出産強制の歴史
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「産めよ殖やせよ」の系譜
昭和18年4月、隣組の5軒続きの家から1人ずつ兵隊さんが誕生
(読売新聞より)
2007年1月、柳沢伯夫厚生労働大臣が、「15歳から50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、機械と言うのは何だけど、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」と発言。2月には「若い人たちは結婚したい、子供を2人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる」と発言しました。
これらの発言に対して、「女性の人権を無視してる」「子供1人では不健全なのか」と野党とマスコミは猛反発しました。
柳沢氏はホワイトカラー・エグゼンプション(残業代ゼロ法案)にも積極的だったわけで、要は「女は出産機械」「男は労働機械」としか思ってないことが判明したわけです。
しかしまぁ、2001年には都知事だった石原慎太郎が「女性が生殖能力を失っても生きているってのは、無駄で罪です」と言っており、政治家というのは昔からそのように思ってたのは間違いないです。
官僚や政治家のこうした蔑視発言はいくらでも実例があるんですが、ここではたまたま見つけた例をあげておきましょう。1892年(明治25年)、当時の文部省参事官が次のように発言しています。
《母の年齢30歳以下にて挙げたる(出産した)小児は最も健康、35歳以上にて挙げたる小児は虚弱なり》(毎日新聞1892年4月1日)
このように100年前から政治家の頭の中は同じということです。
古来日本では出産できない女性を「石女(うまずめ)」といい、白い目で見てきました。これは日本が農村社会だったからで、人が多いほど家計は楽になるいう明快な価値観があったからです。
これに対して、たとえば与謝野晶子は、『母性偏重を排す』(1916年)で、次のように言っています。
《我国の婦人の大多数は盛に子供を生んで毎年6、70万ずつの人口を増している。あるいは国力に比べて増し過ぎるという議論さえある。私たちはむしろこの多産の事実について厳粛に反省せねばならない時に臨んでいる》
ですが、多産の流れは止まらず、1930年代には、日本は毎年100万人ずつ人口が増加していきました。
ところが日本が徐々に豊かになり、都会に人が集まるようになると、子供がいなくても、特に蔑視されなくなりました。また日中戦争の影響もあって、1938(昭和13年)、突如として人口増がたった30万人という、驚くべき低い数字になってしまいました。
これにあわてたのが当時の厚生省。人口減少に危機感を強め、1939年(昭和14年)9月30日、子供を増やそうというスローガンを発表します。それが「結婚十訓」です。厚生省予防局民族衛生研究会が発表した10訓は、以下の通り。
(1)一生の伴侶に信頼できる人を選べ
(2)心身ともに健康な人を選べ
(3)悪い遺伝のない人を選べ
(4)盲目的な結婚を避けよ
(5)近親結婚はなるべく避けよ
(6)晩婚を避けよ
(7)迷信や因襲にとらわれるな
(8)父母長上の指導を受けて熟慮断行せよ
(9)式は質素に届けは当日に
(10)産めよ殖やせよ国のため
すごいですね。この最後の「産めよ殖やせよ(増やせよ)」が有名になって、一人歩きしていったわけです。
ちなみにこの「結婚十訓」はナチスの「配偶者選択10か条」を手本にしています。そして、以後、厚生省はナチスの優生思想を強く反映した政策を採用していきます。
●1940年5月、「国民優生法」を公布
これは《悪質ナル遺伝性疾患ノ素質ヲ有スル者ノ増加ヲ防遏スルト共ニ健全ナル素質ヲ有スル者ノ増加ヲ図リ以テ国民素質ノ向上ヲ期スル》ために、遺伝性精神病や遺伝性身体疾患、遺伝性畸形の人間には優生手術(不能手術)をするという信じられない法律です。
●1941年1月、「人口政策確立要綱」を決定
こちらは、当時7200万人だった人口を1960年に1億人にするため、向こう10年間で平均婚姻年齢を3年早め、夫婦の出生数を平均5人にするという壮大な計画でした。
さて、こうした多産プランを実現する課程で、厚生省は1939年8月8日、多子家庭表彰要綱を発表します。
表彰の条件は、父母が同じで満6歳以上の嫡出子女10人以上を自分で育てていること……つまり、離婚・再婚、正妻以外の女性の子を除き、どれだけ多くの子供を持ってるかということでした。
1940年(昭和15年)11月3日に発表されたところでは、全国で1万622家庭が表彰されました。最高は北海道の978家族、最低は鳥取の39家族。東京238、神奈川355、愛知340、大阪150、京都67といった具合です。
このとき日本一となったのは、長崎県の総務部長・白戸半次郎さん(48)でした。白戸さんは20年間で16人の子供を持っていました。白戸さんは当時の雑誌の取材に「10人の男の子は全部兵隊さん志望だからなかなかワンパク者ばかりだ」などと答えていますが、実際、厚生省は「子宝部隊」という言葉で、彼らを表彰したのでした。
『画報躍進之日本』第5巻12号より
また、このとき話題になったのが、東京の青果商「八百文」(やおぶん)の篠文次郎さん宅でした。なんと子供11人すべてが女の子。こちらも雑誌の取材に「10人でやめたら十姉妹(小鳥のジュウシマツ)だから11人にしたんだろうと冷やかされますが、これをみんな嫁にやるのは一苦労。みんな軍人さんに嫁にやる考えです」などと答えています。
輝く興亜の子宝部隊、篠さん一家
余談ながらこの発表から45年後、朝日新聞が篠さん一家を取材に訪れています。
《一家の姿が新聞や雑誌に載り、国電大塚駅前の白木屋デパートは新聞1ページ大の写真を飾った。戦地の見知らぬ兵隊からもお祝いの手紙が届いた。
米国と交戦前で、「日米友好のため、アメリカにも送る」とニュース映画が撮影に来た。父親の篠文次郎さんに提督帽をかぶせ、軍艦11隻を率いている絵を載せた新聞もあった》(1985年1月5日)
記事によれば、姉妹が産んだ子供は全部で29人。3女までが5人ずつ、4女が3人。6、9、11女には、それぞれ1人しか子がいないそうです。
時代とともに少子化が進んでいったことが、ここからもわかるのでした。
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堕胎と間引きの歴史
制作:2007年2月7日
<おまけ>
こうした多産が賞賛されるなか、先にも触れた「石女」は肩身の狭い思いをしていました。子供が欲しいのにできない場合、それは不妊か流産かしかありません。
本サイトの管理人はいろんな史料を持ってるんですが、そのなかに流産の図をまとめたものがあります。おそらくは地方の産科医に脈々と伝えられたもので、手書きでさまざまな流産画像が書かれています。年代などが明記されていないため、史料としての価値はゼロなんですが、これを見ると、けっこう痛々しい気持ちにさせられます。切迫した状況を想像すると、やっぱり「出産機械」というのはひどい発言だと思わざるをえないのでした。
「横産見半手」(胎児の片手が飛び出た状況)