巨大絵馬を見に行く
「奉納」と「祈り」の系譜

蒸気機関車が走る絵馬「石山寺」
蒸気機関車が走る絵馬「石山寺」(愛知県半田市・光照寺、明治35年)
右に東海道線のSL、左に洋傘、中央下は「瀬田唐橋」



 岩手県遠野市にある「伝承園」は、民俗学が誕生した遠野の生活文化を語り継ぐ施設です。そのなかにある「オシラ堂」には、養蚕や農業の神、そして山の中で道を「お知らせ」してくれる神として知られるオシラサマが1000体も展示されています。オシラサマは、基本は家に棲みつく神様ですが、このオシラ堂では、布を購入して、願い事を書くことも可能です。

遠野オシラ堂
オシラ堂



 柳田國男の『遠野物語』によれば、オシラサマは馬と娘の悲恋から誕生しました。

《昔あるところに、貧しい百姓がいました。妻はなく、美しい娘と1匹の馬と暮らしていました。娘は、いつしかこの馬と夜な夜な愛し合い、ついに馬と夫婦になりました。このことを知った父は、ある夜、馬を桑の木につり下げて殺してしまいます。娘は悲嘆にくれ、馬の首にすがりついて泣きじゃくりました。苦々しく思った父は、斧をもって後ろから馬の首を切り落としたところ、娘はその首に乗ったまま天に昇ってしまいました》

 オシラサマはこのときから誕生したといいます。
 佐々木喜善の『聴耳草紙』にはこの後日談が書かれてあり、天に昇った娘は父の夢枕に立ち、養蚕の仕方を教えたとされています。

 ここからひとつわかることは、馬は天(神)と地(人間界)をつなぐ生き物だということです。

 伊勢神宮をはじめ、馬を飼育している神社は多々ありますが、そうでない場合、神馬像を祀っている神社もかなりの数が存在しています。生きた馬が、神馬像になり、それが後に絵馬になったのではないかと考えられています。そんなわけで、今回は絵馬を中心とした「祈りの系譜」をまとめます。

沼名前神社(広島県鞆の浦)の神馬
沼名前神社(広島県鞆の浦)の神馬



『半七捕物帳』で知られる作家の岡本綺堂は、大正時代、群馬県の磯部温泉に湯治に出かけます。そのときの記録『磯部の若葉』に、こんな文章が書かれています。

《丘の上に、大きい薬師堂が東にむかって立っていて、紅白の長い紐を垂れた鰐口(わにぐち)が懸かっている。木連(きつれ)格子の前には奉納の絵馬もたくさんに懸かっている。めの字を書いた額も見える。千社札も貼ってある》

 薬師堂にたくさんの絵馬がかかっているわけですが、なぜ「め」の字が書かれた額があるのか。「め」の額の現物を見たらぎょっとすると思いますが、これはもちろん眼病の治癒を祈願したものです。

 たとえば下の写真は長崎県平戸で見られた、神社に貼ってあった病気祈願の紙ですが、ここにも「目」「耳」「ハラ」などと書かれています。「傘」マークは梅毒ではないかと推測されています。

病気祈願(『日本民俗図録』)
病気祈願(『日本民俗図録』)



 文字ではなく、形で表現することもあります。たとえば群馬県花輪にある藤瀧不動尊では、参道にブリキ製の手形や足形、ヒトガタが並んでいます。これも、病気祈願の一環でしょう。

ヒトガタ、手形、足形(藤瀧不動尊)
並ぶヒトガタ、手形、足形(藤瀧不動尊)



 実は、祈願の対象は性的なものも多く存在しています。たとえば、熊本県の弓削神宮には、男女問わず、浮気封じの願掛けが、いまも残されています。

浮気封じの願掛け(熊本県・弓削神宮)
浮気封じの願掛け(熊本県・弓削神宮)



 もう一つ変わった形を紹介しておきます。日光・輪王寺にある観音堂(香車堂)には、大量の将棋の駒「香車」が並んでいます。これは香車が直進する駒なので、妊婦がこの駒を借りて自宅の神棚に祀ると、素早く、無事に出産できると伝えられています。

観音堂の香車駒(輪王寺)
観音堂の香車駒(輪王寺)



 このように、庶民の祈りの形にはさまざまありますが、一般には「絵馬」で祈願する形が多いと思われます。絵馬は、文字どおり、神に献上する「馬」を表したものです。もともと馬は神の乗り物で、神座の移動には馬が必須と考えられてきました。『常陸国風土記』には、「初国を治める美麻貴天皇(崇神天皇)」の時代、鹿島神宮に奉納したものとして、

《奉る幣(みてぐら)は、大刀10口、鉾2枚、鉄弓2張、鉄箭2具、許呂(ころ)4口、枚鉄(ひらかね)1連(ひとつら)、練鉄(ねりがね)1連、馬1匹、鞍1具、八咫鏡2面、五色絁(あしぎぬ)1連なりき》

 とあります。このほか、雨乞いなど呪術的な場面で馬の献上記録は数多く残されています。ちなみに『続日本紀』『延喜式』などによれば、雨を祈願するときは黒馬、晴れを祈願するときには白馬を献上したようです。

 同時に、生きた馬に代わって「馬型」を献上することも始まりました。『続日本紀』には、769年(神護景雲3年)、「各神社に男神服、女神服を奉じ、太神宮と月読社には馬型と鞍も加えた」との記録があります。ちなみに、1900年(明治33年)、大正天皇が結婚したとき、大臣たちから馬型2つが献上されましたが、これも神とのつながりを感じさせます。

大正天皇への献上品(『風俗画報』臨時増刊「千代乃祝」)
大正天皇への献上品(『風俗画報』臨時増刊「千代乃祝」)



 のちの時代、生きた馬も馬型も献上できない(貧乏な)人が、馬の絵を献上するようになり、絵馬が生まれました。このことを裏付ける文献として、1702年に刊行された『神道名目類聚抄』に《造馬も及ばざるものは馬を描きて奉るなり》などと書かれています。馬を描いたのは、板絵馬もありますが、紙絵馬もありました。

早池峰駒形(馬)の版木(遠野市立博物館)
早池峰駒形(馬)の版木(遠野市立博物館)



 ただし、民俗学者の柳田國男は、「庶民が馬の絵を描いて奉納したのが絵馬の起源」という定説に対して、《馬を絵に描いて奉納したのが原であったろうか》(『絵馬と馬』)として、馬のモチーフ以外にも人々は古くから絵を神仏に奉納していた可能性を指摘しています。「エマ」という京都語が地方に広まったことで、なんとなく定説になってしまったと推測しています。

 なお、現存する最古の絵馬は、難波宮跡で出土した西暦648年ごろのものです。また、平城京の長屋王邸跡近くで出た絵馬は737年頃のもので、いずれも馬の絵が描かれています。ちなみに、『続日本紀』には、737年に疫病が大流行したと記録されています。

馬が描かれた絵馬
馬が描かれた絵馬(秋田県仙北市・金峰神社、明治3年)



 いずれにせよ、馬しか描かれなかった絵馬は、次第に図柄が多様化していきます。また、室町末期には、大型の絵馬も登場してきます。巨大絵馬の先駆けとして知られるのが、室津賀茂神社(兵庫県)にある、狩野元信による神馬図です。

 その後、 安土桃山時代に入ると、上級武士や金持ちの商人らが、大型の絵馬をさかんに奉納するようになりました。こうして、多くの寺社に絵馬をかけるための絵馬堂が建立されるようになりました。絵馬堂は、画廊のような役割を果たし、画家は作品を絵馬堂に掲げることで、新たなスポンサーを探すこともありました。

大量の馬が書かれた千疋馬
大量の馬が書かれた千疋馬(秋田県仙北市・金峰神社、安永2年=1855年)



 絵馬堂で有名なのが、京都の北野天満宮や八坂神社、香川県の金比羅神社などです。下の写真は大正時代に撮影された金刀比羅宮の絵馬殿ですが、第一次世界大戦でドイツと戦争中だったこともあり、奉納された絵馬も戦争勝利になっていることがわかります。

戦争がテーマの絵馬が奉納された金刀比羅宮
戦争がテーマの絵馬が奉納された金刀比羅宮



 それでは、絵馬にはどんな種類があるのか。

 戦争が起きれば、戦死者の鎮魂として戦争画や武者絵、武術絵などが納められますが、漁民や海運業者であれば、大漁と航行安全を願う船の絵、和歌ブームが来れば三十六歌仙の図、芸能に関心があれば狂言や歌舞伎役者の姿、さらに、伊勢神宮などに旅行できる余裕があれば社寺参詣図・巡拝図などを奉納することになります。学芸が発達すると、算術の難問を描いた算額も登場しました。

船絵馬(新潟県胎内市・荒川神社、明治11年)
船絵馬(新潟県胎内市・荒川神社、明治11年)



 なお、1825年に書かれた鈴木忠侯の『閑窓随筆』では、「遊女男娼のたぐい」「大黒と淫女の首曳き」など性的なモチーフの絵馬について「不敬はなはだしい」としています。また、算額などは「神を尊敬してではなく、社頭を借りて筆戦をなす」ものとして批判しています。基本的に、大絵馬は「自分の名前を世に知らしめたい」という意図が強かったことは間違いありません。

算額(愛知県半田市・平地神明社、明治16年)
算額(愛知県半田市・平地神明社、明治16年)
※左上は描かれた図



 というわけで、以下、珍しい絵馬を公開しておきます。今回は愛知県半田市の絵馬を多く掲載しておきます。同市は醸造業などで豊かで、しかも知多四国八十八ヶ所めぐりなどで信心深い土地でもあり、現在でも多くの絵馬が残されています。

天の岩戸図(茨城県利根町・布川神社、慶応元年)
天の岩戸図(茨城県利根町・布川神社、慶応元年)
※天照大神が髭の生えた男神になっている


西国境内図「竹生島」(愛知県半田市・海潮院)
西国境内図「竹生島」(愛知県半田市・海潮院)

清水寺(愛知県半田市・光照院、文政9年)
清水寺(愛知県半田市・光照院、文政9年)

紀三井寺(愛知県半田市・光照院、明治8年)
紀三井寺(愛知県半田市・光照院、明治8年)

紀三井寺(愛知県半田市・光照院、明治8年)
上図「紀三井寺」の中央右手にある「蒸気船」拡大(右下は和歌山城)

日本軍「第3師団」(岐阜県関市・関善光寺、明治21年)
日本軍「第3師団」(岐阜県関市・関善光寺、明治21年)

 珍しいものでは、禁断図と呼ばれ、博打や男立ちを祈願した絵馬も存在しています。
 さらに、間引きした子供の魂を鎮めるため、間引き絵馬も存在しています。

間引き絵馬(茨城県利根町・徳満寺)
間引き絵馬(茨城県利根町・徳満寺)


制作:2022年12月31日

<おまけ>

 絵馬が普及すると、まるで「判じ物(イラストクイズ)」のような絵馬も登場します。

 たとえば下の絵は鬼子母神に奉納された「錨(いかり)」の大絵馬ですが、これには「水難よけ」の意味合いもありますが、おそらくは「よそで沈没しないように」芸者が旦那を足止めを願った可能性が高いのです。ちなみに錨を噛んでいる絵柄の場合、「歯痛を直してほしい」だったりします。

鬼子母神の「いかり」の大絵馬
鬼子母神の「いかり」の大絵馬

 カマが描かれていると、豊作祈願の場合もありますが、はれものを除く祈願だったり、「刈り取る」→「借り取る」→「借金返済」のこともあります。

 また、女に錠前、たばこ(キセル)に錠前、サイコロに錠前は、それぞれ女断ち、禁煙、バクチ断ちを意味します。

 生物で言えば、タコは「はれものを吸い取る」場合もありますが、丈夫な目玉にあやかりたいと「眼病治癒」が多いようです。ハマグリはぱっくり合わさっていることから縁結び、ムカデは “お足” が多いため金儲けなどの意味合いがあります。
 庶民の願いは、さまざまな形をとってきたことがわかりますね。

和同開珎と蜈蚣(ムカデ)が描かれた絵馬
和同開珎と蜈蚣(ムカデ)が描かれた現代の絵馬(埼玉県秩父市・聖神社)
 
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