封印された原爆報告書
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「封印された原爆報告書」を開封してみた
報告書の一部
毎年夏になると、NHKスペシャルで戦争物をやりますが、2010年は『封印された原爆報告書』という番組が放映されました。
ここでいう原爆報告書とは医学チームが中心となったもので、内容をまとめるとこんな感じです。
《アメリカ国立公文書館のGHQ機密資料の中に、181冊、1万ページに及ぶ原爆被害の調査報告書が眠っている。子供たちが学校のどこで、どのように亡くなったのか詳しく調べたもの。200人を超す被爆者を解剖し、放射線による影響を分析したもの…。》(公式サイトより)
原爆投下2日後の8月8日には陸軍医務局による調査が開始され、つづいて東京帝国大学の都築正男が中心となって総勢1300人に上る大調査が行われました。
番組ではこれらの報告書がすべて日本人の手で英訳され、原爆の“効果”を知りたがっていたアメリカへ渡されたとしています。それはそれでスゴイ話ですが、問題は
《なぜ貴重な資料が、被爆者のために活かされることなく、長年、封印されていたのか?》
とある点。
俺はNHK好きなんで番組を批判するつもりはないですが、これはちょっとあおりすぎかなと思います。実際はきちんと日本でも研究資料として活用されてきました。もちろん報告書の全部かどうかはわからないですけどね。
だって考えてみて欲しいんだけど。
調査報告を英訳する前にはすべて日本語で論文が書かれてるわけです。そのオリジナルは日本に残っていて、サンフランシスコ講和条約で日本が独立した1951年以降はオープンになっているんですな。
そんなわけで、「封印された原爆報告書」にはいったいどんなものが書かれていたのか? 日本側の資料を基に再現してみたいと思います。
まず番組の公式サイトが謳ってる
《子供たちが学校のどこで、どのように亡くなったのか詳しく調べたもの》
というのはどういう資料なのか?
たとえば東京帝大医学部診療班が1946年12月におこなったもの(第4次資料)をあげておきましょう。
●県立二中(1年生、308人)距離0.6km、開放
生存者0、死亡308、死亡率100.0%
●市立女子(1年、277人)距離0.6km、開放、陰
生存者0、死亡277、死亡率100.0%
●市立女子(2年、264人)距離0.6km、開放、陰
生存者0、死亡264、死亡率100.0%
●市立造船(1年、200人)距離0.8km、開放
生存者0、死亡200、死亡率100.0%
●県立一女(4年、40人)距離0.8km、屋内
生存者0、死亡40、死亡率100.0%
●県立一中(3年、40人)距離0.9km、開放
生存者0、死亡40、死亡率100.0%
●県立一女(1年、約250人)距離0.9km、開放
生存者0、死亡250、死亡率100.0%
●県立一中(1年、約150人)距離1.2km、開放
生存者0、死亡150、死亡率100.0%
●県立一中(1年、約150人)距離1.2km、屋内
生存者17、死亡133、死亡率88.6%
●県立二女(2年、37人)距離1.3km、開放
生存者1、死亡36、死亡率97.2%
●県立商業(2年、44人)距離1.3km、開放
生存者0、死亡44、死亡率100.0%
●第三国民(男、72人)距離1.3km、開放
生存者1、死亡71、死亡率98.6%
●第三国民(女、139人)距離1.3km、開放、陰
生存者68、死亡71、死亡率51.0%
●県立一中(3年、75人)距離1.6km、開放
生存者74、死亡1、死亡率1.3%
●県立二女(1年、71人)距離2.1km、開放
生存者70、死亡1、死亡率1.4%
●県立二女(2年、約40人)距離2.1km、陰
生存者40、死亡0、死亡率0.0%
●県立商業(1年、約250人)距離2.1km、開放、陰
生存者233以上、死亡17以下、死亡率6.8%
●県立商業(2年、約200人)距離2.1km、開放、陰
生存者185以上、死亡15以下、死亡率7.5%
●県立二中(2年、約200)距離2.3km、開放
生存者185以上、死亡0、死亡率0.0%
●市立造船(1年、140)距離3.5km、屋内
生存者139、死亡1、死亡率0.7%
このデータを見れば爆心地から1.2キロ内の集団は屋外であれば全員死んでいることがわかります。
原爆では6000度を超える熱が一瞬で作用します。当然、多くの患者がヤケドで死んだ可能性が推測できますが、ヤケドの死傷者について陸軍報告書では次のように書いています。
《亀山分院に於て火傷患者として死亡した126名(半径1.6km以内にて受傷)の中67名(53.1%)は1週以内に、95名(75%)は2週以内に死亡している》
たしかに主な死因はヤケドのようですが、放射線症や外傷も理由のはずです。以下は広島における死因の分類の一部です。
●0-0.5km
原因不明の即死 85(64.8%)
物理的な損傷死 37(28.2%)
ヤケドによる死 2(1.5%)
放射能傷死 7(5.3%)
全死者 131
●0.6-1km
原因不明の即死 39(20.6%)
物理的な損傷死 99(52.3%)
ヤケドによる死 19(10.0%)
放射能傷死 32(16.9%)
全死者 189
意外にヤケドが少ないこともわかりますね。ヤケド以前に“蒸発”したり物理的に破壊されて死んでるんですな。
ちなみに爆風の強さは、東大工学部の長崎の調査では400m離れて1cm
2
あたり2kg、500mで1kg、1000mで130gだそうですよ。これは東大耳鼻科による鼓膜の破裂調査からも裏付けられています。
ヤケドに関しては写真も公開しておきます。
原爆による熱傷(重傷)
色素脱失
洋服の跡が残った皮膚
洋服の模様が皮膚に移り込んでしまった例
続いて血液学的な調査です。
14歳の吉富くん(被爆距離は不明)は被爆後、次のような症状が出ました。
《被爆後3日間、悪心、嘔吐および食欲減退を訴え、6日目の8月11日に高熱を発し、腹痛に苦しんだ。8月15日に初めて咽頭痛を訴え、17日に頭髪の脱毛に気づき、また激しい衂血(鼻血)があった。26日(被爆後21日目)になって全身に斑点状の皮膚出血が現れ、中程度の血尿が出た。そして翌27日に死亡》
11日の第1回血液検査では4200あった白血球が、第2回(20日)には1100まで激減しています。以下、
・第3回(21日)1000
・第4回(23日) 350
・第5回(25日) 170
・第6回(27日) 120
と激減しています。
原爆後、2週間程度はヤケドによる影響が強く出ますが、それ以降は放射線の影響が強くなります。
骨髄の細胞は血小板系も赤血球系もほとんど空虚になり、血小板の減少により全身に出血が見られるようになります。全身とは皮膚だけでなく、肺から膀胱、睾丸、脳まですべてです。
脳からの出血
一方、顆粒細胞もほとんどなくなるため、無顆粒細胞症を発症し、全身の抵抗力が落ちます。よって扁桃腺や食道、大腸に壊死性・出血性・偽膜性炎が起こります。臨床的には大腸の場合、まるで赤痢のように見えるそうです。
吉富くんの例で言えば、第1回検査で顆粒細胞は76%(絶対数3192)あったものが、9日後の第2回には20%(絶対数220)まで激減していました。
8月19日に死亡した女性の大腿骨。
毛細血管は充血し、ところどころ出血しているが、
骨髄特有の細胞が全部消え、形質細胞と細網細胞のみ残っている
整理すると、全身出血と抵抗力の欠如により細菌が増殖し、いわば敗血症的な症状で高熱のうちに死ぬのが初期の原爆症の特徴ということになります。
肺の出血部に細菌の塊が見える。周囲の肺胞内には浮腫が
一方、被爆から1カ月ほど経つと骨髄系から再生が始まります。次いで血小板、リンパ、赤血球がほとんど同時期に再生を始めます。
ただし赤血球の場合、組織ができても血液の組成に結びつきにくく、これが慢性的な貧血の原因となるようです。
とまぁ、これ以上詳しく書いてもしょうがないのでこの辺でやめときますが、当時の研究者の懸命な調査の跡が伺えませんか?
NHKの番組ではこうした調査は「救出活動を優先せずモルモットのように行われた」としていました。でも現実問題、すべての医療機関が瞬時に破壊され、薬も医者も手が足りない中で、全員を救えるわけもなく……。
だったら後世のために医学調査を優先するのも1つの判断だと思います。むしろ戦火の中でこれだけ医療システムがきちんと稼働していたことの方がすごいと思うんですけどね。
皆さんはどう考えるでしょうか?
関連リンク
●
幻の「原爆被害・調査報告書」
●
広島の原爆
●
長崎の原爆
●
原爆の被害について
制作:2010年8月22日
<おまけ>
旧呉海軍鎮守府の記録によれば、原爆の閃光は
《光源巨大。熱感は一般に閃光輻射と同時的なるも、他は熱風を相当遅れて関知せるものもあり。閃光の持続は瞬間的というも2ないし4秒くらいが妥当》
とあります。一般に、原爆による赤外線は0.3〜3秒後に放射されるので、爆発後1秒以内に物陰に隠れれば、熱輻射線の被害は相当防げるようです。