図書館の誕生
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国会図書館の誕生
初代・国立国会図書館(右手は法務府)
芥川龍之介の未完小説『大導寺信輔の半生』に、次のような文章があります。
《彼は——十二歳の小学生は弁当やノオト・ブックを小脇にしたまま、大橋図書館へ通う為に何度もこの通りを往復した。道のりは往復一里半だった。大橋図書館から帝国図書館へ。彼は帝国図書館の与えた第一の感銘をも覚えている。——高い天井に対する恐怖を、大きい窓に対する恐怖を、無数の椅子を埋め尽した無数の人々に対する恐怖を。
が、恐怖は幸いにも二三度通ううちに消滅した。彼は忽(たちま)ち閲覧室に、鉄の階段に、カタロオグの箱に、地下の食堂に親しみ出した》
彼——大導寺信輔を虜にした帝国図書館は、当時上野にあった図書館です。その様子はこちら。
帝国図書館の様子(明治29年)。左手の世界地図に注目
日本初の近代図書館は、明治5年(1872)8月、文部省が湯島聖堂の大講堂に開設した書籍館(しょじゃくかん)とされています。
これは、江戸幕府の開成所、昌平坂学問所、医学館などの施設にあった書籍をまとめたものです。書籍館は小さな建物で、2階に閲覧所がありました。蔵書は約1万3000部、約13万冊を超えていたそうです。開業時間は午前9時からなんと午後10時まで。料金は無料でした。
明治7年、政府は書籍館を浅草蔵前に移転、ここを浅草文庫と改称します。そして明治14年、浅草文庫は上野博物館内に移転。明治39年(1906)にようやく独自の建物がつくられました。これが戦前唯一の国立図書館でした。明治29年の閲覧料は1回2銭。
上野帝国図書館(1930)
この建物は「国際子ども図書館」として現存
では民間図書館はどうだったのか?
小さいものは除くと、日本初の民間図書館は、明治20年(1887)、帝国教育会が一橋に設置した書籍館だとされています。帝国教育会は教育の普及をはかる社団法人で、文部省で大学南校(現東大)校長や学制頒布の事務を行った辻新次が会長でした。
書籍館には医学図書館、仏教図書館、化学協会文庫、辻文庫、ボアソナード文庫などが併置されていました。ちなみにボアソナードは、日本初の刑法と民法を起草し、「日本近代法の父」といわれる人物です。
帝国教育会書籍館の蔵書は、明治38年末で3万1297冊、明治40年の閲覧料は1回2銭5厘でした。
さて、冒頭の『大導寺信輔の半生』に出てくる大橋図書館は、日本で2番目の民間図書館です。
こちらは麹町上六番町にあり、超大手出版社「博文館」の創設15周年記念として開設されたものです。社長の大橋佐平が設立を目指しましたが、病気のために、子供の大橋新太郎が跡を継ぎ、明治35年に開館します。
明治39年6月末の蔵書は5万870冊。図書閲覧は1回3銭、雑誌は1回1銭5厘(明治40年)でした。
この大橋図書館で精力的に本を収集したのが、博文館社員の坪谷善四郎。明治34年(1901)に東京市会議員となった彼は、明治37年、東京市立図書館設立を建議します。この建議によって明治41年に開館したのが、現在の都立日比谷図書館なのでした。
初代・日比谷図書館
さて。
戦後、帝国図書館は、「国会図書館法」(1947年4月30日公布)の制定により、
衆議院
図書館、貴族院図書館と合併し、国立国会図書館となりました。
この「国会図書館法」の前文には、
《国立国会図書館は、
真理がわれらを自由にする
という確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と平和とに寄与することを使命として、ここに設立される》
と書かれています。この法案を起草したのが、歴史学者の羽仁五郎(当時参院議員、義母は
自由学園
を設立した羽仁もと子)。
羽仁は、国会図書館は「議会政治が官僚政治を打破する」ためのものだとしています。つまり「本を読む図書館」ではなく、「立法の基礎をなす資料を官僚から議員の手に移すための図書館」だと。
実際、1953年に起きた第4次吉田内閣の「バカヤロー解散」は、旧社会党の西村栄一議員が国会図書館に内部資料を出させたおかげとも言われています。
そんなわけで、オープンした当初の国会図書館に行ってみましょう。
実は国会図書館は、1948年6月5日に旧赤坂離宮(現
迎賓館
)を仮庁舎として開館しています (冒頭の写真)。
一般閲覧室の定員は100人のため行列して入場
入室時には手を洗った
一般閲覧室
中央大階段
洋書を所蔵した特別閲覧室
国会図書館が永田町に移ったのは1961年。当時の蔵書は約205万冊。そして2005年度末の蔵書は、なんと約860万冊なのでした。
「真理がわれらを自由にする」——『新約聖書』に由来しているこの言葉は、現在も国立国会図書館の中央出納台の上に、ギリシア語と並んで刻まれています。
制作:2006年12月12日
<おまけ>
以上の図書館は、あくまで誰でも使える一般図書館の話です。
当然ですが、帝国大学をはじめとする各大学には立派な図書館がありました。ですが、その多くは大正12年(1923)の関東大震災で焼失してしまいました。
東洋一と謳われた帝大図書館(1930年頃)
消失といえば、大橋図書館もやはり震災で焼けてしまいました。
再建直後の大橋図書館
震災後、大橋図書館は順調に復活しますが、実は敗戦で大きな打撃を受けるのです。それは博文館社長が公職追放となり、以後、博文館は事実上消滅してしまったから。
結局経営難から、上の写真の本館を売却、若宮町で営業は続けますが、昭和28年(1953)閉館。戦後、分散管理されていた蔵書は、西武鉄道の経営の下、三康図書館(芝公園)で保存されています。