岩谷松平「天狗煙草」



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天狗煙草の宣伝


 明治44年(1911年)、日本初の西洋式劇場である「帝国劇場」がオープン。この帝劇の女優第1期生として活躍し、スターとなったのが森律子です。森は1913年、欧州旅行から帰国しますが、このとき新橋に迎えに上がり、車であちこち連れ回したのが、親類で、岩谷松平という大富豪です。

 岩谷松平は「世界的女優である森律子を育てたのは俺だ」と吹聴して回りますが、それを批判する声はあまりありませんでした。なぜなら、その女好きは有名で、このときも4人の愛人がいたからです。愛人はみな「私も律子のようになる」と競争心を燃やしました(『当世名士縮尻り帳』による)。

 岩谷は、最終的に50人近い子供を作りますが、妻子に赤い服を着せることが多かったと言われます。赤は経営していた「天狗煙草」のイメージカラー。岩谷は赤を基調とした大宣伝で煙草を売りまくり、大儲けした人物なのです。


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旧たばこと塩の博物館(渋谷)


 鹿児島生まれの岩谷の商才は小さい頃から有名でした。
 18歳のとき、藩の外への持ち出しが禁止されていた地元の名産「薩摩ろうそく」20万斤の払い下げを受け、これを大阪で販売。100斤あたり4円以下だった商品を22円で売却し、大きな利益を上げました(『財界物故傑物伝』)。

 明治10年、東京・銀座に店を出し、薩摩絣(かすり)の販売を始めます。薩摩絣は鹿児島では冬服ですが、これを真夏の東京に持ち込んだのです。しかし、東京ではこれを単衣物として着るのがブームとなり、大人気を博します。在庫がなくなると、関西の残り物を安価で仕入れ、それを東京で「新品」として販売したのです(『明治豪商苦心談 : 南海立志』)

 この年、西南戦争が勃発します。
 負けた鹿児島では公債証書が暴落し、額面100円券が3040円まで下落します。しかし、これを70円で買い占めたところ、まもなく公債は値を戻し、やはり巨額の富を得るのです。

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さまざまな天狗シリーズ


 岩谷は、今度は、鹿児島の「国分(こくぶ)タバコ」を紙に巻いて売り始めます。それまで、タバコといえば、刻みタバコを煙管(きせる)に詰めて吸っていました。しかし、外国から紙巻きタバコが流入し、さっそくその流行をとり入れたのです。

 明治14年、アメリカのキンボール社と提携し、「オールド」の独占販売権を獲得。さらに、国産タバコ「天狗煙草」を販売開始。赤い天狗をキャラクターにして、大々的に売り出します。

 そして、普段着も赤くし、銀座の店も馬車も自宅もすべてを真っ赤にし、大量のチラシをばらまきました。新聞には大広告を打ち、看板には、 納税額を太文字で書きました。
勿驚(おどろくなかれ)煙草税金5万円」だった看板は、のちに200万円から300万円にまでなりました。

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銀座の大看板


 ちなみに、銀座の店では、洋服姿の店員がもみあげを短く切り、化粧べたべたの顔でタバコを売ったようです。時代的に女性店員ではないはずで、男性店員だとしたらかなり奇妙な光景だったと思われます(『人物と事業』による)。
 余談ですが、岩谷は採用の際、歩行試験と演説試験をしました。歩き方でその人の態度や徳がわかり、演説で人間性がわかるのだそうですよ(『実業家奇聞録』)。

 国産葉を使った天狗煙草のライバルは、外国葉を使った村井兄弟商会で、天狗煙草は「海外トラスト激戦」との宣伝を打ち、徹底抗戦しました。

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海外トラスト激戦の宣伝


 明治15年、岩谷は北海道・天塩川沿いの土地を押さえ、日本郵船などの出資で開拓計画に乗り出しますが、失敗。
 明治27年に勃発した日清戦争では、軍に煙草を納入し、これが『恩賜たばこ』となりました。
 その後、東京市会議員、衆議院議員を務めます。

 岩谷の栄華が終わったのは明治37年。日露戦争をきっかけに、タバコが専売制となったことによります。天狗煙草はわずか36万円で政府に買い上げられました。

 晩年、養豚や捕鯨事業に参入しますが、目立った成果はありませんでした。

 それでも、渋谷駅前の広大な家には、妾が10人ほどいたと言われます。そして、70近くになっても、京浜間の鉄道を借り切り、女性たちと乱痴気騒ぎを続けました。貿易赤字解消策として「日本人売春婦を輸出しよう」などと言ってひんしゅくを買ったこともある、希有な明治人だったのです。


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広告として利用された岩谷商会の散水車