「地方」の成立
130年前の大リストラ

廃藩置県
リストラ宣告の瞬間


 まずは、この紙っぺらを見て欲しいんだな。これは上の画像で、右の人物(三条実美)が読んでるものなんですが……

廃藩置県

 もはや、この文書を解読できる日本人はほとんどいないと思いますが、ここにはこう書いてあるんです(句読点などは原文にありません)。

《朕惟フニ、更始ノ時ニ際シ、内以テ億兆ヲ保安シ、外以テ万国ト対峙セント欲セハ、宜ク名実相副ヒ、政令一ニ帰セシムヘシ。
 朕曩ニ諸藩「版籍奉還」ノ議ヲ聴納シ、新ニ知藩事ヲ命シ、各其職ヲ奉セシム。然ルニ、数百年因襲ノ久シキ或ハ其名アリテ其実挙ラサル者アリ、何ヲ以テ億兆ヲ保安シ、万国ト対峙スルヲ得ンヤ。
 朕深ク之ヲ慨ス。仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト為ス、是レ務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ、政令多岐ノ憂無ラシメントス。汝群臣其レ朕カ意ヲ体セヨ》


 これでも理解しにくいんですが、冒頭の「朕」という言葉から、天皇のお言葉だということが判明するわけです。実はこれ、明治4年(1871年)7月14日に出された「廃藩置県の詔」なんですね。

 超訳すれば、「国を守って外国と対峙するために版籍奉還したけど、まるで成果があがらないので、今度は廃藩置県してもっと改革を進めるので、そのつもりで!」ということです。

 明治2年(1869年)6月に、各藩主が土地(版)と人民(籍)の支配権を天皇に返還します。これがいわゆる版籍奉還。ところが、これは名目的なもので、藩主はそのまま新たに知藩事に任命されたので、結局、政府の中央集権は不完全なままでした。

 で、1871年の廃藩置県となるわけです。知藩事はいきなり解任させられ、籍を東京に移されてしまいます。もっとも知藩事に関していえば、収入も華族の地位も保障されたため、それほどの抵抗はありませんでした。
 問題は下っ端連中で、ここぞとばかりの大リストラが行われます。

 なにせ、当初、1使(開拓使)3府(東京、京都、大阪)302県が、4カ月後には1使3府72県に統合されてしまったので、大暴風雨状態の人員カットです。
(ちなみにその後は、1879 年 4 月に沖縄県が設置されて1使3府 36県に。1886 年に北海道庁が設置されたのを受け、1888年には1道3府43県となりました)

 この“構造改革”をイギリスの代理公使アダムスは
《是れ実に非常の英断にして洵(まこと)に慶賀すべし。我が欧羅巴に於て若(も)し斯くの如き大業を成さんと欲せば、幾年か兵馬の力を用ゐるにあらずんば其の成功を期すること能はざるなり》(『明治天皇紀』)

 と絶賛していますが、やられた方は大迷惑。

 ちなみに改革を断行した木戸孝允(トップ画像の中央左端の黒服)は、廃藩置県の成功に《感情塞胸不知下涕涙》(『木戸日記』)と涙ながらの感慨にふけっていますが、《(大政奉還のために)一(ひとつ)の謀略を設け》などと自慢げに語っているのを見ると、政治闘争は昔からなんだなー、と妙に納得してしまうのでした。

 なお、参考までにこの後の展開について触れておきます。

 木戸孝允の陰謀で(?)地方の行政区が成立したわけですが、次に細目を決めないといけません。

 そこで1875年6月、地方長官を集めて、第1回地方官会議(初期の国会ですな)が東京浅草で開催されました。 もちろん議長は木戸孝允ですが、ここで町村会の開設や国税と府県税の区分などが設定されました。

 続いて、1878年、いわゆる三新法(さんしんぽう)が公布されます。郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則の3つですが、これが明治政府最初の統一的地方制度となりました。

地方官会議
地方官会議
(写真上部右から4人目が木戸)


 こうして中央集権をきわめた政府ですが、それから130年後の現在、今度は地方改革と称して、税源移譲、補助金削減、地方交付税改革をセットにした「三位一体改革」を進めてるわけです。
 歴史ってば、結局、ぐるぐるとただ回転してるだけなのが、よーく分かるのですな。

制作:2003年7月16日

<おまけ>
 廃藩置県が決まったときの様子を、イギリス人外交官だったアーネスト・サトウが記録しています。アーネスト・サトウは熱海などを旅行していて、東京に戻ると体制ががらりと変わっていました。

《(明治4年8月31日夜)6時頃江戸に到着したが、留守中に大きな変革が行われていた。すべての「藩」は廃止されて「県」に改まり、外務卿の沢は岩倉に代わった。大隈は参議に復帰し、土佐の板垣が新たにメンバーに加わった。井上聞多は民部大輔になった。今後もいくつかの変革が続くのは間違いないところだ。大名全部が「藩」知事職を罷免されたが、今の所「大参事」などの若干の職位はそのまま残っている》(『日本旅行日記2』)

 このあたりの即断即決ぶりに、明治天皇の行動力を感じますね。

※ちなみに冒頭の書類ですが、これは日本人ならだれでも知ってる、とある食品メーカーの創業者一族の家から出たものです。この一族は江戸時代から続く豪商だったので、こんな文書を入手できたのかもしれません。もちろん、本物かどうかは分かりませんが。

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