映画の誕生
360度パノラマ映像が生まれるまで

リュミエールのシネマトグラフ
リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」
(ウィキペディアより)


 カリフォルニアに本家ディズニーランドがオープンしたのは1955年7月17日。そして、浦安に東京ディズニーランドができたのは1983年4月15日。実に30年近い歳月が流れていますが、日本にもディズニーランドを呼ぼうという気運が高まったのは、1959年のことでした。
 
 当時、ディズニーランドの様子は日本でもたびたび報道されており、すでに理想的な遊園地と目されていました。日本語では冒険の国、辺境の国、夢想の国、未来の国などと訳されていましたが、その未来の国の一角に「サーカラマ」と呼ばれる円形映画劇場がありました。

 サーカラマは、サークルとパノラマを合わせた造語で、一言で言えば360度の大パノラマが楽しめる映画館です。内部は直径40フィート(約12m)の円形で、高さ8フィートの場所に、縦8フィート×横11フィートのスクリーンが11面並べてありました。

 スクリーンの間は18cmの隙間があり、ここから背後にあるスクリーンに投影していました。各映写機は同期していたため、かなり迫力のある映像 が楽しめました。上映された映画はたとえば「西部の旅」と題されたもので、グランド・キャニオンやモニュメント・バレーなどの名勝をめぐる観光旅行映画でした。

サーカラマ
ディズニーランドの「サーカラマ」


 サーカラマはディズニーが発明し、前年のブリュッセル万博でも公開されました。そのときはニューヨークの摩天楼から広大な農業地帯、油田、港湾まで、アメリカ全体の旅行映画でした。観客は、まるで観光バスに乗って遊覧して回る気分を味わい、映像の魔力にとりつかれたといわれています。

 そんなわけで、今回は映画の誕生と、その進化についてまとめます。



 連続写真の元祖は、イギリスのエドワード・マイブリッジで、1878年、高速カメラを等間隔に12台並べ、疾走する馬の連続撮影に成功します。

マイブリッジの連続写真
エドワード・マイブリッジの連続写真(ウィキペディアより)


 つづいてフランスのエティエンヌ=ジュール・マレーが、1秒間に12枚の写真を撮れる連続撮影機を発明し、これが映画撮影機の原型となりました。当時はマレーヤスコープと名付けられました。

マレーの連続撮影
マレーの連続撮影

マレーの連続撮影機
マレーの連続撮影機(ともにウィキペディアより)

 
 この映像撮影機を見て驚いたのがトーマス・エジソンで、1891年には、弟子のディクソンとともに動画撮影機キネトグラフを発明します。すでに100分の20秒ほどの間隔で撮影できました。そして、映像を見る装置キネトスコープも2人が発明し、1893年にシカゴ万国博覧会に出展されました。
 1894年にはニューヨークのブロードウェイに世界初の映画館が設置されています。ただし、キネトスコープはスクリーンに映写するのではなく、箱の中をのぞき込む形でした。

キネトスコープ
サンフランシスコのキネトスコープ・パーラー(ウィキペディアより)


 スクリーンに投影する方法は、1895年、リュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」まで待つことになります。1896年には、エジソンもスクリーン投射式「バイタスコープ」を開発、フランスとアメリカでほぼ同時に映画は誕生したのです。

シネマトグラフ
リュミエール兄弟のシネマトグラフ『ラ・シオタ駅への列車の到着』

バイタスコープ
バイタスコープ(ウィキペディアより)


 その後、ジョルジュ・メリエスが『月世界旅行』(1902)などで、一挙に物語映画が始まりました。

月世界旅行
『月世界旅行』


 映画が普及していき、次の革新はスクリーンのワイド化で起こりました。
 通常35mmのフィルムがシネスコ(シネマスコープ)になり、70mmフィルムになり、スクリーンはどんどん横長になっていきます。
 その過程でブレークしたのがシネラマでした。
 シネラマは1952年にアメリカで開発された映画上映システムで、スクリーンの大きさは従来の6倍の大きさ。通常の35mmフィルムを3つ使う ことで、人間の視野にほぼ近い143度程度の広角度を実現したのです。

シネラマ
建造中の帝国劇場のシネラマ(1930)


 その先に登場したのが、360度パノラマでした。
 ディズニーが発明したのがサーカラマ、同時期にソ連では、キノパノラマという名前で登場しています。キノパノラマは、11枚のスクリーンがさらに2段重ね(22面)で、臨場感はさらに向上していました。

キノパノラマ
キノパノラマ劇場(『科学朝日』1963年11月号より)

サーカラマ撮影機
360度の映画撮影機

  
 さて、ディズニーランドのサーカラマは大人気を博しましたが、これは新しい映像活用の始まりとなりました。
 どういうことかというと、アメリカのディズニーランドは遊園地ではありますが、当初はスポンサー企業の宣伝場という意味合いもありました。特にトゥモローランドは企業パビリオンそのものでした。そのため、各企業が特設館で映像によるPR活動をはじめたのです。

 たとえば、ある石油会社(リッチフィールド・オイル)は、資源の解説のため、半球体の特設スクリーンで『地下の世界』という映画を上映しました。最初に幅広のシネマスコープのスクリーンで地球の誕生と地層の構造を上映し、続いてスクリーンの手前からドーム状のスクリーンがせり上がってきて、油田地帯の地下にある石油層の様子や採掘の状況が上映されました。
 正面スクリーンに映写が行なわれると同時に、その下方にある映写機から鏡を使ってドームに映像が投影されることで、地下から地上の様子が奥行きのある映像に見えたと言われています。

ディズニーランド「地下の世界」
ディズニーランド「地下の世界」


 また、ある航空会社(トランス・ワールド航空)は、宇宙旅行をテーマに映画を作りましたが、スクリーンの表と裏から別の映像を流すことで、迫力ある映像を流すことに成功しました。さらに座席の下から映写することで、天井まで星空が映し出されました。

 当時の人々がディズニーランドで驚いた映像は、その後も進化を続け、博覧会などで披露されていくのでした。

<関連リンク> ●日本初の映画上映写真とフィルムの誕生パノラマ館へ行く

制作:2012年9月17日

<おまけ>
 1959年8月、シネラマの撮影隊が日本にやってきました。シネラマの第1作は『これがシネラマだ!』で、第3作『世界の七不思議』のロケのため来日したのです。これは「羽田で降りたGI(米兵)が日本の子供に名所を案内される」というストーリーで、富士山、鎌倉の大仏、京都の桜、宝塚、保津川下りなどが撮影されました。
 三保の松原では富士山が顔を出すのを1週間待ちましたが、結局撮影することは出来ませんでした。面白いのは、当時の雑誌がその原因を「米軍の原水爆実験の影響?」と書いてる点です。どこまで冗談かはわかりませんが、当時はそうとう空気が悪かったんでしょうねぇ。
シネラマ
シネラマの撮影隊。着物娘50人と着物男20人が動員。日当は1日500円でした
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