築地市場の誕生

築地市場
築地市場


 浜松城にいた徳川家康は、ある日、摂津国(大阪)の住吉大社に参詣しようと思い立ちます。
 淀川の支流・神崎川まで来てみると、橋も渡船もなく、一行はどうにも動くことができません。すると、気づいた佃村の漁民たちが、わざわざ漁をやめて対岸まで送ってくれました。
 愛情に飢えて育った家康は、いたく感激し、漁民たちの名前を部下に記録させました。家康だと知らない漁民たちは、なぜ名前を聞くのかわからず、不思議がるばかりでした。

 それから20数年たった慶長4年、家康は伏見城に入ります。家康はふと漁民たちのことを思い出し、彼らを城に呼び出し、当時の感謝を伝えます。そして、佃村の漁民たちに、伏見城の鮮魚調達のすべてを任せました。漁民たちの生活はたちどころに安定したのです。

 天正18年(1590年)、秀吉は家康を江戸に移封します。
 漁民たちは嘆き悲しみ、江戸に同行させてくれるよう頼みます。こうして134人の漁民が江戸に移住。家康は今の東京駅そばに一行を住まわせ、江戸湾の漁業権を与えます。その後、一行は鉄砲洲の東の干潟に広大な土地を与えられました。この土地が、現在の佃島です。佃島には、住吉大社が分社されました。

佃島
佃島(江戸名所図会)


 慶長になると、家康は日本橋のたもとに魚市場を開くことを認めます。これは、イギリスからやってきたウィリアム・アダムス(三浦按針)のアイデアで、イギリスの市場取引を模範にしています。
 以上、『太閤記』を書いた小説家・矢田挿雲の『地から出る月』に書かれたエピソードです。

日本橋の魚河岸
日本橋の魚市場(江戸名所図会)


 明暦3年(1657年)、江戸を焼き尽くした振袖火事が発生し、このとき、浅草海辺にあった御坊(=寺社)も焼失します。幕府は再建用地として八丁堀の海上を指定。要は海を埋め立てるしかないのですが、波は高く、堤防は破れ、工事は難渋を極めます。
 それでもなんとか工事は完了し、そこに現在の築地本願寺が建てられました。そのそばには波除神社が残っています。

 日本橋の魚河岸では、路上で板の上に魚を並べて売っていました。このため、営業権は「板船権」と呼ばれます。衛生上、問題があるため、明治以降、しばしば移転が叫ばれますが、板船権の所有者の強い反対で、なかなか移転は実現しません。

日本橋の魚市場
日本橋の魚市場(1900年刊行『風俗画報』)


 大正12年(1923年)、関東大震災で日本橋にあった魚市場は焼失します。その直後、数カ所に分散していた魚河岸が、築地に集約されました。

築地市場
移転後の築地市場(1930年ごろ)


 昭和10年(1935年)2月、海軍省の施設跡地に京橋の青果市場も統合され、ここに築地市場(中央卸売市場)が開場します。約23ヘクタール(東京ドーム5つ分)の敷地に平屋が密集した異質な空間です。

築地市場
完成した築地市場


 当時の東京市は技師を欧米に派遣し、ミュンヘンやミラノ、ニューヨークなど8カ国26都市58市場を調査させました。いくつかは参考にしたものの、結局、日本独自に設計することになります。むき出しの鉄骨屋根がカーブを描く構造は、ほとんど例のないダイナミックなデザインとなりました(2003年「近代建築100選」に選出)。

築地市場
内部

 このとき生まれたのが、扇形の形状です。カーブした建物に長い貨物列車を引き入れ、一気に積荷をおろせるように工夫しました。扇の一番外側に列車が入線すると、海産物は直ちにおろされ、大卸、仲卸の競りを経て、中央広場にある「茶屋」に運ばれ、ここから全国に発送されました。

 なお、扇形になったことで、場所により店の面積が異なるというマイナス点もありました。これを解決するため、原則4年に1度、くじ引きで店の位置が決まりました。

築地市場
築地市場の屋根は大きくカーブ


 日中戦争が始まると生鮮食品は国の統制下に置かれます。昭和15年(1940年)以降、戦況の悪化とともに、物品の公定価格制度や配給制度が次々に実施され、築地市場は配給施設に変わりました。
 その流れの中で、築地市場では仲卸制度が廃止され、競りは消滅しました。終戦で水産物や青果の価格統制は廃止されますが、一方で、市場の4分の1が進駐軍に接収、一部はクリーニング工場となりました。魚の統制が撤廃されたのは1950年。これで、再び競りが復活しました。

築地市場
市場から築地大橋を望む

 
 東京都は、1972年、新市場計画を策定しますが、業界の反対で立ち消え。1986年、老朽化を理由に築地での再整備を決定しますが、営業を続けながらの工事は難航し、建設費が当初案を1000億円オーバーする見通しになり、1996年に頓挫。
 そうしたなか、豊洲の東京ガス工場跡地への移転が現実味を帯びてくるのです。
 都は累計約6000億円を投じ、空調が整った市場を完成させました。2018年10月、築地市場は豊洲に移転しましたが、開放的な市場は閉鎖空間に変わってしまいました。

 平成になった1989年に1000以上あった仲卸業者は、豊洲移転時で500数十社に。移転を機に50業者ほどが廃業しました。

 近年、小売店が漁師から直接仕入れる「市場外流通」や「産地直送」が増え、また「相対取引」が一般化した結果、市場経由の魚は大幅に減りました。そのため、豊洲移転を機に改正卸売市場法が成立し、茶屋制度などは廃止。市場経営への民間参入が認められ、直接入荷などが完全自由化されました。

築地市場
築地市場

制作:2018年10月22日


<おまけ>

 慶長17年(1612年)、現在の神田須田町近辺に青物市が立ちました。明暦の大火後、この場所へ市中の市場が統合され、千住、駒込と並ぶ江戸の三大御用市場となりました。しかし、関東大震災で壊滅し、1928年、市場は秋葉原駅そばに移転。東京市青果市場(神田市場)となり、さらに中央卸売市場神田分場となりました。こちらも1989年、大田市場に移転しています。

神田市場
神田市場
神田市場
神田市場の残骸
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