からくり儀右衛門の世界
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本邦「からくり」1400年史
あるいは「東芝」の誕生前夜
田中久重の太鼓時計をモチーフにした「からくり太鼓時計」
JR久留米駅前に「からくり太鼓時計」とよばれる大きな時計が設置されています。
正時には文字盤が回転し、なかから老人が登場、自分が考案した作品の一部を紹介してくれます。この老人は、久留米出身の発明家・田中久重。後に「からくり儀右衛門」として名をなす人物です。
今回は、この「からくり儀右衛門」を中心に、日本のカラクリ技術が産業化するまでを追っかけます。
日本のからくりの起源は不明ですが、一般に最古の記録は『日本書紀』658年に出てくる「指南車」だとされています。これは車につけると、常に南を指す木造の装置で、中国から伝来したものです。
カラクリだと思われる最古の図版は、1090年頃に書かれた大江匡房(まさふさ)の『傀儡子記(かいらいしき)』で、ここに人形を使う芸人が登場しています。
国会図書館『傀儡子記』より
12世紀前半に成立した『今昔物語』巻24には、カラクリ細工に関する話が2つ記録されています。
《今は昔、桓武天皇の子供に、細工に巧みな高陽親王(かやのみこ)という方がいた。
ある年、干ばつがひどく、自分が建立した京極寺の田んぼも、苗がみな赤茶けて枯れそうになった。そこで、高陽親王は、両手に器を持っている高さ4尺(1.2m)ばかりの子供の人形を作り、田んぼの中に立てた。
人形の器に水を入れると、手が動いて顔にその水をかける仕組みで、人々は面白がり、ついに京中の人々が列をなすようになった。こうして、田んぼに水が一杯になり、その田はまったく干ばつの被害に遭わなかったという》
《今は昔、飛騨の工(たくみ)という比類なき大工がいた。
あるとき、飛騨の工は友人の百済川成という絵師を自宅に招いた。家には一間四方のお堂があり、東西南北4面の戸がすべて開いている。川成が南側の戸から入ろうとすると、戸がバタンと閉まってしまった。驚いて西側の戸から入ろうとすると、その戸も閉まり、さっきの南の戸が開いた。
今度は北側から入ろうとすると、やはり戸は閉まって、西の戸が開く。こうして、堂の縁をぐるぐる回って何度も入ろうとしたが、どうしても入ることができなかった》
江戸時代になると、からくりは大きく発展しました。
明暦(1655‐58)頃、歌舞伎の大道具師として活躍したのが長谷川勘兵衛で、回り舞台、戸板返し、ちょうちん抜け、宙乗りなどを生み出しました。
長谷川勘兵衛『三国妖狐伝』などの宣伝ビラ
(『見世物研究』より)
その後、特に有名になったのが「竹田のからくり」です。
浅草寺に頻繁にお参りしていた竹田近江は、いつも「多くの人を育てるような仕事をしたい」と願っていました。ある日、子供たちが砂で遊ぶのを見て、唐操偶人(からくりにんぎょう)を思いつき、京都まで出向いて試作します。
1662年、大坂道頓堀でからくり人形芝居の初興行を行い、以後、大人気を博しました(『摂津名所図会』による)。
オランダ人に好評を博した「竹田のからくり」
(国会図書館『摂津名所図会』より)
その後、芝居小屋で山本飛騨掾(ひだのじょう)、伊藤出羽掾(でわのじょう)などの「手妻人形」が大ブームとなりました。
これは糸を引いて、表情を変化させたり、早替わりさせたりできる人形のことで、人形浄瑠璃の元祖です。なお、カラクリとは「糸を引っ張って動かす」という意味の「からくる」が語源だとされています。
からくり技術が発展したことで、からくりに関する本も誕生します。
有名なのが2つあり、1つは1730年に刊行された『璣訓蒙鑑草(からくりきんもうかがみぐさ)』で、「錦竜水」「陸船車」「異竜竹」「唐人笛吹き」など、当時の代表的な仕掛け約30種類が紹介されています。
そして、たとえばとんぼ返りを3回行う「三段がへり(返り)かるはざ(軽業)人形」については、腰の部分に入っている水銀の移動によって実現できる、などと書かれています。
とんぼ返りする人形の構造
(国会図書館『拾珎御伽璣訓蒙鑑草』より)
もう1つは、1796年に細川頼直が刊行した『機巧図彙(からくりずい)』です。9種類に及ぶからくり人形の構造が図解されています。
『機巧図彙』には、西洋渡来の機械時計から発展させた
和時計
の機構も記されています。
実は和時計の歴史は古く、1551年、フランシスコ・ザビエルが大内義隆に「自鳴鐘(じめいしょう)」を献上したというのが最初の記録です(『大内義隆記』)。
また現存する最古の伝来品としては、1611年、スペイン国王フェリペ3世から徳川家康に贈られたゼンマイ時計(1581年製作)が久能山東照宮に伝わっています。
さて、こうした日本のカラクリ史を集大成したような人物が、幕末に登場します。それが田中久重、いわゆる「からくり儀右衛門」です。
田中久重は、1799年、久留米のべっこう細工師の息子として生まれました。
1807年、数え9歳のとき、自分にしか開けられない硯箱を作ります。カギを使った仕組みだと想定されますが、田中以外は誰一人ふたを開けることができず、評判となりました。
15歳で久留米絣の模様作成機を作るなど、子供のときから発明家として名が知られていました。1837年には、圧縮空気で灯油を補給する灯明「無尽灯」を考案しています。
無尽灯(右)と消防ポンプ(国立科学博物館)
20代の頃から、田中は江戸や京都でカラクリ興行を行いました。
1859年、このカラクリ興行を実際に見た人物の証言が残されています。
「私が13歳のとき、加藤清正公の大祭が行われていた熊本・本妙寺で、儀右衛門さんのカラクリ興行を見ました。八つ橋の上でコマがたくさん回転しているもの、タバコの煙(蒸気)の上で大きなコマが回っているものなど珍しいのばかりでしたが、一番人気は『茶酌人形』でした。人形は2尺あまりの娘姿で、手に茶盆を持って登場してくる。盆の上には2、3の茶碗が載っていて、見物人がお茶を飲んで戻すと、人形はしずしずと元へ帰って行くので大変驚きました。
楽屋裏を見たら、蒸気、ゼンマイ、水などを使っていました。蒸気は、風呂桶のようなものから管を通して送っていて、この風呂釜を、大の男が一生懸命にウチワであおいでいました。ゼンマイは、十文字に組んだ木を2人の男が汗を流しながら回していました」(与子田治子さん、『田中近江大掾』による)
この茶運び人形は、最も有名なカラクリで、『機巧図彙』に構造が紹介されています。
茶運び人形(科博)
田中久重は、こうした従来のものだけでなく、新しいカラクリを次々に開発していきました。
ほかの演目にどんなものがあるかというと、
・7本の矢を順番に打っていく弓曳童子
・複数の人形がそれぞれ笛を吹き、鼓を打ち、鉦をたたく合唱人形
・桃の中から顔を出し、左右を眺めた後、再び桃に隠れる小猿人形
田中久重本人が描いた弓曳童子(『田中近江図案』東芝未来科学館)
せっかくなので、久留米の8店舗でおこなった興行の画像をいくつか公開しておきます。
右から、潮の満ち引きを表現した「和歌の浦」、鳥居がせり上がる「厳島」、雲の中から橋が現れ、娘が話しだす「月宮殿舞台」です。
田中久重のカラクリ興行(『田中近江大掾』)
50代になると、田中は和時計の制作に熱中します。
1850年、天球儀の一種である機械時計「須弥山儀」を開発。
1851年には、最高傑作と呼ばれる万年時計「万年自鳴鐘」が完成。これは季節によって昼夜の時間が異なる日本の不定時法に対応し、時期によって文字盤の間隔が自動で動くもの。さらに、太陽と月の運行、月の満ち欠け、潮の干満、曜日、二十四節などがすべてわかるものでした。もちろん、正時には鐘も鳴りました。
須弥山儀(東芝未来科学館)
万年自鳴鐘の宣伝ビラ
ペリーが日本に来航する半年前、田中は佐賀藩に入り、巨大インフラの設計などに従事します。
具体的には、
・国産初の蒸気機関車および蒸気船の製造法をまとめる
中央で機関車、右下で蒸気船を試作
(『佐賀藩精煉方絵図』佐賀城本丸歴史館)
・反射炉の設計と大砲製造に大きく貢献
『築地反射炉絵図』(佐賀城本丸歴史館)
・1861年、佐賀藩の三重津海軍所で蒸気機関を製造
蒸気砲の設計図
・1863年、国産初の蒸気船「凌風丸」の建造に成功
蒸気船「凌風丸」(佐賀城本丸歴史館)
1866年には
製氷機
を発明、1874年には工部省の命を受け、ブレゲー電信機の製造に成功します。この電信機は1869年、東京—横浜間で始まった電信に使われたもので、ようやく国産化できたのです。
製氷機の宣伝ビラ
ブレゲー電信機(逓信総合博物館)
このほか、消防ポンプ、精米機から風呂釜、自転車までありとあらゆる機械を改良・発明した田中は、工部省の支援で自社工場「田中製造所」を持ちます。
田中久重は、1881年、数え83歳で死去。
久重の死後、田中製造所は芝浦に移転、三井家の下で芝浦製作所となりました。後に東京電気と合併し、東京芝浦電気となります。これが現在の東芝となるのです。
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「東芝」の誕生
制作:2015年11月2日
<おまけ>
『機巧図彙』の序文には「夫(それ)奇器を製するの要は、多く見て心に記憶し、物にふれて機転を用ゆるを尊ぶ」とあり、発明には絶えざる注意と機転が必要と説かれています。田中久重は、弟子入り希望者が来ると、まずは円と四角の2図を描かせ、そのできばえによって採否を決定したそうです。
そして、弟子が失敗すると、最初は丁寧に教えましたが、2度めは見込みなしとして見放すのが常でした。
田中は後にこう語っています。
「私は常に工事のことしか考えていない。夜は工事の工夫を考え、昼はその工夫を試し、食事時や飲酒時もひたすら考え続ける。私の大好物は発明の工夫であって、これを超えるものはない」