「東芝」の誕生
芝浦製作所の人事改革と技術革新

東芝の源流「田中製造所」
東芝の源流「田中製造所」


 1890年(明治23年)ごろ、東京・新橋に不思議な店舗がありました。
 店の屋根は富士山になっており、その手前には龍が配置されています。かたわらには丸いアーク燈(電灯)がつき、呼び鈴を押すとリリンと鳴るのです。まだ電気が珍しい時代、人々は「これはなんの店だ」とたいへん驚きました。

 この店は、「からくり儀右衛門」と呼ばれた田中久重が開いた「田中製造所」の出店です。上京してこの店頭装飾を見た一人の男は驚愕し、まもなくこの会社に入社しました。この男こそ、東芝の基礎を築いた小林作太郎です。


田中製造所(東芝)の工場
田中製造所の工場



 東芝には創業者が2人いると言われます。
 1人が田中久重、もう1人が「日本のエジソン」と称される藤岡市助です。

 田中は、天動説を和時計にした「須弥山儀」、万年時計の「万年自鳴鐘」などのからくりで有名です。佐賀藩で電信機を作ったこともある電気技師で、1875年、新橋南金六町(現在の銀座8丁目)に「田中製造所」を創業します。その跡を継いだのが2代目田中久重で、1882年、浜松町に移転。田中製造所は、海軍用の機械、通信機、汽罐の製造で知られましたが、後に三井に買収され「芝浦製作所」となりました。

 一方、藤岡は工部省工学寮(現在の東大工学部)で、日本で初めてアーク灯の点灯に成功し、東京電灯(東京電力)を経て、「白熱舎」を創業。27歳のときエジソンに会ったことをきっかけに、日本初の白熱電球の製造に成功しました。その後、日本初のエレベーター、日本初の電車を製造しています。まもなく社名は「東京電気」に改称されました。

日本初の白熱電球(東芝未来科学館)
日本初の白熱電球(東芝未来科学館)



 そして、1939年(昭和14年)、東京電気と芝浦製作所が合併し、東京芝浦電気となりました。当初、東芝は愛称でしたが、1984年に正式名称になっています。

 今回は、東芝の前身「芝浦製作所」で起きた、組織改革と技術革新の物語です。

海芝浦駅の東芝入口
海芝浦駅の東芝入口



 川崎と横浜の埋立地帯を走る鶴見線には支線がいくつもありますが、そのうちの一つ「海芝浦支線」の終点は、海芝浦駅です。駅のホームが海に面していて、夜景の名所として知られます。しかし、この駅は、東芝エネルギーシステムズの工場入口になっていて、同社の関係者以外は外に出られません。一般人は海浜公園で時間をつぶすしかないのです。

 この工場内に、非公開の「小林記念室」があります。後に東芝の重役になる小林作太郎の自宅にあった工作室を移したもので、さまざまな道具類が整然と収納されています。作太郎はきっちりした性格で、「在るものは正しく置け」というのが口癖でした。

東芝/小林記念室の外観
小林記念室の外観



 長崎生まれの小林作太郎は、手先が器用で、天才的な技術者として知られます。

 11歳で、当時まだ珍しかった柱時計の分解や組立をおこない、12歳で動く蒸気機関の模型を作り、13歳で走る汽車の模型を、16歳で水上を航行する汽船の模型を、17歳で自由に泳ぎまわるクジラの模型を制作し、世の人々を驚かせました。汽船の模型は、当時の伊藤博文首相から皇太子(大正天皇)に献上され、クジラの模型も、有栖川宮熾仁親王からやはり皇太子に献上されています。

小林作太郎クジラの模型
クジラの模型



 1890年(明治23年)、上野公園で「第3回内国勧業博覧会」が開かれます。このとき、藤岡市助は、日本で初めての電車となる路面電車を走らせました。そしてこのとき、作太郎は瓶の中に作った軍艦を出品しているのです。ただの軍艦ではなく、ビンを傾けると各部が動き、砲門が現れたり甲板上の水兵が動いたりする精巧なものでした。

小林作太郎ビン入りの軍艦模型
ビン入りの軍艦模型



 作太郎は、1893年、田中製造所に職工として入社。同年、田中製造所は三井に買収され、芝浦製作所に変わります。

 芝浦製作所の支配人(社長)は、初代の藤山雷太以降、長らく三井から送り込まれてきましたが、内部はボロボロで赤字に次ぐ赤字でした。もともとの顧客だった海軍は、機械や通信機を内製することになり、取引関係は切れています。仕事はそれなりにありましたが、いくら社長を変えても業績は上がらず、三井としても持て余していました。

 工場閉鎖や売却の噂が飛び交う芝浦製作所に、1899年、三井物産から大田黒重五郎が送り込まれてきます。大田黒は、企業風土の刷新を図りますが、このとき切り札に使ったのが、まだ若い小林作太郎でした。

 大田黒は、当時の様子を「帳簿はきれいな赤字の提灯行列といった姿である」と自伝に書いています。あまりのひどさに困惑し、毎月上がってくる「日誌」を熟読し、問題点の発見に努めます。
 
 赤字の最大の理由は、莫大な残業代(社内名称は「居残り料」)の支払いでした。会社にいるだけで残業代が発生したため、多くの職工が、仕事がそれほどないにもかかわらず会社に長居しました。

 そこで、大田黒は「朝の遅刻に罰金をとらない」「仕事は各自、その日のうち終了させる」「やむを得ず残業する場合は夕食代を支給」などの改善策を講じた結果、残業は大きく減りました。

 続いておこなったのが、社員の大規模な「うろ抜き」、つまりリストラです。
  
 当時、社内には大学出や専門学校出のエリート人材が非常にたくさんおり、人事配置レベルでは解消できない状態でした。そこで、「うろ抜きをやることだ。それが一番いい。そうすると二段目どころの人が一段目のところに出てきて責任を感じてくる。するとまた、新進三段どころが二段に上進してくるようになる」(『小林作太郎伝』)との考えでした。

芝浦製作所の鶴見工場
芝浦製作所の鶴見工場



 最後の改革は、工場管理の統括です。当時、芝浦製作所には5つの工場あり、それぞれに工場長がいました。そして、その上に仕事を統制する製造係長がいて、大卒のエリートが担当していました。こうした無駄な組織をやめ、すべての工場を1人に統括させることにしました。その人物こそ、小林作太郎でした。
 
 当時の工場の最大の問題点は、「工場名主」と呼ばれた連中です。年齢のせいで、自分の工賃分の労働ができないにもかかわらず、先輩風を吹いて、ほかの職工の賃金をピンはねしていたのです。この連中をクビにするのは「片腕をもがれるくらいの覚悟がいる」と囁かれていました。しかし、大田黒はかまわずクビにしていきました。

 こうして人件費は飛躍的に減少し、生産効率も大きく改善したのです。
 
 1901年、品川電灯会社や三池炭鉱から、200kWという巨大な三相交流発電機の注文が舞い込みました。これまで日本では一度も製造されたことがありません。簡単に言えば、厚い銅板をきわめて誤差が少ない状態で均一に巻いていく必要がありました。そのやり方はトップシークレットで、情報は一切ありません。しかし、作太郎は即座に受注し、銅を巻く機械を自作し、みごと納入したのです。

三池炭鉱に納入した東芝の三相交流発電機
三池炭鉱に納入した三相交流発電機



 ちょうどその頃、アメリカ公使が、分解された自動車を初めて日本に持ち込みました。しかし、どうやっても日本では組み立てることができません。困り果てて、芝浦製作所に相談を持ちかけたところ、作太郎はわずか半日で完成させてしまいました。公使は驚き、お礼に立派な金時計を贈ったと伝えられています。

 また、こんな話もあります。
 伝染病研究の第一人者・北里柴三郎が、船舶のペスト防止用消毒機をドイツから持ち込みしたが、どうやっても動かすことができません。しかしこれも、作太郎が動くように改造したというのです。こうした評判が重なり、芝浦製作所には数多くの注文が入るようになりました。

日本最古の電流遮断器(1911年、東芝未来科学館)
日本最古の電流遮断器(1911年、東芝未来科学館)



 当時、社員や職工が長期間にわたって働き続けるのは珍しいことでした。大学出のエリートは野心が強く、ちょっとでも報酬の高い仕事があると、すぐに転職してしまいます。また、少しでも労働が厳しいと、やはりすぐに退職してしまいます。一方、ブルーカラーの職工も、報酬の多いか少ないかだけで仕事を選び、給料日の翌日には出社しないなど、労働者の管理は難しい問題でした。ほかにも学歴による仕事格差、不明朗な給与体系など、当時の工場はどこも数多くの問題を抱えていたのです。

 芝浦製作所の工場をすべて管轄していた作太郎は、技術者として極めて優秀でしたが、マネジメント能力にも秀でていました。そこで、安定した労働力を確保するため、勤務体系を次々に改善していくのです。

 たとえば1900年には、「職工服務規則」を整備し、ケガの治療補助の規定も決めました。1906年には、「職工皆勤賞」の制度を作りました。さらに、高率の利子をつけた社内預金、時間外の割増手当、慰労金の支給、昇級システムの整備、工場の衛生改善など、さまざまな対策を始めます。以下、年表風に書けば、

●1915年「工場規則」制定
●1915年「職工救護規則」制定
●1915年 診療所の設置
●1915年「職工勤続手当基金」の積立
●1916年「職工慰安基金」の積立
●1919年 25年勤続者の表彰開始
●1920年「職工特別休暇規則」を制定

 といった具合です。積み立てた慰安基金で、大規模な観劇会を開いたこともありました。こうした改善により、労働者はあまり会社をやめなくなり、工場は安定して回るようになりました。

 大田黒は、その後、箱根水力電気、九州水力電気、四国水力電気など各地で水力発電会社を設立していきます。大田黒と作太郎の2人は、発電技術で芝浦製作所を一流に育てたうえ、日本の近代化をも支えたのです。

最先端の空調が導入された銀座東芝ビル
最先端の空調が導入された銀座東芝ビル(1932年に完成、すでに消滅)

インテリジェンスビルの走りとして有名な本社ビル
インテリジェンスビルの走りとして有名な本社ビルも消滅へ

からくりの歴史/東芝の誕生前夜

制作:2021年11月22日


<おまけ>

 小林作太郎は、明治30年ごろから、まだ珍しかった自転車にハマります。
 ただ乗りまわすだけではたいした運動にならないと考え、海外の雑誌で目にした曲乗りに興味を持ちはじめました。出勤前だけでなく、会社の近くでも年中、猛練習を続けました。実はこの猛練習ぶりを見て、大田黒が幹部に抜擢したと伝えられています。
 作太郎の自転車曲乗りは、その後、神業に近づき、明治33年には「東京バイシクル倶楽部」から曲乗り一等賞を、「輪友会」から妙技賞を受賞し、大きな注目を集めるのでした。

小林作太郎の自転車曲乗り
作太郎の自転車曲乗り
 
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