時計の誕生
日時計、水時計、砂時計
11時30分を示した日時計(近江神宮)
どうして時計の針は右回りなのか、説明できる人は意外に少ないかもしれません。
答えは簡単で、時を計る最初の方法が、太陽による日時計だったから。日時計の影は、北半球では右回りに動きます。つまり、時計の文字板と針の起源は日時計だったわけです。
もう少し説明すると、太陽は24時間で360度回転するので、1時間あたりの時角は15度。それで、地面に棒(ノーモン)を垂直に立てて、周囲に24等分した円を描くと、簡単な日時計ができあがります。ただし、これが有効なのは北極点のみ。それ以外では、棒を地軸に平行に置かないと、正確には計れません。
日時計は、紀元前2000年ごろ、バビロニアで発明されたようですが、記録上もっとも古いのは紀元前700年ごろに書かれた『旧約聖書』です。
「アハズの日時計」と言われるもので、「イザヤ書」(第38章)に
《見よ、わたしはアハズの日時計におりた時計の影を10度あとに戻す》
と記されています。これは円形の時計ではなく、階段時計だったとの説もあるようですが。
紀元前300年ごろには、バビロニアの歴史書『バビロニア誌』を書いたカルデア人のベロスス(ベロッソス)が、半球形の日時計を製作しています。
そして、現存する最古の日時計は、ポンペイとともに火山の噴火で埋もれた街ヘルクラネウムの遺跡(ナポリ近郊)から発掘されたもの。長さ12cm、幅8cm、表面の銀板に目盛りが刻まれてるそうですよ。
あとは、オベリスクも巨大な日時計だったといわれています。
(左)ヘルクラネウムから発掘された懐中日時計
(右)ニューヨークのオベリスク(1910年)
なお、中国では日時計のことを「日晷儀(にっきぎ)」とか「晷針(きしん)」と呼んでいました。秦の始皇帝が使った日時計が現存してるそうですが、これはちょっと確認できませんでした。
ついでに日本最古のものは、江戸時代、林子平が宮城県・塩竃神社に奉納したものです。
塩竃神社の日時計
さらに、日時計じゃなく、火時計もありました。蠟燭時計や香時計などで、それぞれが燃える長さで時間を計りました。
4000年前の中国の火時計(近江神宮)
蠟燭時計(左)と香時計(近江神宮)
日時計が昼の時間を計るのに対し、夜の時間を計るには水時計が使われました。これは、容器から流れ出るか、容器に流れこむ水の量で時間を計ります。
世界最古の水時計は、紀元前1550年ごろ、古代エジプト第18王朝に仕えたアメンエムハトが作成したと言われています。
ちなみに水時計のことを英語でクレプシュドラ(clepsydra)と言いますが、これはギリシャ語の「盗む」と「水」の合成語から来ています。普通は水の流出時間が15分ほどで、この単位をギリシャ人は1クレブシュドラと呼んでいました。戦場での警備の交代や法廷での弁論の時間制限に使っていました。紀元前450年ごろ、エムペドクレスが法廷で使ったという記録が残っているそうです。
紀元前305年、プトレマイオスがアレキサンドリアで即位します。プトレマイオスは博物館と大学を兼ねたムセイオンを作り、学芸を盛んにしますが、このころには歯車を使った水時計も発明されました。
下の水時計が当時のもので、一説にはプラトンがこの技術をギリシャに持ち帰ったとも言われます。
アレキサンドリアの水時計
また、アレキサンドリアに住んでいたクテシビオスは、1年間自動的に動く水時計を作ったと言われています。これはずいぶんと精巧で、円筒に水が少しずつ流れこんで「うき」をおし上げ、うきについた人形が時刻を指し示したそうです。
こうした水時計にはいくつか欠点があって、最大の問題は水が落ちるスピードが一定ではない点。当たり前だけど、水の量に応じて水圧が変わるので、どうしても一定にはならないのです。この問題を解決するため、クテシビオスはサイフォン、水車、ギヤなどをうまく利用しました。水の出る穴が腐食しないよう、金や宝石を使ったともいわれています。
ほかにも季節の変化に対応するなど、この時計は、17世紀に振り子時計が発明されるまで、もっとも正確な時計だったそうですよ。
その後、古代エジプトの神殿に置かれた聖水の自販機を作ったへロンも、紀元前215年頃に水時計を改良したとされます。
古代ローマでは、紀元前30年頃、ウィトルウィウスという建築家が自著の中で水時計や日時計について論じています。余談ですが、この本の中に「腕を伸ばした人間は円と正方形に正しく内接する」と書かれていて、これをレオナルド・ダ・ヴィンチが図示したのが有名な下の絵です。
「ウィトルウィウス的人間」
807年にはペルシャ王ハールーン・アッラシードがフランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)に巨大な水時計をプレゼントしました。これは銅製で金の象牙で飾られた豪華なもので、時刻の数だけ木馬が飛び出すほど精巧だったそうです。
ではアジアはどうだったのか?
中国にはかなり古くから「漏刻」と呼ばれる水時計がありました。
『隋書』の「天文志」には、「宣明暦(旧暦)の蓮漏制度」という項目に
《昔、黄帝、創観漏水、制器取則、以分昼夜》
と書かれていて、漏刻は伝説上の黄帝によって作られたと書かれています。
宣明暦の蓮漏制度
まぁそれはウソで、文献上は戦国時代(前403〜前222)に成立した『周礼(しゅらい)』が最初。「挈壺氏」が「刻漏」の官名と表記されています。
ちなみに「時計」の語源は、同じく『周礼』に日時計を扱う官位として「土圭」と書かれており、これが「時計」に変わったようです。
中国の場合、冬は水が凍って漏刻が使えなくなるため、宋の時代には水銀を使ったそうですよ。
故宮博物館の日時計(北京)と韓国・昌慶苑の漏刻(1525年)
日本には、インドの仙人・法道が漏刻を伝えたとの説があります。
『日本書紀』の斉明天皇6年(660年)の項目に、中大兄皇子が、「初めて漏刻を作り、民をして時を知らしむ」と書かれていて、これが文献の初出です。奈良県・飛鳥の水落(みずおち)遺跡が、この漏刻の遺構だろうと推定されています。
中大兄皇子が即位して天智天皇となると、遷都でこの漏刻は近江京に移されました。天智天皇10年(671年)には
《四月丁卯朔辛卯。置漏剋於新台。始打候時。動鍾鼓。始用漏剋》
とあり、鐘や鼓を打ち鳴らして時刻を伝えたことが記録されています。その後、大宝律令(706年)で、中務省陰陽寮に漏刻博士2人、守辰丁12名を置き、時報システムが完成しました。
天智天皇の漏刻(榊原芳野『文藝類纂』/国会図書館)と復元されたもの(近江神宮)
この時報制度が設けられた「四月丁卯朔辛卯」が陽暦では6月10日に当たることから、大正9年(1920)にこの日が“時の記念日”と定められました。
ちなみに同時期、インドを旅した義浄が漏刻を見たとの記録を『南海寄帰内法伝』に残しています。
インドの水時計の番人
その後、宮中でも漏刻によって時報システムが普及します。これを「時奏」といいました。その様子は清少納言によればこんな感じ。
《時奏するいみじうをかし。いみじう寒きに、夜中ばかりなど
に、こほこほとごほめき、沓(くつ)すり来て、弦うちなどして、「何家の某、時丑三つ、子四つ」など、あてはかなる聲(こえ)にいひて、時の杭(くい)さす音などいみじうをかし》(『枕草子』)
枕草子が書かれたのはちょうど1000年頃ですが、『百錬抄』によれば、天治2年(1125)年には漏刻が焼失し、その後再興されたものの、順徳天皇の時代(1210年〜)に時報は廃絶したようです。
江戸時代、幕府で使われた漏刻
(『文藝類纂』/国会図書館)
そして、水時計を簡略化したものが砂時計です。砂時計の起源はよくわかりません。
小学館の『日本大百科全書』では、8世紀、フランスのシャルトルの僧正リウトプランドが考案したという説を採ってますが、その原典は不明。
実は同時期にペルシャの王が巨大な砂時計を作ったという記録があるそうですが、こちらも原典はわかりません。映画『プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂』は、このエピソードを元にしてるはずなんで、記録自体はホントだと思うんだけどね。
日本では、徳川家康が元和2年(1616)に死んだ後、遺品を尾張、紀伊、水戸の三家に分配したときの覚帳に「ひとけい」「唐のとけい」「方とけい」などと並んで「すなとけい」とあるそうです。家康は砂時計を2つ持っていました。
また、咸臨丸がアメリカに行った際、サンフランシスコで歓迎祝砲してくれたことに返礼しようとして、砂時計で時間を計って応砲に成功したと福沢諭吉が『福翁自伝』に書いています。
以上、時計の誕生でした。その後の機械時計の歴史は
こちら
制作:2011年8月21日
<おまけ>
中国では1日を100刻に分割していましたが、漢の哀帝が、紀元前5年、「陳聖劉太平皇帝」と称して改元をおこない、1日120刻に変更しています。このあたりから十二支による時刻表示につながっていくんですな。