四街道)、松戸線(津田沼〜松戸)で、習志野線と下志津線は現在は廃止され道路などに転用されています。千葉市の通称「軽便道路」、習志野市の「マラソン道路」などがそれに当たります。

カーブが多い新京成
カーブが多い新京成


 一方、松戸線は、現在も新京成電鉄として残されています。新京成はきわめてカーブが多いことで知られていますが、これは複雑な地形に線路を敷設する訓練用だったからです。また、盲腸線で名高い久留里線(木更津〜上総亀山)も、1912年、訓練の一環として軌間762ミリの軽便鉄道を敷設したのが始まりです。

 京成電鉄は、1912年、東京・押上〜江戸川間で営業運転を始めます。その先を延伸して千葉県に出るのが喫緊の課題でしたが、江戸川を渡る工事が難航、いつまでたっても進みません。そこで、鉄道連隊が工事を担当したことで、1914年、ようやく千葉県に乗り出すことができました。これが現在の京成江戸川橋梁です。

京成江戸川橋梁
京成江戸川橋梁


 鉄道連隊の遺物は、現在も各地に残されています。

 鉄道第1連隊の遺構で有名なのは、千葉公園駅(千葉都市モノレール)近くにある、コンクリート製の巨大な演習用トンネルです。また、公園内にはコンクリート製の2基の橋脚も残っています。この上に橋を渡しては壊す演習が繰り返されました。頑丈すぎて、いまも壊していないのです。

 また、千葉経済大学のキャンパスには、機材の保管やSLの修理に使っていた長さ約54メートルの「材料廠(しょう)」が残されています。

鉄道連隊・演習用のトンネル
演習用のトンネル

鉄道連隊・演習用の2基の橋脚跡
演習用の2基の橋脚跡


 一方、鉄道第2連隊の遺構としては、レンガ造りの表門が有名です。津田沼駅南口から線路沿いを歩くと千葉工業大学の通用門がありますが、これは鉄道第2連隊の営門でした。赤れんがの柱の上部に丸い街灯は当時のままです。ちなみにこの門の右手には木造の衛兵詰め所があり、門の前には、24時間、衛兵が立っていました。近くには大きな桜の木がありました。なお、この門は1998年、国の登録有形文化財に指定されています。

鉄道第2連隊の営門
鉄道第2連隊の営門

鉄道第2連隊の営門(現在は千葉工業大学の通用門)
現在は千葉工業大学の通用門


 当時使われたSLも残されています。江古田の出版社エリエイは、会社の前に野戦軽便鉄道用・E18型蒸気機関車(1921年)を保存しています。また、津田沼第一公園にはK2形134号機(1943年)があります。


鉄道連隊E18型
E18型

鉄道連隊K2形134号機
K2形134号機


 さて、先に触れたとおり、鉄道連隊の任務は、鉄道による物資や兵の輸送ですが、なにもない原野に鉄道を敷くのはそれほど簡単ではありません。そうしたなか、野戦鉄道の敷設を圧倒的に簡略化した発明が「軌匡(ききょう)」です。

 軌匡とは、あらかじめレールと枕木をはしご状に一体化したもので、長さ5メートルの軌匡に幅600mmの線路が取り付けられていました。実は、上記のE18型とK2形はいずれも軌間600mmで、軸配列0-10-0形(軸が5本で車輪が10個)という共通項があるのです。

 軌匡は、フランスのドコービル社の発明ですが、鉄道連隊は、この軌匡の採用によって、迅速な鉄道敷設を可能にしたのです。

鉄道連隊・軌匡を運ぶ兵士
軌匡を運ぶ兵士


 鉄道連隊は、太平洋戦争末期にはさまざまな作業を担わされることになります。それは、「軍用工作列車」や「鉄道行軍」といった言葉で語られますが、鉄道車両が大砲や機関銃の修理工場になったり、車両そのものが装甲車のようになるなど、鉄道の意味合いが次第に変わっていったからです。

線路も走れる91式広軌牽引車
路上だけでなく線路も走れる91式広軌牽引車


 さて、では、鉄道部隊は実際にどのような戦いをしたのか。『日の出』昭和15年4月陽春号に、「素手で造る機関車 鉄道部隊の奮戦手記」として、中村素直・陸軍工兵大尉が手記を寄せています。

 その一部をここに掲載しておきます。

《(中国安徽省の)明光の駅は確保することができたが、それから先、固鎮までの間は、レールはもちろん、枕木も犬釘もなく、まったく新設工事と同様の作業で、材料を揃えるだけでも非常な困難を極めた。

 その途中には長さ600メートルの黄河の鉄橋に次ぐ大橋梁があって、これがめちゃめちゃに壊されている。濁流は滔々と渦巻き流れ、舟で渡るだけでも容易な業でなかった。橋梁をつくるには、まず舟で位置をきめ、河床に杭を打ち込むのだが、この打枕作業がたいへんだった。

日本軍による黄河の修復
日本軍による黄河橋の修復


 しかし、部下諸兵の困苦欠乏に耐える軍人精神は、ついにこの難関にうち勝ち、着手してから15日目の5月2日、だいたいこの架橋を終わり、5月 5日には、畑司令官閣下の臨席の上、盛んな開通式をあげた。

 その頃、すでに徐州会戦がはじまり、開通式のあった夜、私たちは歩兵部隊に先行して、固鎮に向け徒歩で出発した。途中、 大雷雨にあって、全員泥人形のようになり、しばしば敵襲をうけながらも前進して、7日には澥河の南岸にある新馬橋駅を占領した》
 
 新馬橋駅の占領はできたものの、川向こうは敵の陣地で、部隊はたちまち敵に包囲され、完全に孤立してしまいます。しかし、食糧も弾丸も尽きるなか、味方の応援が来るまで、6日間にわたってこの地点を死守したのです。ただ輸送するだけではない、厳しい戦闘ぶりが伺えます。

津浦線 (天津〜上海) の開通式
津浦線 (天津〜上海) の開通式


 鉄道第一連隊が千葉県の椿森地区に移転して以降、周辺には陸軍の関連施設が相次いで設置されました。陸軍歩兵学校、気球連隊、千葉陸軍戦車学 校、千葉陸軍高射学校などで、千葉は軍都として発展していました。当然、戦争末期には、千葉への空襲も激しくなりました。

 特にひどかったのが1945年6月10日と7月7日(七夕空襲)の2回で、これにより市街地の7割が焼失したとされます。鉄道連隊もこのとき、 ほとんど焼失の憂き目にあっています。

 七夕空襲の約2週間後、日本は終戦を迎えます。鉄道は戦後の国土復興を担い、1949年、連合国軍総司令部(GHQ)の指示により日本国有鉄道に生まれ変わるのでした。

鉄道連隊・戸鹿野橋(群馬県沼田市)の建造
戸鹿野橋(群馬県沼田市)の建造


制作:2023年6月19日

<おまけ>

 軍用工作列車の珍しい内部写真が、『陸軍画報』1934年5月号に掲載されているので、いくつか転載しておきます。

軍用工作列車全景
軍用工作列車全景

軍用工作列車・動力車両
動力車両

軍用工作列車・兵器などの仕上げ車両
兵器などの仕上げ車両

軍用工作列車・旋盤車両
旋盤車両

軍用工作列車・酸素アセチレン溶接車両
酸素アセチレン溶接車両

軍用工作列車・自動車工場車両
自動車工場車両

 
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