地盤沈下/東京が沈んでいく
あるいは「工業用水」の誕生

有楽町の地盤沈下
有楽町の地盤沈下(産業組合中央金庫、後の第一生命館前)



 1931年6月、江東区猿江の豆腐屋で爆発事故が起きました。井戸からメタンガスが出ていたのに気づかず、これに引火したものと見られます。その後、メタンガスの噴出は止まりましたが、7月に起きたやや大きめの地震で、再び噴出が始まりました。

 東大地震研究所の宮部直巳は、ガスの噴出は地震による地盤の変動によるものではないかと推測し、本所や深川の水準点(高さの基準となるポイント)を測定しました。すると、驚くことに、何カ所かで激しく沈下していることがわかりました。

 東京の地面の高さは、「霊岸島水位観測所」の平均海面をもとに決められ、国会前庭にある「日本水準原点」がすべての基本になっています。この「日本水準原点」をもとに、東京(日本)中に「水準点」が作られました。しかし、この水準点そのものが大きく沈んでいく事態になっていたのです。


霊岸島水位観測所
霊岸島水位観測所



 もちろん、水準点は設置された明治以降、何度か再測量されてきたので、地盤が沈んでいること自体は知られていました。
しかし、それは年間数ミリ程度で、ほとんど大きな問題になっていません。それが、1923年の関東大震災以降、地盤沈下が激しくなっていたのです。先の江東区で言えば、5cm、7cmといった大きさで沈下が観測されました。これは非常にまずいのではないか……こうして地盤沈下の研究が始まりました。

 今回は、地盤沈下の歴史についてまとめます。

日本水準原点
日本水準原点



 関東大震災が起きると、江戸以来の町並みは壊滅し、街には一気にビルなど近代建築が建ち並びました。道路は次々に舗装され、交通も格段に増えていきます。まさに「帝都」の面目躍如と言ったところですが、それから10年ほど経ち、東京ではゆゆしき問題が起こり始めました。街がどんどん沈んでいることがわかったからです。

 沈下は、特に巨大なビルが集まった東京の中心部、丸の内や日比谷が顕著でした。
 1936年11月、宮部直巳は、丸の内・日比谷一帯の「沈下量」を測定しています。

●東宝劇場 12cm
●海上ビル 14cm
●丸の内警察署 30cm
三信ビル 42cm
●東京電燈ビル 80cm

 といった具合です。建造年数から算出すると、東京電燈は年間7.4cm、東宝劇場は年間4.4cm、海上ビルは1.4cmも沈んでいる計算になります。調査の結果、日比谷は丸の内の倍くらいで沈んでいることもわかりました。
 これはいったいどうしてか。

三信ビルの巨大な沈下
三信ビルの巨大な沈下



 当時、その理由はいろいろ考えられましたが、それは以下のようなものです。

●高層建築の増加による地表面の荷重の増大
●排水施設の完備、舗装道路の増加、住宅・工場増による地下水の減少
●地下水の減少による浮力の減少、土層の干上がり
●地層そのものの緊縮
●井戸の増加による地下噴気圧の低減
●交通の増大による振動の悪影響

 これらの密接な関係により、地盤が沈むのです。

丸ビル前の舗装は大きな斜面になっていた
丸ビル前の舗装は大きな斜面になっていた



 実は、関東大震災が起きたため、復興局は4年にわたり、東京の大規模な地質調査をおこなっています。その調査報告書には驚くべきことが書かれていました。

《元禄年間においても浅草観音付近は「間越村」と称し、湯島天神は北東方の海中の小島にして、隅田川下流(宮戸川)の 落口にあたり、今日の人形町付近もまた潮入地中の干潟なりしといい、下町の大部は概して埋築にかかれり》(復興局建築部『東京及横浜地質調査報告』)

 浅草近辺は川に囲まれた島だったため「間を越えて」行く村だった。湯島天神は川の河口にある島だった(上野公園の不忍池も当時は川)というのです。かつて人形町付近は干潟で、ヨシ(=アシ)が大量に生えている寂しい原っぱだったことから、ここに風俗街が置かれました。後に移転して「吉原」になります。

 また、日比谷はかつて海の底で、日比谷入江と呼ばれていました。丸の内も、かつては丸の内渓谷と呼ばれました。

1640年代(江戸時代初期)の海岸線
赤い線が1640年代(江戸時代初期)の海岸線(『東京及横浜地質調査報告』)



 東京の中心部は、単なる埋立地です。土壌で見ると、地下20〜25メートルにある硬い岩盤(第三紀層)の上は、柔らかい粘土層やローム層(沖積層)で覆われており、この地層がどんどん沈んでいくのです。

 明治になって、さまざまな近代建築が建てられましたが、こうした建物は、地盤が沈んでもそのまま建物全体が沈むので、それほど大きな問題にはなりませんでした。

 関東大震災以後の建物は、基礎工事の際、20メートル以上の杭を打つようになったので、建物そのものは沈みません。しかし、地面が沈めば、建物1階の床面は沈んでしまいます。そのため、1階に階段をつけるような対策が必要になるのです。当時は、地下が1階になってしまうのではないかとも恐れられました。東京を、前代未聞のトラブルが襲うことになりました。

 しかし、戦前の地盤沈下は、これ以上大きな問題になることはありませんでした。地下が1階になるようなことはなく、なんとなく道路を嵩上げするような対策で乗り切ることができました。被害が甚大になるのは、戦後の高度経済成長期です。それは、どういうことか。

地盤沈下で階段3段状になった大阪駅
地盤沈下で階段3段状になった大阪駅



 世界で初めて人工雪の作成に成功した中谷宇吉郎は、1959年、日本の電力が足らないという文脈で、エッセイ『科学ブームへの苦言』でこう書いています。

《日本の水力(発電)は、水を非常に粗末に扱っているので、合理化をすれば、現在の倍くらいまで出せると、専門家は言っている。電気を起こしても、水は無くならないのであるから、灌漑用水、工業用水、飲料水などの諸問題の解決にも、水資源の総合開発は重大事である。東京地域の工業用水、飲料水の不足は、目前に迫っている》

 この指摘どおり、東京の工業用水、飲料水は目に見えて不足しそうになっていました。戦前からの配水網と激増する人口のアンバランスから、1961年の段階で東京区部の面積で26%、人口で17%(140万人)が未給水区域に住んでいました。

 下の図は1961年の給水マップですが、黄色が給水不良エリアです。右下の江東区などは、壊滅的に水道事情が悪かったことがわかります。

1961年の未給水マップ
給水マップ(東京都首都整備局『首都の整備』1961年)



 そして、江東区は工業化も進んでおり、工場が次々にできていました。工場は工業用水として、オフィスビルは冷暖房用として大量の地下水を汲み上げ、もちろん住宅の地下水利用も激増した結果、地盤沈下が大きく進んだのです。

 1892年(明治25年)から1963年(昭和38年)のおよそ70年で、江東区で3〜4メートル、墨田区で2〜3メートル、足立区で1〜1.5メートル沈んだとされます。年間20cm沈下するところもあり、1964年当時、東京の最も低い場所は海面下2.47メートルを記録しました。いわゆるゼロメートル地帯は37平方キロまで拡大しています。
 なお、大阪でも、1935年以降の30年間で、臨海部で2.6メートル、都心部でも1メートルほど沈下しました。

「マイナス地帯」と呼ばれた大阪の中島付近
「マイナス地帯」と呼ばれた大阪の中島付近



 地盤沈下は、台風などで2つの大きな被害をもたらします。高波に襲われることと、もうひとつ、溜まった水がなかなか排水されないことです。

 実際、1947年のカスリーン台風では、東京は高潮による大きな被害が出ました。ちなみに、大阪ではジェーン台風(1950年)、名古屋では伊勢湾台風(1959)で地盤沈下の悪化に気づき、対策が進んだとされます。また、天然ガスの採掘で地盤沈下が進んだ新潟は、新潟地震(1964年)により液状化現象、家屋浸水などで大きな被害を受けることになります。

 さて、以下に江東区の地盤沈下がいかにひどいかがよくわかる写真を上げておきます。下の写真は江東区南砂町にある「地盤沈下観測所」です。脇には、海面の高さを示すポールが立っています。

海面の高さを示すポール
海面の高さを示すポール


 上から「外郭堤防高」「過去最高水位」「キティ台風」「1918年の地表面」「満潮位」「平均海面」「干潮位」となっています。歩道が干潮位より下なのは恐ろしいですね。

 一度地盤が沈むと、あとは「地下水の汲み上げ規制」で沈下を防ぎ、「外郭堤防の建造」で高波を防ぐという2本立てしか対策はありません。そして、これは巨額の予算を必要としました。

外郭堤防と排水用の水門
外郭堤防と排水用の水門(中央区月島)



 国は1956年に「工業用水法」を制定し、地下水の使用を規制します。東京都は、1964年に南千住浄水場から工業用水の給水を開始し、翌1965年、南砂町浄水場からも給水を開始しました。いずれも下水の処理水を原水としたもので、これにより江東地区を中心に工業用水が広く使われるようになりました。その後、1971年には、三園浄水場からの給水も始まり、城北地区でも工業用水が普及しました。

砂町工業用水の建設
砂町工業用水の建設



 こうして、1975年以降は地盤沈下もほぼ落ち着きをみせました。

 その一方、工場が郊外移転したことなどから、工業用水の需要は大きく減少。料金収入が落ち込むなか、排水管の老朽化も進んだことから、都議会は2023年3月末で工業用水を廃止することを決定しました。地盤沈下がもたらした工業用水の発展と廃止。知られざる戦いがひっそりと幕を閉じたのです。

工業用水マップ
知られざる工業用水路

制作:2023年3月12日

<おまけ>
 
 工業用水廃止の余波は、意外なところにもありました。2022年12月、東京都江東区にあった2カ所の無料釣り堀が閉鎖されたのです。施設の老朽化もありますが、最大の原因は、料金の安い工業用水がなくなって、維持費が約7倍になるから。砂町魚釣場の年間水道代は年間198万円ですが、これを上水に変えると、1497万円と7.5倍に。豊住魚釣場の水道代は627万円ですが、こちらは4287万円と6.8倍に跳ね上がります。この数字から、工業用水がいかに安く使えたかがわかりますね。

廃止された砂町魚釣場
廃止された砂町魚釣場
 
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