シリーズ【産業遺産】
筑豊のボタ山に登ってみた!
福岡県飯塚市・筑豊のボタ山
日本有数の炭田地帯といえば九州の筑豊ですな。
15世紀末には既に採炭が始まり、明治以降、日本の近代化に多大な貢献を果たしてきました。明治末期には、全国出炭数の過半数を占め、最盛期には年間2000万トン以上出炭したとか。
で、石炭を採れば採るほど、資源として使えないゴミ部分(捨石、ズリ)が出てきます。このズリは鉱山近くの場所に集めて捨てるんですが、長い間に積み上がって巨大な山になっていくんですね。
こうしてできた山を「ズリ山」といい、特に九州では「ボタ山」といいます。
なかでも有名なのが、福岡県飯塚市のボタ山です。
大正7年から集積され始め、昭和40年の閉山までに10tトラック70万台分がたまっていきました。なんと高さ141メートル、敷地面積は22.4ヘクタール。現存するボタ山としては、日本最大といわれています。3連の山は、あまりの美しさに「筑豊富士」なんて呼ばれているんですねぇ。
このボタ山、基本的には立入禁止なんですが、一カ所だけ登山ルートがあるんです。そんなわけで、当然、登ってみたよ。
ただ、山はすでに緑で覆われており、言われないとボタ山だとはわかりません。ほかに特筆すべき点もなく、つまらない登山ではあるんですが、確か10分ほどで登頂に成功。がしかし、これがきついんだ! 一応、元・山岳部員なんですが、すっっげーつらかった。
それでも、頂上からの眺めは結構いいものでした。
頂上からの眺め
今となってはボタ山はずいぶん平和な風景ですが、当時の炭鉱労働者から見れば、これはまさに奴隷労働の証拠みたいなもの。
炭鉱では、労働者は納屋制度と呼ばれる前近代的な親分子分関係を強いられ、一種の債務奴隷として搾取され続けました。その過酷な労働の例として、ひとつだけ悲惨なエピソードを紹介しておきましょう。
《ヤマの労務係が食物もなくて寝ている坑夫の家を訪れ、袋に入れた米を
見せて「入坑する者にはこの米を与える」とそそのかし、せめて一食でも我が子に米を食わせようという親心から、坑夫たちはよろめく足をふみしめて入坑していく。そのような卑劣な手段で労働者を坑内に追い込んだ後、労務係はふたたび米袋をさげて家を訪れ、米と交換に彼の妻の肉体を奪うのだという》(上野英信「地の底の笑い話」岩波新書1967年)
日本の近代化に隠されてきた、こうした暗黒面は忘れないようにしたいものです、ね。
更新:2011年2月8日
<おまけ>
九州には今でも多くのボタ山が残っています。
たとえば筑豊近くの福岡県志免町にある志免鉱業所(志免炭鉱)にも、立派なボタ山が残っています。志免は日本で唯一、閉山まで国営だった炭鉱です。戦前は軍艦の、戦後は蒸気機関車の燃料に役立ちました。
たぶん背後がボタ山(時間なくて未確認)
そして、石炭を搬出するための施設である竪坑の櫓が残っています。鉄筋コンクリート造で、当時の価格で200万円もの予算をかけて昭和18年に建設されました。高さ48mで、竪坑が地下430mまで延びています。
志免鉱業所竪坑櫓
一方、炭鉱の質がよかった熊本県の三池炭坑では、あまり大きなボタ山がありません。炭鉱の質というのはこういうところでもわかるのですな。
三池炭坑・宮原坑の捲揚機室
●軍艦島はこちら
●三井鉱山はこちら
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