この事典は、作家で落語・寄席研究家の正岡容(まさおかいるる、1904-1958)が1957年に刊行した『明治東京風俗語事典』(有光書房)を復刻したものです。
正岡は自分でも落語の台本を書くなど、諸芸能に詳しく、多くの研究書を出版しています。その集大成が最晩年に出版されたこの事典です。
この事典を読むと、たとえばトイレに入ってるとき、外からノックされたら、昔はノックで答えずに咳払いで返答していたことなどがわかります。これを「雪隠の錠前」といいました。
あるいはまた、かつては警官のことを「がちゃ」と呼んでいたこともわかります。これは当時の巡査が身につけていたサーベルの音から来た呼び名です。
さらに「おもちゃ」(玩具)の語源は「お持ち遊び」なんていうことも書いてあります。
本事典は、もともと落語界の名人・三遊亭円朝の用語集を元に作られました。円朝は言文一致体を完成させたことで、「近代日本語の祖」とされる人物です。円朝の落語に刺激を受けた二葉亭四迷が、口語体で「浮雲」を書いたことで、明治以降の日本語の文体が決定づけられたのです。
参考までに、以下、正岡本人が書いた後書きを転載しておきます。
《思えば8年前、私は日に日にいけないことばかりがつづき、こんなときにくさってしまってはいけないからと、明治落語界の名人三遊亭円朝の代表作10篇をえらんで、「円朝語彙」800枚を製作した。「真景累ケ淵」「怪談牡丹灯籠」「塩原多助一代記」以下である。
しかし、それはあくまで円朝作品を中心のものだったので、今度この「事典」を編むにさいし、3分の1くらいをすてた。また町名は他日、別に1冊にしようというので、これもはぶいた。
そこで特におことわりしておきたいのは、あくまで「円朝語彙」に出発しているこの本であるため、改めて黙阿弥のざんぎり物の代表的な戯曲と舞踊劇、竹柴其水(たけしばきすい)のざんぎり物、たとえば「人間万事金世中」「富士額男女繁山」「木間星箱根鹿笛」以下、舞踊劇は「風船乗噂高閣ーースペンサー」以下、其水のは「会津産明治組重」などよりも語を選んだ。
また、紅葉、鏡花、緑雨、一葉、風葉、柳浪、天外、荷風、綺堂、仮名垣魯文、梅亭金鵞などからも、いろいろおぎないはしたが、ゲンミツにいうと「幕末明治江戸から東京風俗語事典」かもしれず、また円朝作品のなかからは室町時代の女中詞(女官の用語)にさえも及んでいよう。これは江戸や東京下町人の服装である唐桟(とうざん)が今日ではハンドバックになって通用していたり、電気スタンドに江戸の行灯型(あんどんがた)のがある、それをとり上げたものだとおもってほしい。いずれアレコレと筆を加えたいこと、もちろんである》
これは1956年(昭和31年)12月の文章ですが、すでに「ざんぎり物」「唐桟」など意味不明の言葉が多いと思います。わずか50年ほどで、多くの日本語が消滅したことがわかりますね。
夏目漱石や樋口一葉の小説は、かつて庶民のための読み物でした。しかし、今となっては難解で、辞書にも載っていない言葉も多く、読むのに一苦労です。そんなとき、この事典を見れば、すんなり意味がわかるのではないかと思います。
なお、本事典の文字起こしは有光書房版ではなく、2001年に出版された「ちくま学芸文庫」版を底本としました(著作権はすでに消滅しています)。その際、読みやすくするため、本文の漢数字を算用数字に変更し、明らかな間違いは修正しています。
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