弾丸列車(2)
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幻の「中央アジア横断鉄道」
リニアでベルリンを目指せ
中央アジア横断鉄道
大正時代、三井物産の経営に携わっていた山本条太郎は、昭和2年(1927年)から昭和4年まで南満洲鉄道の社長に就任していました。
満州の経営に邁進していた山本は、後に壮大な鉄道計画を立案します。満州から黒海に抜ける「中央アジア横断鉄道」です。
山本は、昭和8年6月、在郷軍人たちを前に、「経済政策上の重要問題を論じて中央亜細亜横断鉄道計画に及ぶ」という公演を行い、次のように話します。
「満州の背後を一瞥しますと、熱河の先は察哈爾(チャハル)、蒙古、それから新疆を経て、中央アジアに進み、右にパミール高原を横切り、アフガニスタン、ペルシャ(イラン)を経て黒海に至る。この広漠たる大地域はいかなる状態にありましょうか。
イランのテヘラン中心部(1930年ごろ)
蒙古と新疆を合わせて170万〜200万方里(1方里は4km四方)。支那18省が150万方里、満州は36万方里で、これを合わせたものに匹敵する大地域は、ほとんど原始時代の如き未開地である。新疆もイギリスが南から、ロシアが北から我が物にしようと考えているが、はっきりと縄張りが決まっているわけではない。蒙古もいつの間にかロシア化しているが、実際には、明確な区画も持ち主も定まってはいない。
ここにはおそらく何億という人口を吸収できる土地があり、羊毛や綿花などを生産できる天与の土地がある。この地域を大和民族の力で開拓し、まず中央アジア横断鉄道を敷設してはどうか」(山本条太郎『論策2』より意訳)
この段階では単なる突飛なアイデアでしたが、徐々イラン具体化していきます。
まず大きかったのが、昭和11年(1936年)11月に「日独防共協定」が結ばれたことです。東京—ベルリン間の行き来が頻繁になってきたため、鉄道と空路の整備が要請されたのです。
ベルリン(1930年ごろ)
昭和12年に日中戦争が始まると、日本軍は破竹の勢いで中国の都市を占領していきました。これに応じて日本では大陸ブームが起き、今がチャンスとばかり、鉄道省のベルリン事務所長だった湯本昇が「中央アジア横断鉄道」構想を強く打ち出すのです。
昭和14年、湯本はNHKラジオで建設計画とその意義について発表します。
「古来、支那には4つの道があった。海路、雲南からのビルマルート、天山北路、天山南路である。このうち、天山南路は昔の絹の道(シルクロード)であり、法顕や玄奘三蔵、そしてマルコポーロが通った道である。チンギスハーンなど、古来の英雄はいずれも天山北路を使ったが、天山南路は戦争で使われたことがない。天山南路こそ世界平和の大道であり、王道だ。ここに鉄道を通すことで人類に幸福を呼ぶことができる」(『中央亜細亜横断鉄道概要』より意訳)
シルクロードの南山付近(1930年ごろ)
おそらく、湯本の理論的支柱となったのが、西本願寺22世・大谷光瑞の「欧亜連絡鉄道」というアイデアです。
「軍事上、鉄道の必要性は大きい。兵は速をたっとぶ。水運は速度で鉄道に及ばない。いまもっとも必要なのはヨーロッパとアジアを結ぶ鉄道だ。ロシアはシベリアに鉄道を敷設し、東洋を狙いだした。清国の支配地域だった『海参威』をウラジオストクと改称し、満州を狙う。日本の一撃(日露戦争)によってその意図をくじかれたが、まだ余燼が残る」(昭和14年『大谷光瑞興亜計画4』より意訳)
大谷光瑞の「欧亜連絡鉄道」は北部幹線、中部幹線、南北連絡幹線の3つからなり、どのような鉄道を引くかまで詳細に検討しています。各幹線とも起点はカシュガルで、北部幹線は北京へ、中部幹線は上海へ、南北連絡幹線はハノイなどへ向かいます。なお、カシュガルから西へ行けばアフガニスタンのカブールです。
カシュガル(1930年ごろ)
昭和16年10月、帝国鉄道協会のなかに「中央亜細亜横断鉄道調査部」が、久保田敬一を部長として設置されます。
11月4日の第1回部会では、「本鉄道は、かつてのスエズ運河、パナマ運河建設をはるかに凌駕する価値があり、大東亜建設を目標とする帝国の事業として最も有意義」とされました。
そして、湯本昇が「世界平和への大道と中央亜細亜横断鉄道」というテーマで概要を説明しています。
湯本は、中央アジア横断鉄道のルートを4つ想定しており、ゴールはベルリンやバグダッドとなっています(『大東亜共栄圏写真大観』による)。一部でシベリア鉄道を使うルートもありますが、ロシアは敵性国家であるため、あまり望ましくありません。
中央アジア横断鉄道ルート(『中央亜細亜横断鉄道概要』)
(1)西安—甘州—ハミ—(天山北路)—迪化(ウルムチ)—アルマアタ—
【分岐】—(カスピ海と黒海の北)—キエフ—ベルリン
【分岐】—アシハバード—テヘラン
(2)広東—河内(ベトナム・ハノイ)—マンダレー(ビルマ)—雲南—カルカッタ—カラチ—バスラ—バグダッド
(3)釜山—新京—庫倫(ウランバートル)—セミパラチンスク—(シベリア鉄道)—ベルリン
(4)北京—包頭—甘州—ハミ—(天山南路)—庫車(クチャ)—カシュガル—カブール—テヘラン—バグダッド
このなかでも、特に(4)は建造費がかかり、工事が困難だと予想されましたが、湯本は天山南路を通るということで、強く(4)を推しました(『大東亜共栄圏写真大観』による)。
ルート拡大図
とはいえ、どのルートも工事や保守が大変なのはわかっていました。砂漠では線路が砂に埋れ、トルファンのような低地では線路建設が難しく、アフガニスタンのような高地では空気が薄く、シベリアでは酷寒で、中東では熱暑という、きわめて条件が厳しい路線となるからです。
しかもあまりに長距離なので、超高速鉄道の導入が必須となります。
そこで、久保田敬一が考えたのが、チューブの中を突っ走る弾丸列車でした。戦前、東京から北京まで高速鉄道が企画され、これを「弾丸列車」と呼びましたが、ここでいう「弾丸列車」はそれとは別の、車輪ではなく1本の線路上を突っ走る高速列車です。
弾丸列車
機関車がどうやって車両を牽引できるかというと、線路と動輪の間に摩擦が起きるからです。摩擦は動輪の重量に比例するので、牽引力を上げるには動輪を重くするしかありません。すると動輪が巨大になって、巨大な線路が必要になってきます。
これには限界があるので、よりスピードを上げるために考えられるのが、
プロペラ機関車
、ロケット機関車などです。そしてさらに「リニアモーターカー」も想定されました。
《最も有効であると思われるのは電磁気を用いる方法である。すなわち、線路上一定の間隔に強力な電磁器を置き、順次に電流を流して列車を吸い付けて前進せしむる方法である。この方法はかつてドイツが「マジノ線」攻撃のとき、長距離砲に用いたと伝えられているが、その詳細はまだ発表されていないようである》(『工業グラフ』昭和17年8月号「中央亜細亜横断鉄道 弾丸列車の構想」)
弾丸列車の内部イメージ
リニアモーターカー
(磁気浮上による交通機関)の原理は、ドイツのヘルマン・ケンペルが1920年代に実験で成功させています。リニア長距離砲は、実際には「マジノ線」攻撃では使われませんでしたが、おそらくかなりリアルな話として日本に伝わってきたのでしょう。
久保田は、このリニア列車は完全密閉で空調が完備され、完全自動で運転され、時速500kmも夢ではないとしています。このスピードなら、東京からベルリンまで2昼夜で行くことが可能なのです。
中央アジア横断鉄道の目的は大きく分けて5つありました。
・東西文化交流の緊密化
・世界平和に貢献
・共産主義を防ぐ防共の砦
・虐げられたイスラム教徒を更生させる宗教的価値
・未開発地に眠る豊富な資源の開発
ちなみに、当時、フランスがアフリカのサハラ砂漠縦断鉄道構想を打ち出しており、少なからずこの影響を受けたとも思われます。しかし、さまざまな思いを載せて走り出した「中央アジア横断鉄道」は、結局、具現化することなく、歴史の闇に消えていくのでした。
制作:2019年4月28日
<おまけ>
当時、想定されていたのが東京—北京を結ぶ高速鉄道
「弾丸列車」
です。この路線が実現すれば、東京から北京まで49時間10分で結べる計画でした。これが、戦後の新幹線開発に結ぶつくのです。
また、中央アジア横断鉄道以外に、シンガポールまでの高速鉄道も予定されていました。こちらは「大東亜幹線鉄道」などと呼ばれています。これが開通すれば、東京からシンガポールまで、最速で8日と3時間で行ける計画でした。
なお、現在、国連を中心に「アジア横断鉄道」プロジェクトが進行していますが、日本は参加していません。