原爆の長崎
終戦から3カ月後の被害調査報告
山王神社の吹き飛ばされた鳥居
昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、長崎に原爆が投下されました。
当時、長崎にいた美輪明宏の証言が残されています。
《まず目に入ったのが、ごろりと横倒しになっている馬でした。横で馬方らしいおじさんが飛び跳ねながら獣のような奇声をあげている。まる裸で、体は火傷で赤とも紫とも知れぬ色に膨れ上がっている。動くたびに皮膚がズルズルと剥け落ちていきました》(『女性自身』2002年08月27日号「長崎で、私は一度死んだ」)
被爆後、すぐさま家を飛び出した美輪は、路地を抜ける途中、誰かに腕を掴まれます。
《私は半袖だったから、今でもあの感触を覚えています。『助けてくれ』。ひしゃげた声でした。思わずその手を振り払ったら、その人の腕の筋肉がズルリと剥けて飛び散りました。私の手首にはまだその人の肉の余りがついていた》
原爆投下直後の写真
長崎に原爆が落とされたことは、国民に最後まで伏せられました。
そして8月13日付の新聞に、「外相奏上」としてこんな記事が出ました。
《敵米の新型爆弾の使用、ソ聯の一方的対日宣戦布告によつて戦局は真に危急、いまや最悪の事態に至り日本の直面する現段階は正に有史三千年来未曾有の国難に逢着したものといはねばならぬ、政府では……真に一億一丸となつて国体を護持し民族の名誉を保持せんとする最後の一線を守るため一億国民があらゆる困難を克服すべきことを要望した》(毎日新聞)
こうした報道もむなしく、翌々日、ついに日本は敗戦の日を迎えるのです。
目抜き通り(濱の町)
建築家・都市計画家だった内田祥文は、敗戦から3カ月後の1945年11月、広島と長崎の原爆の被害調査に出かけます。その記録が『科学画報』1946年1月号に記載されています。当時の世相がよく分かるので、長文で引用しておきます(読みやすさを優先し、一部改変)。
諫早に一泊し、翌朝、晴天下を長崎に向かう。
車窓から見る景色は、戦前のそれとなんら変わりがない。美しい静かな海、そしてその向こうに見える山々のたたずまい、みかんの樹々には枝もたわわに黄金色に実が色づき、農家の軒にはイワシの干物と干し柿がゆらめく。
私はどことなくやわらいだ、あたたかい気持ちになった。
新聞によると、米国の調査隊も長崎に向かったとのこと。また『原子破壊の秘密、国際勢力に影響、米英会談の帰趨注目』という記事もある。
何かざわめきが起こったので、ふと顔をあげたときであった。ものすごい破壊状態が眼前に展開されだした。凄愴(せいそう)と言おうか、また凄絶と言おうか――それはわれわれが、いまだかつて見たことのない、荒涼たる情景であった。よれよれにねじ伏せられ、打ちひしげられた膨大な工場の鉄骨のかたまり、何か想像もつかなぬような強大な力で打ちのめされて、上半部をのたうったガスタンク、これらを前景として、見渡す限り、荒廃した土地が横たわっている。
あの歴史的な日より、すでに3ケ月を経過した今日であるのに、ここに見られる破壊の姿の何となまなましく鮮やかなことか。われわれは一気に爆心地に突入していたのであった。
被爆した長崎
長崎の地形は複雑である。街は、北より南に流れて湾に注ぐ浦上川の狭小な両岸平地ならびに丘陵斜面と同湾東北部の山裾にあふれ込んだ平地およびその付近一帯の丘陵斜面に発達し、独特な石段の多い、古風な異国情緒をたたえた土地として、馴染み深い。
8月9日11時2分頃、島原半島北上空を経て侵入したB29は、やや北端の浦上駅を去る約1kmの地点、高度500メートル程度の空中で、原子爆弾を炸裂せしめた。
そして、炸裂と同時に生じた強大な爆風と熱線とは、東西の丘陵面に激突する一方、狭小なる平地を浦上川に沿い、南北に流れ去った。全焼1万1000余戸、全壊2600余戸、死亡および行方不明2万5600余人、それが当初の被害である。
長崎の山がちな地形(原爆前)
長崎駅は爆心より、約2.5kmの距離にあり、この凄惨な被害をこうむった地域の一部であるが、今日人々でにぎわい、特に米軍の土木機械の活動は盛んであった。
午前は県庁保安課で被害状況の大様を聴取、午後は鉄道のM氏の案内で、南部市内を歩く。天候は次第に悪化、夕に長崎発、多良に引き返し、泊まる。
長崎県庁(原爆前)
翌日は雨天、浦上駅にて下車。雨に濡れながら爆心地へと向かう。
まず鉄道沿いに1kmも続く、三菱製鋼の鉄骨の破壊状況を見る。ついで浦上川西側の丘陵地に登り、瓊浦(けいほ)中学校庭で昼食、このあたりは爆心より約600メートル、斜面の松の木がすべて根本から打ち倒されている。講堂の跡であろう、ピアノの残骸を足もとに、雨煙るなかをはるかに浦上天主堂の廃墟を望む。
浦上天主堂全景(原爆前)
一望ただ焼野、建物でその外形をやや完全にとどめているのは鉄筋コンクリート造のみ。爆心地付近の樹木は、黒こげになりながらも直立し、そのあたり一帯は、サルバドール・ダリの絵のようである。低い雲のなかから、鳶が次々と舞い下り、われわれの頭の上をかすめては流れ去っていった。
この土地の原子爆弾の破壊状況を木造家屋についてみると、爆心より約1km以内の木材は細片に粉碎され、構造物はほとんどその形をとどめぬ。2kmに至っても、継手は破壊され、軸部のみが傾いて残る程度。3kmになると家屋の外形は残るも、壁、天井、床は破壊され、4km以上の部分において、はじめて使用に耐えうる程度である。
丸山遊郭(原爆前)
そして、火災はたいやく木造家屋の破壊地域全般にわたって同時に生じたもののごとくである。目撃者は、まずマグネシウムの閃光のようなものが認められ、数秒後には爆心地一帯には数千メートルの火柱ができ、数分にして入道雲が上空高く生じ、その下方は黒赤色の煙で全市をおおったと言う。
この天空に突然生じた高熱体の発する輻射熱により生じた火災と、建物の倒壊により、屋内既存の火より二次的に生じた火災とにより、全市の大半――東西約4km、南北約6km、面積約20平方kmの地域が焼失した。
われわれは、しとしとと降り注ぐ雨のなかを下り、浦上川を渡って対丘の天主堂へと近づいていった。
浦上天主堂の内部(原爆前)
丘の上の、無残にも破壊された、しかし、すぐにそれとわかる懐かしい姿が、近づいてくる。私はかつて早春の夕、この地を訪れ、この坂を登ったとき、襟元にしのび込んできた、ほのあたたかな南風の感触と、そして赫々(かくかく)とあたりに輝り映えていた夕焼の光とを、いつの間にか思い起こしていた。
急な斜面を登りつめて、堂の前に立つと、まず砕け落ちてうず高く積まれた煉瓦の裂け目の赤が、目にしみて感ぜられる。そして、その所々には、灰色の天使の顔や、いろいろに刻まれた動物の体の一部が、転々と横わり、それらの隙間からすくすくと伸びた草の葉の緑が、雨にあらわれて新鮮である。正面入口の前には、白骨が無造作に放置されてあった。
現在の浦上天主堂
この丘一帯の地は、「原子爆弾の記念地」として、このまま永久に残す計画とのこと、このように暴威を受け、かほどまでに破壊されながら、しかもなんと美しく、なんと安らかに感じられることか。われわれは、しばしここにたたずみ、荒涼たる四周から、不思議と慕いよるようにしのびよってくる、しめやかな挽歌の合唱に、身をゆだねていた。
「原子爆弾の記念地」とはいかなることを意味するものであろうか。それは単なる歴史的な一事態のモニュメントに終わらしめてはならぬ。
長崎原爆の爆心地
夕刻、多良にむかい、一泊。あくれば快晴、三たび、長崎に向かう。福済寺の裏より山の中腹に登り、北へと進む。明るい太陽は港の海水に輝り映え、一望のなかに見渡せる長崎の鳥瞰は絵のようであった。山腹には点々と墓地があり、爆風により転倒した墓石の上に刻まれた金色の文字にたまった昨日の雨水は、空を流れ去る雲の方向により色を変ずる。
福済寺(原爆前)
山のうねりを曲がるにつれ、爆心地へと近づく。丘陵にある半壊の住居の付近で、醜く顔面を火傷した婦人に会う。はっとして顔をそむけ、家のなかにと走り込むその姿に、私は忘れられていた戦争の罪過の一つに胸をえぐられた。長崎医大付近にて、山を下る。各所に転々と白骨が横たわり、その大部分は、放置されている。医大の建物のなかには講義中に圧死した学生諸君の死体が、まだそのままで残っているとのこと、人一人住まぬ宏大な建築群は、直射する太陽を受けて、静寂そのものであった。
長崎医大(原爆前)
更新:2023年8月1日
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原爆から10年後の爆心地