堕胎と間引きの日本史

水子地蔵
立ち並ぶ水子地蔵(静岡県菊川市の応声教院)


 民俗学者の柳田國男は、1887年(明治20)年から2年ほど、茨城県の利根川そばにあった長兄の家で暮らしました。病弱で学校にも通えなかった柳田少年は、ある日、城跡にあった地蔵堂を覗いて、不思議な絵馬を発見します。その絵馬には、母親が出まれたばかりの我が子の首を絞め、間引きしている様子が描かれていました。

 後に柳田は、『故郷七十年』にこう記しています。

《私の印象に最も強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものであろうか、堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。
 その図柄は、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている》


 その絵馬は、現在、徳満寺の本堂廊下に掲げられています。経年のため、地蔵様の姿は消えていますが、首を絞めている様子ははっきりわかります。柳田は、この絵馬に大きな衝撃を受け、食料生産を研究する農政学を志すのです。

間引き絵馬
間引き絵馬(徳満寺)


 日本では、中絶と間引きが当たり前のように行われてきました。そもそも、『古事記』に書かれた国産み神話では、イザナギとイザナミとの間に生まれた最初の神は、ヒルコ(不具の子)だったため、葦の舟に入れられ島から流されてしまいます。日本は、間引きから神話が始まっているのです。

『今昔物語』には、堕胎のため毒薬を飲んだにもかかわらず、健康で生まれた人物として、性空上人の名前があげられています。福島県二本松市(あるいは埼玉県さいたま市)の黒塚は、人を食ったという伝説の鬼婆の墓です。この鬼婆は、子を殺す専門業者だったとの説もあります。

安達ヶ原の鬼婆
安達ヶ原の鬼婆


 日本の人口は、江戸時代の前期に激増して2600万人に達した後、120年ほど3000万人程度で維持されてきました。なぜ人口が増えなかったかというと、間引きや堕胎が横行したからというのが通説です。食料生産が追いつかず、人口が増えれば村が疲弊するだけなので、特に女の子を間引くことで、人口調節をしたのです。

日本の人口グラフ
日本の人口


 堕胎について書かれた小説はいくつもありますが、たとえば尾崎紅葉の『浮木丸』には、子供を身ごもった妻と、それを嫌がる夫のこんな会話が書かれています。原文を改変して引用しておきます。

「ものは相談だが、小の虫を殺して大の虫を生かすのはどうだ」
「何を殺すのだえ?」
「堕ろすのよ」
「子供をかい?」
「夫婦の命には変えられねえから」
「それは本気かい?」
「本気と言いたかねえけど、カネが敵(かたき)の世の中だ」

 舞台は「むかしの某村」なので、時代は不明ですが、貧困にあえぐ夫は、わりとあっさり堕胎を提案しています。

 大森貝塚を発掘したモースは『日本その日その日』で、《世界中に日本ほど赤坊のために尽す国はなく》と書いており、来日した外国人の多くは、日本人がいかに子供をかわいがっているか記録しています。『日本風俗備考』を書いたフィッセルは、間引きの風習を完全に否定した上で、子供が死ぬのは天然痘と麻疹によると書いています。

 ですが、その陰で、膨大な数の子供たちが殺されていました。
 江戸の回向院にある水子塚には、寛政5年に1万体の死体があったと記録されています。さらに『日本残酷物語』によれば、上総国の農家10万戸で、毎年殺される子供が3〜4万人にのぼったとされています。

回向院の水子塚の拓本
江戸・回向院の水子塚の拓本


 古来、日本には「七つまでは神のうち」という言葉があり、7歳まで子供はあの世とこの世を行ったり来たりする存在だと考えられました。そのため、子供が小さければ間引きしても問題ないと考えられていたのです。間引きのことを「子がえし」「子もどし」などと言いますが、これは、「神からの授かりものを返す/戻す」という意味で、罪の意識は低かったとされています。

 1767年(明和4年)、幕府は間引きを禁じる法令を出しています。「百姓ども大勢子供あれば、出生の子を産所にて直々殺すのは国柄もあり、不仁の至り……」と、間引きは「不仁」と断罪しています。

『近世日本マビキ慣行史料集成』などによれば、村には「赤子制動方」といった役人がおり、すべての妊娠を報告させ、流産・死産があれば遺体を検分して「死胎披露書」を作りました。出産を管理することで、間引きや堕胎を防ごうとしたのです(赤子養育仕法)。とはいえ、生活が苦しい以上、間引きが減ることはありません。

保胎録
保胎録(大分県日田市)


 1787年から1793年まで寛政の改革をおこなった松平定信は、その直前、1年ほど白河藩の藩政を担いますが、そのときの人口政策が特筆すべきものとされています。自叙伝『宇下人言』には以下の3つが書かれています。

(1)子供が5人以上いたら毎年、米1俵を褒美として与える
(2)年1回、村ごとに「市女」を呼んで「口寄せ」させる
(3)女が少なければ、越後から女を呼び寄せて百姓の嫁にする

(1)は報奨金の話で、ほかに「子育金(こいくきん)」の制度もありました。
(2)の市女とはイタコのことで、殺された子供たちの声を聞かせるというものです。また、僧侶に命じて、「間引きが罪である」と領内で啓蒙させたりもしました。僧侶は歌を作り、間引きすると地獄に堕ちるという「地獄絵」を配って回ったのです。

地獄絵
教化用の地獄絵


(3)はどういうことか。越後は親鸞の流刑地で、浄土真宗が盛んだったため、宗教的な理由からきわめて堕胎が少なかったのです。とはいえ、当時の越後平野は貧困地帯。子供が増えれば、生活は苦しくなる一方です。貧困から過重労働に苦しみ、結果的に「勤勉」と評された越後の女性たちを今の福島県に連れてくることで、貧困を解消させるのが狙いでした。

 寛政のころは、地方にも「寛政の三博士」などと呼ばれた優秀な代官が数多くいました。
 たとえば松平定信に引き立てられた常陸国の代官・岡田寒泉をはじめ、美作の早川正紀、下野の竹垣直温、塙の寺西封元など多くの代官が、堕胎・間引きを禁じて、人口増加政策を取ります。

 やや時代が下ると、常陸国・谷田部藩の家老である中村勧農衛が、間引き防止のため、『さとし草』を著わして領内に配布し、農業人口の増加に努めました。

『さとし草』の挿絵
『さとし草』の挿絵


 明治以降で、堕胎問題に取り組んだのは、初代千葉県令となった柴原和です。富国強兵には人口増が必須であるとの考えから、間引き撲滅に力を入れます。

 内容としては、妊娠の届け出や、貧民への「子供手当」です。乳児1人当たり年間3円を3年間支給しました。これは米3俵(180キロ)が買える額です。ただし、この財源確保のため、県職員は給料の寄付を要請され、政府からも借金することになりました。

井原西鶴『好色一代女』水子
腰から下が血まみれで「負わりょ負わりょ」と泣く水子
(井原西鶴『好色一代女』巻6/国会図書館)


 さて、長塚節の小説『土』には、こんな場面があります。
 農家の嫁であるお品は、生活苦から、ほおずきの根っこを陰部に挿入して4カ月の胎児を自分で堕ろします。胎児は、《小さい股の間には飯粒程の突起があつた》ことから、男の子だったとわかります。
 しかし、そのときできた傷で、お品は破傷風で死んでしまうのです。

《お品は卵膜を破る手術に他人を煩(わずら)はさなかつた。さうして其(その)挿入した酸漿(ほおずき)の根が知覚のないまでに軽微な創傷を粘膜に与へて其処(そこ)に黴菌を移植したのであつたらうか、それとも毎日煙の如く浴びせ掛けた埃(ほこり)から来たのであつたらうか》

 堕胎を自分でおこなう例がどれほどあったかはわかりませんが、江戸時代、堕胎専門の医者は数多くいました。
 下の図版は「子おろし戒」といわれるものです(出典は不明)。
 ここに「中條流婦人いしゃ」「朔日丸(ついたちがん)」「月水早(げっすいはや)ながし」と書かれています。

子おろし戒
子おろし戒


 中条流というのは、豊臣秀吉の家臣・中条帯刀(あるいは仙台藩の侍医・中条養喜説も)を開祖とする婦人科の一派です。たいていは女医で、また堕胎医が中条流を偽称した場合も多く、後に堕胎専門医の総称となりました。「朔日丸」「月水早流」は、当時の有名な堕胎薬です。中身は水銀ですが、麝香(じゃこう)や白木槿(しろむくげ)も使われたとされます。中条流では「梹榔子、薄荷、水銀少々」が中絶薬の材料でした。

「朔日丸」の広告
「朔日丸」の広告


 大正になると、1922年(大正11年)に来日したアメリカ人、マーガレット・サンガーの避妊法が伝わり、山本宣治が避妊術を普及させます。さらに昭和になると、サンガー夫人の指導による日本産児調節連盟が誕生。太田武夫は避妊具「太田リング」を完成させますが、このリングが正式に厚生省の認可を受けるのは、発表から42年後の1974年のことでした。

 明治・大正と、比較的人口増を抑える政策を続けた日本ですが、1941年、政府は「人口政策確立要綱」を閣議決定し、戦争に向けた人口増を目指します。そして、当時7200万人だった人口を1960年に1億人にする計画が動き出すのです。
 ただし、その前年には、「国民優生法」の施行により、「悪質な遺伝性疾患の素質を有する者」の増加を防ぐ措置が取られています。

 なお、現在に関していえば、堕胎罪はありますが、母体保護法により、条件付きの中絶が認められています。

優生手術の調査票
優生手術の調査票

産めよ増やせよの系譜

制作:2020年2月21日


<おまけ>

 東北地方に伝わる「こけし」は、間引きされた子供の供養で作られたとの説があります。
 たとえば、槇佐知子『日本昔話と古代医術』には《こけしは「子消し」ではないだろうか。首をまわすときしむ音が、泣き声もたてられないほど衰弱した嬰児の、いまわのきわの悲鳴と親心の痛みを想わせる》とありますが、これは根拠のない俗説です。
  
 こけしは、かつて地方ごとにさまざまな呼び名がありました。山形では「でく」、仙台では「こげす」「きぼこ」などです。地域によって呼び名が異なるのは困るので、1940年(昭和15年)、鳴子温泉で開かれた会合で「こけし」表記に統一されたのです。

 そもそも、間引きは「モドス」「カエス」などと言われ、「消す」という言葉は使いません。よって、単なる語呂合わせによる俗説だとわかるのです。

増上寺の水子地蔵
増上寺の水子地蔵

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