史上最大の「土木計画」を見に行く
幻の「房総半島」開発プロジェクト

房総開発計画
これが驚異の開発計画だ!


 2009年9月、民主党政権になり、八ッ場(やんば)ダムと川辺川ダムの建設中止が発表されました。

 八ッ場ダムは、もともと昭和24年(1949)に建設省が発表した「利根川改訂改修計画」に基づいています。首都圏の水がめ&防災のため、利根川上流にダムを10基(後に8基)建設するプロジェクトの一環で、1967年、ダム建設の場所が吾妻川流域に決定しました。しかしながら、反対運動の激化で計画は停滞、ついに中止となったわけです。

八ッ場ダムの国道付け替え工事現場
八ッ場ダムの国道付け替え工事現場


 いまさら言うまでもなく、日本は土建産業で成り立ってきました。これまでも巨大な国土改造プロジェクトは多々ありましたが、そのなかでも極めつけに大きい土建計画を紹介したいと思います。おそらくは日本史上最大の国土計画。

 ただし、これは実際に策定されたものではなく、学者が机上で立案したもの。それだけにものすごい壮大です(笑)。

 この構想は昭和18年(1943)、東京帝大の福田武雄教授が『科学画報』2月号に発表したもので、「房総国土計画」と名付けられています。簡単に言えば、戦時下、東京を中心に国家100年の大計画として千葉県を大改造するというものです。

 ちなみに福田武雄は後に土木学会会長となる大人物で、昭和4年(1929)、新潟の萬代橋(ばんだいばし)を完成させています。

萬代橋
2004年、重要文化財に指定された萬代橋


 さて、「房総国土計画」はいくつもの大事業が含まれているので、順を追って説明していきます。

●利根川治水計画


 まず、計画の立案時点で、すでに利根川の治水プロジェクトが進行していました。昭和10年(1935)、利根川が氾濫したことで、下流に大被害がもたらされました。それまでもたびたび洪水に悩まされていたことから、取手〜船橋の放水路が造られることになりました。長さ30km、幅300mという巨大な水路で、利根川の水を毎秒2300立方メートル東京湾に流す計画です。この放水路は利根放水路、昭和放水路などと呼ばれています。

放水路マップ
放水路マップ


放水路鳥瞰図
放水路鳥瞰図
(出典:昭和14年5月、内務省東京土木出張所『利根川増補工事計画概要』。データは土木学会の土木図書館より)



 放水路を掘った土砂で印旛沼や手賀沼を干拓することで新たに3000haの土地も創設される計画でした。ちなみに干拓というのは、当時食糧増産のために推進され始めており、昭和9年には潮来の「内浪逆浦」の干拓も始まっていました。

潮来の干拓の様子
潮来の干拓の様子(当たり前ですが人力です)


 一応ここで書いておきますが、利根川というのは江戸時代以来、大改造が行われてきました。というか、もともと利根川は江戸湾(現在の東京湾)に注いでいたのを、徳川家康の大号令で太平洋まで東遷させたんですな。そのおかげで沼地だった江戸に人が住めるようになったわけです。


●上水道計画
 さて、ここからが「房総国土計画」の始まり。
 まず上の放水路に沿って、船橋に沈殿池(1万8000立方メートル)と濾過池を造営。上水道だけでなく、灌漑や水力発電に利用。

沈殿池と濾過池
沈殿池と濾過池


●千葉工業港と京葉運河の造築
 千葉港を日本有数の工業港にする。これは大東亜共栄圏からの資源をここに集め、京浜工業地帯を巨大なものにする基本計画となるものでした。

 そのために姉ヶ崎から東京芝浦までの遠浅の海を埋め立て、京葉運河を造る。この運河は1万トン級の巨大船舶が自由に通過できるもの。これが京葉臨海工業地帯であり、埋め立ての土砂は利根放水路の残土を使う予定でした。

千葉港
これが現在の千葉港

●水陸両用航空港の建設

 姉ヶ崎に水陸両用航空港を作り、羽田空港に代わる大東京の玄関口にする。千葉が産業物資で、姉ヶ崎が旅客と郵便をメインにする感じです。まさに大東亜共栄圏のハブ空港となるもの。

房総巨大空港姉ヶ崎
巨大空港のモデル図と、現在の姉ヶ崎


●東京湾環状鉄道と海底トンネル
 上記の計画により、東京湾には東京・横浜・千葉の3大都市が完成します。そのうえでこの3都市を迅速に結ぶ交通網が必要となります。

 そこで、東京湾に海底トンネルをぶち抜き、東京、船橋、千葉、姉ヶ崎、木更津、富津、浦賀、横須賀、横浜、川崎を結ぶ延長160kmの臨海鉄道を敷設。

 さらに環状鉄道に並行させ時速140km走行が可能な自動車専用道を建設、これと千葉〜銚子を結ぶ直線道路をリンクさせる。なぜ銚子かというと、ここから海産物を一気に運び、食糧の確保に役立たせる計画だったからです。この道路は幅24m(中央2mが緑地帯)の舗装道路を想定しています。

房総開発計画
想定された高速道路網


 なお、日本は昭和2年(1927年)にようやく自動車台数が5万台を超え、戦後の昭和25年になってもわずか40万台しかなかったので、高速道路という発想は当時としてはあり得ないものでした。そもそも石油不足で木炭自動車まで研究されてる時代なので、時速140kmなんて想像できない速さです。


●千葉運河
 この計画から数十年後、千葉市は人口120万を超えると想定されており、さらなる物資の搬入が必要となる見込みでした。そのときには、狭い東京湾の入口で船が大混雑してしまい、大きな時間のロスが想定されます。そこで、房総半島をぶち抜く大運河(千葉運河)の建造も考えられました。千葉から東金を経て九十九里までの総延長37km、幅50m、水深9mの大運河です。

千葉運河の全貌
これが千葉運河の全貌


 問題は房総半島の中央部が海抜70mの丘陵地である点です。要は、船が斜面を登らないといけないわけですよ。これをクリアするには、閘門かインクラインかボートリフト(船上昇機)かの3通りしかありませんが、規模が大きいため、船上昇機が選ばれました。

 船上昇機にもいくつか種類があるのですが、通常はエレベーターで上げるか、浮体で上げるかしかありません。ですが、当時、ドナウ川で1カ所だけ使われていた回転式を採用することにしました。これは下の筒に入った船が180度回転して上の筒に移動するという……あまりに信じられない構造です。

 ちなみに現在は、スコットランドにあるファルカーク・ホイールという回転式のボートリフトが唯一の実例となっています。恐るべき土建プロジェクトですな。

回転式ボートリフト
回転式ボートリフト


ファルカーク・ホイール
ファルカーク・ホイール(Wikipediaより)

 
 なお、以上の計画はあくまで机上のものでしたが、昭和放水路だけは内務省の管轄のもと、工事が実際に始まりました。しかし、戦争の激化で、そのまま中止に。

 また、冒頭の八ツ場ダムの建設計画は、すでに2000億円の予算を投入済みで、下流の1都5県はいずれも賛成の立場を取っています。そもそもこのダムは昭和22年(1947)のカスリーン台風で利根川の堤防が決壊し、大水害が起きたことから始まっています。その日、9月16日は、現在「治水の日」とされています。

カスリーン台風の被害者を見舞う昭和天皇
カスリーン台風の被害者を見舞う昭和天皇


利根川水系の綜合改革/徳田球一の巨大開発計画

制作:2009年9月18日


<おまけ>
 昔から大きな半島をぶち抜く水路の計画は各地に存在しています。有名なところでは青森県の下北半島運河。これは東奥日報の主筆だった成田鉄四郎が明治27年(1894年)に書いた『陸奥湾之将来』で発表されました。
下北半島運河
運河の候補地点

<おまけ2>
 現在、利根川をめぐる巨大公共事業としては霞ヶ浦導水事業があります。これは霞ヶ浦と那珂川、利根川を45kmの巨大トンネルで結ぶことで、霞ヶ浦の浄化や渇水防止を目指すものです。すでに総工事費1900億円のうち約75%が消化されています。民主党のマニフェストには書いてありませんが、これも中止になるかもしれませんね。
 ほかに首都圏外郭放水路も洪水防止ですね。
霞ヶ浦導水事業
霞ヶ浦導水工事事務所のサイトより
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