機械時計の歴史
精工舎の時計(最上段は不定時法に対応)
江戸時代に『翁草』(おきなぐさ)という長大な随筆があり、そのなかに、江戸城には時計が1個しかないと書かれています。
《時計ところどころにて時間不揃いゆえ、大徳院の御意にて時計は唯一つにして太鼓を打つて時を知らせよとあり、其通りになり、そののち刻限狂ひ申さず》(巻84)
時計がみんな別々の時間を指してるので、1つにしろと大徳院が命じたわけです(新村出『南蛮更紗』による)。
大徳院は徳川秀忠夫人のことで、つまり大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』の主役「江(ごう)」です。
江の母は織田信長の妹。姉は豊臣秀吉の側室、そして義父が徳川家康。スゴイ人脈(笑)。
そんなわけで、まずはこの3人と時計の話から入りたいと思います。
ヨーロッパからやってきた宣教師は、信長に緋色の合羽、ビロードの帽子、コルドバの革製品、ヴェネチア製のクリスタルガラス器などさまざまな品を贈りました。
もちろん、時計も贈りましたが、それは砂時計と日時計でした。
機械式の目覚まし時計を献上しようとすると、信長は「とっても欲しいけど、自分の手で動かしておくのは難しいだろう。ムダになるからもらわない」と言って断りました(ルイス・フロイス『日本史』による)。
では、一番最初に機械時計を手にしたのは誰かというと、周防(山口)の大内義隆でした。イエズス会の宣教師クラッセが書いた『日本西教史』(『日本教会史』)に、1550年(天文19年)、フランシスコ・ザビエルが日本に布教に来たときに機械時計を献上したとあります。このとき、信長はまだ16歳で、うつけ者と呼ばれていました。
秀吉が時計を手にしたのは、1591年(天正19年)で、ヨーロッパから帰って来た4人の使節が宣教師と一緒にやってきて、京都の聚楽第で献上しました。
それから1606年(慶長11年)になると、今度は伏見にいる家康に宣教師が時計を献上しています。家康はそれを自慢げに伏見城の城櫓にかけたそうですが、これは後に焼失してしまいました。
現在、久能山東照宮に家康の置き時計が残っていますが、これは1581年にスペインのマドリードで作られたもので、日本に現存する最古の機械時計です。
家康の置き時計(久能山東照宮)
機械時計を発明したのは、フランス人初のローマ教皇シルウェステル2世(在位999〜1003)と言われていますが、定かではありません。
現存する最も古い時計は、1344年、ヤコボ・ドンディがパドヴァの大聖堂に設置した天文時計です。ただし、オリジナルは破壊されており、そのコピーではないかとされるものが残っているだけですが。
実際には1370年、フランス国王シャルル5世が、ドイツ人のアンリ・ド・ヴィックに作らせ、パリの高等法院に設置した時計が、現存最古の機械時計のようです。
また、イギリスでは、1386年に作られたソールズベリー寺院の大時計が最古です。
時計の設計図では、ヤコボ・ドンディの息子ジョバンニが1364年に描いた「アストラリオ」という室内天文時計のものが最古です。
アストラリオ(ウィキペディアのイタリア語版より)
機械時計の肝は、脱進機の発明です。要は歯車を一定に回転させるための機構ですが、初期の機械時計では錘(おもり)が下がる力を利用して時計を動かしました。この機構をバージ脱進機といいます。これは持ち運びできませんでしたが、1500年、ドイツのピーター・ヘンラインがゼンマイを発明し、まもなく携帯時計が開発されました。
その後、1583年にガリレオ・ガリレイが振り子の等時性を発見します。そして、バネが重さに応じて伸びるというフックの法則を発明したロバート・フックがアンクル脱進機を発明したと言われます。この機構こそ、現在でも使われている機械時計の基本中の基本です。
なお、世界初の実用的な機械式時計は、1675年、クリスティアーン・ホイヘンス(土星の環の発見者)が発明しました。
1735年、イギリス人の木工職人ジョン・ハリソンが航海用の機械式時計(クロノメーター)を製作します。こうして、正確な時計が作られていったのです。
航海用のクロノメーター(船の科学館)
では、日本国内の時計製造の歴史はどうだったのか? まず時計製造の元祖と言われるのが、家康に仕えた津田助左衛門政之。
助左衛門が京都に行ったとき、「朝鮮から贈られた東照宮の時計(自鳴磬、自鳴鐘=じめいせい)が壊れたため、これを修理できる人間を探している」とのお触れを見つけ、修理した上、さらに同じものを作りました(尾張藩の史書『尾張志』による)。家康は大いに喜び、助左衛門を時計師として召し抱えました。これがいわゆる和時計の始まりです。
日本最古の振り子時計(垂揺球儀)は1790年頃、麻田剛立が考案しました。1796年には、『機巧図彙』に4種の和時計と9種のからくり人形の製作法がまとめられています。
そして、1851年、「からくり儀右衛門」と呼ばれた田中久重が機械式の万年時計を発明しました。田中がつくった会社が、後の東芝になります。
万年時計(国立科学博物館)
和時計は、世界で唯一「不定時法」に最適化されていました。
不定時法は、昼(夜明けから日暮れ)と夜(日暮れから夜明け)をそれぞれ6等分し、これを一刻と定めます。当然、昼と夜の長さは季節によって異なります。夏至の場合、昼の一刻は約165分、夜の一刻は約75分と倍以上も違うのです。
これを実現させた日本の技術は、すごいというか、昔からガラパゴスだったといえるわけですな。
●和時計の仕組み●
(1)鐘……一時(2時間)ごとに鐘を打つ。「暮6つ」(18時ごろ)なら6回、「8つ」(14時ごろ)なら8回
(2)二挺天符……天符で示針の速度を調節するが、昼と夜で「一時」の時間が異なるため、昼用と夜用の2本
(3)示針……1日1回転する針。和時計には針が1本しかない。時刻は9→8→7→6→5→4→9……と数える
(4)字盤……十二支で表記。現在の午前0時は「子」の刻、午後12時は「午」の刻。これが「正午」の語源
(5)カレンダー……十干十二支による。右が「己」、左が「酉」で己酉(1849年、1909年……)に当たる
で、1872年(明治5年)に太陽暦が始まると、太陰暦をもとにした和時計は衰退してしまい、欧米からの輸入時計が幅をきかせました。このため、小型時計の国産化を求める声が高まり、各地に小さな時計製造会社が乱立します。
ぼんぼん時計を最初に製造したのは、明治8年、東京・麻布に水車を設置して開業した金元社でした。
時計の大量生産は、1887年(明治20年)ごろ、ようやく名古屋を中心に始まります。
日清戦争後の明治30〜31年には、名古屋に25〜26、東京に3、大阪に5、京都に3カ所のメーカーがあり、全国で40くらいの工場がありました。
ところが、数年もたたないうちに、倒産や閉鎖する工場が相次ぎ、結局、東京の精工舎(服部時計店)と名古屋の小さな会社数社しか残りませんでした。
銀座の服部時計店(左端、現・和光)
『明治東京逸聞史』によれば、日露戦後の1905年(明治38年)には学生から軍人まで、誰もが懐中時計を持っていたそうです。
日本一の時計メーカーとなった精工舎は、もともとぼんぼん時計を作っていましたが、1894年(明治27年)から懐中時計を作り始めました。懐中時計の製造は難しく、長らく赤字が続きましたが、1900年(明治33年)ごろようやく黒字化したそうです。同時に、精工舎は目覚まし時計の生産に乗り出します。
精工舎の技師長は吉川鶴彦といい、創設者・服部金太郎の片腕として、業績の拡大に貢献しました。
服部時計店の広告(『太陽』1902年正月号)
その後、日露戦争を経て、時計産業は大きく発展します。
1911年(明治44年)の統計によると、全国の時計メーカーは23ですが、生産量は置き時計と懐中時計合わせて91万個で、置き時計の海外輸出は29万個にものぼりました。
第1次世界大戦でドイツ製時計の輸出がストップすると、日本製の時計が海外で躍進します。なかでも精工舎製の目覚まし時計は、1年間にイギリスに約60万個、フランスに約30万個が輸出されたほどです。
しかし、1923年(大正12年)に関東大地震が起きると、精工舎はじめ、東京のメーカーは壊滅的な打撃を受けました。
腕時計はすべて輸入品でしたが、ようやく国内生産が実現するのは、1913年(大正2年)のことで、精工舎が「ローレル」というブランドで販売しています。
なお、戦前の主なブランドをあげておくと、精工舎は「セイコー」「エンパイヤ(懐中時計)」、尚工舎が「シチズン」、天賞堂が「レビュー」、そして村松時計製造所(現M.I.C)が「プリンス(懐中時計)」「キフォード(腕時計)」です(天賞堂は皇室に強く、「プリンス」は鉄道省の鉄道時計として有名でした)。
一方、輸入する懐中時計は、アメリカ最古の時計ブランドであるウォルサム(Waltham Watch)が圧倒的に人気がありました。
ウォルサムの広告(『太陽』1902年正月号)
1927年(昭和2年)、国内の時計生産量は約177万個でしたが、1936年には354万個に達しました。そして翌年には467万個という大量の時計を作りますが、日中戦争開始で、急速に生産量は落ちていきます。
1942年(昭和17年)には71万個で、終戦の1945年には実に5万個しか作られなかったのです。
制作:2011年9月4日
<おまけ>
日本は1942年、はじめて1日24時間制を採用しました。24時間制は1884年(明治17年)、ワシントンの万国子午線会議で議決され、翌年1月1日からグリニッジ天文台で使用が始まりますが、日本はそれから60年近く1日12時間制を通しました。ところが戦争には24時間制の方が便利だとわかり、ようやく鉄道と陸海軍で採用されたのです。
<おまけ2>
日本初の時計塔は、1871年(明治4年)、竹橋陣営(近衛歩兵連隊)にできたフランス製の時計が最初。続いて、1873年に、横浜の遊郭「岩亀楼」や工部大学校に完成しました。1876年には東京帝大病院にも設置されました。当時の時計塔の時計はほとんどがフランスやイギリス製でした。
岩亀楼の時計台、東京帝大病院の時計
明治政府は、殖産興業のため博覧会を開催しますが、1877年8月21日、上野で開幕した第1回内国勧業博覧会にも巨大時計が登場しています。おそらくこれが最初の国産時計塔。現存最古は兵庫県出石の辰鼓櫓と札幌の時計台ですね。
明治25年には、兜町に直径3mほどの大時計が設置されました。これは電気仕掛けで夜も針が見えたそうで、制作費は1万2千円でした。また、明治29年には浅草に共栄館勧工場の時計塔が完成しています。
戦前、最も有名だったのが上野駅前の「地下鉄ストア」の大時計。1931年にオープン、文字盤の直径は20mもありました。
第1回内国勧業博覧会の時計塔と「地下鉄ストア」の大時計