共産党が宣言した
幻の「利根川」巨大開発
利根川を東京湾に呼び込め!
「琉球で一番の人物になれ」という思いから、「球一」と名付けられた徳田球一は、1922年(大正11年)、非合法の日本共産党の結成に参加しています。
1928年(昭和3年)、衆議院選挙に立候補するものの、直後に治安維持法違反で検挙され、その後、18年間も投獄されていました。
戦後の1945年(昭和20年)10月に出獄した徳田球一が見たものは、信じられないほどの国土の荒廃ぶりでした。特に治水が大きく破壊されたことで、国民生活が重大な危機に瀕していると感じます。
徳田の考えは次のようなものです。
「治水の不全により、台風の襲来とともに洪水で山が崩れ、田畑は潰され、家も流され、交通も麻痺する。人民の生活は常に脅かされ、もし食糧危機が起きると、外国に哀れみを乞わなければならないから、日本民族の独立が危うくなる。
それだけではない。電気も危なくなっているし、港湾も新潟港をはじめ廃港寸前である。電気と海運が崩壊したら、日本の産業も危なくなる……」
なんだか共産党とは思えない発想ですが、徳田は「治水こそ国土と経済発展の基礎であり、人民民主主義革命によって治水問題を解決し、それを社会主義建設の礎石とする」と主張します。
カスリーン台風の被災写真
1947年にカスリーン台風が、1949年にキティ台風が関東地方を襲い、大きな被害が出たことで、徳田の思いはいっそう強くなりました。そして、ついに前代未聞の利根川水系の改造計画を思いつくのです。
以下、1949年9月に刊行された『利根川水系の綜合改革』より、その全貌についてまとめます。
利根川水系の総合改革
徳田によれば、当時の利根川流域の惨状は目を覆うばかりでした。平均30%しか治水の復旧工事が行われておらず、耕作放棄地が相当あり、交通も破断されている地域がたくさんありました。
こうした状態をもたらした原因は、大きく分けて2つあります。
(1)封建徳川の利己心
本来、利根川は東京湾に流れていたのに、徳川幕府が江戸の水攻め攻撃を防ぐため、河道を銚子方面にムリヤリ変更してしまった。利根川流域には霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼など多くの湖沼があり、この膨大な水が大きな被害をもたらす原因となっている
かつての利根川の流れ
(2)帝国主義天皇制
その侵略的性質のため、人民のための工事より、陸海軍を拡張することを優先してきた。資本主義社会では、工事に際して不正が起こるのは当たり前だから、工事の規模が大きいと不正出費の額も大きくなる。巨額の侵略費とこの不正出費を両立させることはできなかった。そもそも、軍閥、官僚、大資本家どもは、根本的な工事が完成すると、もう食い物にできなくなるから、工事を完遂させる意志もなかった
資本主義社会の技術は金儲けがらみのことばかりで、しかもあまりに多くの専門技術に分裂している。本来なら、土木建築学だけでなく、地質学、気象学、海洋学、電気学、機械学、物理学、化学、医学なども動員して工事にあたらなければならない。しかし、
《帝国主義天皇制では、こういうことは思いもよらないことである。なぜなら、大資本家と大地主が軍閥ならびに特権官僚と結びついて、科学者も、技術家も、みな、彼等の利益にそって駆使されるのが基本になっていたからである。
こういう関係から、これまで利根川水系をめぐる綜合改革などは、思いもよらず、目先の間に合わせばかりに熱中した。おどろくほど長い期間たとえば、明治33年(1900年)から31ヶ年を費した利根川の大工事でも、間もなく役にたたなくなった》
と批判するのです。だからこそ「共産党が人民のために、革命的綜合計画を遂行する」と宣言します。
利根川水系の綜合改革の附図
その工事は、ざっくり言うと、5大運河を掘削して利根川の水を海に流すというものです。
① 利根川上流で、多摩川への水路を開く
② 利根川から東京湾へ直通する運河を造る。荒川とも結び、両方の川の水を東京湾に流す
③ 利根川と渡良瀬川の水を大拡張した江戸川に落とす
④ 鬼怒川、小貝川、手賀沼、印旛沼の水を東京湾に流す
⑤ 霞ヶ浦、北浦の水を九十九里浜ぞいに流し、外房から徐々に太平洋に放水
以上は地図の番号と一致しています。
さらに
⑥ 利根川上流に人造湖を造って、灌漑用水と水力発電に利用する
⑦ 天井川を克服するため、河道を直線にし、河床を深く切り込む
⑧ 霞ケ浦、北浦、印旛沼、手賀沼、渡良瀬遊水池などをすべて干拓して農地にする
⑨ 九十九里浜や鹿島灘で風力発電し、電気を排水や漁業用施設に役立てる
⑩ 運河掘削で出た土で東京から横浜にいたる東京湾を埋め立て、港を新設
という壮大なものでした。
川沿いや海沿いの各地に電気ステーションを設置することで、農村の電化と機械化を促進。そして、農村が発達することで、あらゆる産業化が進むという計画でした。
では、こうした大規模な土木計画を実施するにはいくらかかるのか。
徳田は、戦前の「琵琶湖大開発計画」を元に、以下のように算出します。
まず、琵琶湖開発は水位を4メートル引き揚げ、大規模な水力発電所と淀川大運河を建造するものでした。予算は4000万円と試算されています。終戦をはさんで貨幣価値が約20倍になっているので、80億円相当。
利根川開発は、琵琶湖開発の20倍くらいの規模なので、1600億円。工事は5年かかるとして、年間320億円。
1949年度の年間予算は7400億円。その7割近い5000億円が資本家のために使われているので、これを切り捨てれば320億円なんて微々たるものだ。戦前だって軍事予算が半分を占めており、その軍事費の5分の1強で済むので、財政上の負担は少ない……ということです。
当時の共産党は、独占資本家・大ヤミ業者が、終戦後4年間で脱税した累計8000億円を根こそぎ徴税することを基本政策にしていました。それが実現すれば、利根川開発の予算はいっそう楽になりますね。
そして、こうした予算で、大衆課税を全廃し(つまり無税)、物価を3分の1以下に下げる計画でした。
今となってはあまりに荒唐無稽ですが、でも、実現したら日本はまったく別の国になっていたかもしれませんね。
●史上最大の土建事業・幻の房総開発計画
制作:2013年10月6日
<おまけ>
上記にあげた⑥は、要はダム計画です。徳田は、アメリカのテネシー川には流域に21のダムがあるから、これを参考にしたいと書いています。
当時、まだ日本にダムは少なかったものの、戦前から逓信省は「奥利根電源開発計画」を進めていました。この計画は1947年(昭和22年)のカスリーン台風による大被害を受けて、一気に進展していきます。
こうして、1959年に竣功した藤原ダム以来、利根川には多数のダムが造られていきました。その最後のものが八ッ場ダムです。共産党は、八ッ場ダムの建設には終始反対の姿勢をとっていますが、天国の徳田球一は、いったいどう思っているのかな。
<おまけ2>
『利根川水系の綜合改革』より、メインの運河部分「自然と産業のための河道の建設」を、ほぼ全文公開しておきます。
この仕事を遂行するためには、自然に適応することと産業の要求とを満たさなければならない。これによって、まず河道の大綱をきめることが必要である。
すでにのべたごとく、現在の利根川は、自然に反して無理無体に太平洋へ押し流されている。太平洋に直接面してしている海岸は、とくに、海から強い風が、終始吹きつけているために、鹿島灘、九十九里浜にみるごとく、河水が海に流れこむことができず、内陸に莫大な沼沢と湿地を生みだしている。
この風は、また、海岸に砂丘をつくり、河口を急速にうめる作用をしている。こういう悪い状態の所なのに、わざわざ関東の大部分の水を、銚子口から太平洋に流すという、馬鹿げたことをしているのである。さらにもう一つ、利根川の上流は、はとんど全部が急流であるから、いざというときは、非常な速さで合水する。
しかも、こういう多雨のときは海から上ってくる台風のために、荒波——時としては高潮が、逆流してくるのにぶつかり、どうにもならない大洪水となる。故に、これらの不合理を一掃して、自然に適応するような河道にしなければならない。
次に、利根川は、関東大平原を経済的に生かすか、殺すか、の大動脈である。そのために、農業、林葉、漁業、運河等は無論のこと、とくに発電のために重きをおき、産業の要求をいれるように、水系をととのえなければならない。
以上のことを考慮にいれて、次のごとく河道の大綱を決定する。
(1)
利根川と、その上流における、群馬、埼玉の諸支流との合流点である、埼玉県本庄町の北部を起点として、熊谷市西部と、川越市西部との間を、荒川の西側にそってこれと並行し、所沢町を経て立川市西部にいたり、多摩川に合流する水路を設けること。
この水路は、飲料・工業、ならびに灌漑用水路である。これは、途中で大部分の水量が消費されるから、多摩川への合水は、ごくわずかになるであろう。この目的は、利根川の流量の、おおよそ3分の1を減らすことと、埼玉、東京の工業地帯に、飲料と工業用水を与えること、ならびに、主として、川越市から立川市間の乾燥地帯の、灌漑用水に応ずるためである。
(2)
埼玉県羽生町の北部、川俣を起点とする古利根川、ならびに熊谷市の南部を起点とする元荒川、この2流が合流した中川、の3川を、運河に大拡張すること。これによって、本来の利根川の、常時における水量を大体処理すること。
(3)
渡良瀬川と利根川との合流点の上下を、大拡張すること。この場合、とくに、しなければならないことは、現在、渡良瀬川、巴波(ウズマ)川、思(オモイ)川の3者は、合した後に、利根川に合流しているが、これを分割して、それぞれ違った地点から利根川に合流させ、栃木県藤岡町と、茨城県古河町との間にある大遊水池を干拓することである。
そして、この合流した水を、大拡張した江戸川に落し、この全水量を東京湾に流出させる。江戸川は、運河として役立たせ、利根川、中川、隅田川と、それぞれ連結して、運河としての役割を拡大しなければならない。
(4)
鬼怒川、小貝川の両水流、ならびに手賀沼、印旛沼の湛水を、東京湾に落すための大運河をひらくこと。
この着想は、徳川時代から試みられ、さらに帝国主義天皇制が、世界戦争をはじめるまえにも企図したことがある。そして、いずれの場合においても、やりかけて、相当費用をついやしたのであるが、成功しなかったものである。
人民政府は、どうしても、この永年の懸案を、なしとげなけれはならない。
まず、小貝川を、茨城県北相馬郡高井村岡の地点から、稲戸井村野々井の地点に切開いて、利根川に落すこと。この地点は岩石の小丘で、切抜くことは困難だろうと、いわれているが、新しい技術をもってすれば、困難は克服されると思う。ここで切抜かなければならない理由は、もっと下流の方において、牛久沼その他の大きい湛水を合せてから抜くと、洪水を防ぐためにも、湿地と闘うためにも、不利だと考えられるからである。
小貝川は、もう一度、北相馬郡川原代村砂波(スナッパ)から、利根川岸の加納新田に落す必要がある。そうすると、洪水のときに逆流しないし、全体を湿地から救うことができよう。しかし、これら2つは、湿地の克服と、洪水を防ぐための放水路であって、灌漑を阻害しないようにすることが必要である。
第4の河道は、千葉県東葛飾郡柴崎地先から、大きく切開いて手賀沼に落し、この沼にそって、東葛飾郡永治村山下に導き、さらに印旛郡戸神に抜け、新川にそって千葉県宇那谷に通じ、千葉市西北の黒砂において、東京湾に切落す。この運河は、外洋船が、相当奥まで入れるように大きくしなければならない。
現在は、印旛沼が利根川に流れこむ道である長門川を逆に印旛沼に流し、さらに、印旛沼を逆流させて、新川の河口において、この運河に結合させること。この場合、長門川は大拡張しなければならない。
これを成功させるためには、相当多くの小丘を切開く困難を、あえてしなければならないが、それでも、ぜひ、決行すべきである。
(5)
霞ヶ浦、北浦の湛水を、利根川下流において九十九里浜背後地帯に落し、これを一ノ宮町北端にまで導いて、太平洋岸に放水する水路をひらくこと。
これは、千葉県香取郡豊里村宮原から、東城村夏目に小丘を切抜いて導き、さらに、海上郡旭町の西側地点を経て、総武本線の南にそって、沼沢地帯を茂原町東南、八積村七井土まで、ほぼ直線的に切開き、東に折れて一ノ宮川の河口に達する水路である。この水路は、利根川下流の大沼沢ならびに大湿地を干拓するとともに、九十九里浜背後地帯の沼沢、湿地を干拓し、さらに、丘地の灌漑に、役立てるためである。
この場合は、とくに、風力電気によって排水し、利根川の放水を人為的に助けなければならない。そのため九十九里浜に、さらに4ヶ所ぐらいの電力による排水路を設けなければならない。この電力による排水路は、鹿島灘方面でも、3ヶ所ぐらいは必要と思われる。それは、茨城県鹿島郡居切浜に抜けている掘割川をはじめとして、南東に合計3ヶ所ぐらいである。
以上が河道の大綱であるが、従来の利根川の河道は、そのままとし、河床を掘り下げて、非常の際の放水路として使用しなければならない。そうすれば、完全に洪水を防ぐことができる。
最近のキティ台風で経験したように、高潮は非常に有害である。しかるに、現在は、これを防ぐ設備は、ほとんどやられていない。わが党は、この高潮を防ぐ設備の建設をとくに主張する。それは、高潮を十分防げるような防波堤を、建設すること。もし大波が防波堤を越した場合は、これをすぐに運河で受けとめられるようにすること。
さらに、満潮時の水位よりも低い市街地、耕地は、徹底的に土盛し、かつ排水路を設けて、根本的にこれに備えなければならない。