11人の側近が語る
明治天皇の日常生活
日本酒好きで、花見が嫌い。古新聞をため込み、蓄音機で音楽を聴く日々

明治天皇践祚(即位)
践祚(即位)慶応3年、14歳


 明治天皇の評伝を読むと、明治天皇は刀と時計のコレクターで、酒好きだけど花見が嫌い。倹約家だが、フランスの香水が大好きで、3日で1ビン使った。風呂は半身浴で、3人の女官が体を洗うのだが、だんだんその手間がめんどくさくなって風呂嫌いになった……などといった人間味あふれるエピソードが数多く残されています。
 そこで、本サイトでも、知られざる明治天皇の日常生活を公開しておきます。
 
 せっかくなので、実際に宮中で天皇に仕えた人たちのインタビューを大量に掲載しておきます。出典は昭和2年に刊行された『キング』付録の『明治大帝』より。
 なお、あらかじめ断っておきますが、原文は難解で、《然るに私どもの浅慮から、この深き大御心のほども弁(わきま)えず、洵(まこと)に恐縮に堪えぬことで……》みたいな文章が多いので、読みやすさを優先し、大幅に意訳してあります。

明治天皇
即位したときの明治天皇


 さて。
 第122代の天皇である明治天皇は、孝明天皇の第2皇子として嘉永5年(1852)11月3日に生まれました。11月3日は戦前、明治節として休日でしたが、現在は文化の日となっているのはご存じの通り。

●幼少時代は「いたずらっ子」

 万延元年(1860)、明治天皇が9歳のときに宮中に入った樹下範子(掌侍取扱)が、幼少時の堅苦しい生活について語っています。

《当時の日常は、朝7時頃起き、御膳を召し上がった後、身支度をされ、白粉までおつけになりました。髪は稚児髷で、お召し物は模様のある縫いの振り袖、まるでお姫様のような格好でした。
 昼の食事がすむと、お召し替えです。本紋の緋綸子(ひりんず)の御衣、白絹の御袴という鮮やかな姿で御所に参内なさいます。そして、午後3時頃まで、お父様の孝明天皇のそばにいらっしゃいました。御所では毎日2首の歌を詠み、手習いをなさいました。夜はだいたい9時頃お休みになりました》


 非常に退屈そうな毎日ですが、実際の明治天皇は「おいた」ばかりするいたずらっ子でした。明治18年から宮中に奉公した藪嘉根子(元掌侍)の証言。

《聖上(おかみ)は小さいときから非常に勝ち気で、稚児を相手に戦事(いくさごと)をする際も、自ら木の太刀を持って勇ましく切り合い、決して負けることはなかったと聞いています。したがって、「おいた」もなかなか激しく、そこへ私の兄の亀吉が相手になって、ずいぶん女官の方々を困らせたそうです。
 女官の後ろから水をかけて驚かせたり、呉服所の人々が大切に縁側に飾っておいた万年青(おもと)の葉を、ハサミでちょん切って坊主にしてしまったり、廊下はいつも「おいた」で大騒ぎだったそうです》


明治天皇の深曽木
明治天皇の「深曽木の儀」(万延元年、8歳)


 どうも子供の頃の和装が苦手だったようで、洋装や西洋文化をいち早く取り入れています。

●ドイツ人から習った洋食の食べ方

《女官の服装も、国交上必要とお認めの上は洋装に改め、また、束髪の結い方、洋食の食べ方、諸礼式なども、宮内省御雇いのモール夫妻(ドイツ人)に、伊藤公爵夫人・梅子さまの通訳で皆の者が教えていただきました。そうして、いつも御内儀(ごないぎ)の食堂で、聖上がテーブルの席までご指定になって、洋食の食べ方の練習がありました。接伴役には洋食の嫌いな方がなりましたが、その代わり、その方たちは後で果物を頂戴していました。初めのうちはいろいろな失敗もありましたが、おかげさまで、だんだん諸礼式に慣れ、外人と会食できるまでになりました》(藪の証言)

 こうして明治19年に女官の服装が洋装になりました。明治天皇も、寝るとき以外、常に軍服かフロックコートを着ており、基本的に和服を着ることはありませんでした。

明治天皇の即位の礼
即位の礼(明治元年)

明治天皇の即位の礼
即位の礼


●倹約家

 明治天皇はとても倹約家だったと言われています。日野西資博(元侍従・宮中顧問官、子爵)がこう証言しています。

《大帝は非常に質素でした。机の硯箱は鹿児島産で、竹を2つ割りにして中を黒塗りにした粗末なものでしたが、何十年とご使用になりました。墨にいたっては磨り減りすぎて、手に墨汁がつくまでお使いになりました。
 各省から奏上された書類は、ワイシャツや襦袢を入れた白ボール紙の空き箱を使っていました。机の上には緋羅紗のテーブル掛けがかけてありましたが、いつの間にか、たばこの火でたくさんの焼け跡ができていました。それでも、とうとう取り替えを許しませんでした》


 節約のため、避暑や避寒には生涯、ほとんど出かけていません。このことについては、「自分が移動すると人手も経費も膨大にかかるのが嫌だから」と周囲に語っています。
 これは推測ですが、花見嫌いというのも、そうした手間暇を避けるためだったのかもしれません。

明治天皇の文机
明治天皇の文机

●電気嫌い

 実は、文明開化を進めた明治天皇は、電気が大嫌いでした。

《宮城は、表の方こそ外国との交際上、やむをえず電灯がありましたが、御内儀は崩御まで決して電灯を使うことが許されませんでした。御座所もお局も西洋蝋燭にホヤをした灯りで、長い長い廊下には、種油に灯心を入れた網行灯が10間おきくらいに立っていて、ぼんやりと照らしていました。
 聖上(おかみ)は常にこう仰いました。
「この宮城は、国民の真心からできたものじゃ。万一電気を引いて、衆議院のように漏電で火事でも起こしては、国民に対して相済まない。日本の電気の研究はまだ幼稚なものじゃ。表の方はいろいろな関係でしょうがないが、内儀(おく)だけは不自由でも忍んでいこう」》(元命婦・樹下定江の証言)


 女嬬(にょじゅ)や雑仕の人間は、真冬には深夜0時と2時の2回、部屋中を夜回りして火鉢の火をチェックしなければなりませんでした。
 ちなみに、蝋燭の火が夕食時に消えると、女官は罰ゲームをさせられました。どんな罰ゲームかというと、蝋燭に張ってある紙を叩きながら3回まわって、何か芸をするんだそうです(『明治天皇の一日』による)。

●蓄音機と新聞

 明治天皇の最大の趣味は、手回し蓄音機で音楽を聴くことです。以下、平田三枝(元命婦)の証言。

《近頃流行のラジオ、あれを聞くたびに「あぁ、今少しご在世が長かったら、あんなに蓄音機がお好きだった聖上(おかみ)のお耳にせめて一回でも……」と年寄りの繰り言をするのです。聖上は、それはそれは蓄音機がお好きでした》

 明治天皇が初めて蓄音機を見たのは、明治36年の第5回内国勧業博覧会でのことでした。このとき、宝生九郎の吹き込んだ謡曲を聴いてハマってしまいました。ちなみに明治40年には、「蓄音機」という題で、こんな句を詠んでいます。

  末までも きかまほしきを たくはへし 声のたゆるが 惜しくもあるかな

 平田によれば、明治天皇は新聞も大好きでした。

《聖上は下情に通じるための手段として、全国の新聞という新聞に目を通していました。聖上に差し出す新聞は普通のもので、ただ消毒しているだけが違いです。新聞をご覧になった後は、必ず保存していました。
 おそばの者たちが「新聞がだんだんと増えてきて、倉の中がいっぱいで、もう置き場所がなくて困ってしまう」と言っていたこともあります》


 余談ですが、ドナルド・キーンの『明治天皇を語る』によると、肥満気味だった明治天皇は、後年、自分の体重が75キロと新聞に書かれて以来、新聞嫌いになったそうですよ(笑)。

明治天皇の愛読書
明治天皇の愛読書


●常人の能力を超えた記憶力と作句

 明治天皇には、信じられない記憶力のエピソードが数多く残っています。

《一度聞き、一度見たことは、決してお忘れにならないという、人間業とは思えない聡明さを持っていました。
 ある年のことです。京都へ行幸され、御所にいらっしゃったところ、おそばの者をお呼びになり「先ほどから静かに聞いていると、どうも庭の流れの水音が去年とは違うようだが、流れの作りでも変えたのではないか、調べてみよ」と仰るのです。翌日早朝、内匠寮(たくみりょう)の者に調査させたところ、石の置き方を変えたことがわかり、さっそく元通りに戻させたことがございました》(平田の証言)



 そして、宮中では毎日大量の句を詠み、生涯で10万句を作りました。以下、御歌所寄人の千葉胤明の証言です。

《明治天皇は天性の歌人でした。お遺しになった御製(の句)も10万に達しています。日露戦争のご多忙の折でも、毎日40首以上詠んでおりました。ご壮年の頃、「探梅」という句をお作りになったのですが、私は「題にふさわしくない」との評を出しました。数日たって「この間の歌は、どうして題にふさわしくないのか」とご下問されました。
「おそれながら、あの句はたった1日で鎌倉の梅を見に行ったかのように感じられます。そこがいかがかと思います」と答えると、「そうか」と仰られました。
 すると、また2〜3日たって、
「この間、鎌倉の梅は1日では見られないと言っていたが、昨日実際に試させたところ、1日で十分だったと言っている。それでもあの歌は題意にかなわぬと言うのか?」と仰ります。
「たしかに駿馬で回れば鎌倉も1日で事足りるかもしれませんが、国家の有事ならいざ知らず、歌ですから心に風流のゆとりがなくてはなりません」と言うと、明治天皇は「もっともである。よくわかった」とニッコリされました》


 歌の批評に納得がいかず、実際に鎌倉まで梅探しに行かせるというのは、かなりすごい話です。

●西郷隆盛が好き

 なんだかヒマそうな明治天皇の日常ですが、当たり前ですが、宮中でずっと時間つぶしをしていたわけではありません。言うまでもなく、政治に積極的に関与していたのです。

明治天皇の巡幸
明治天皇の巡幸


 行動派の明治天皇は、即位してまもなく日本中を巡幸しています。その数、97回。一番最初は明治5年に始まった全国行幸で、明治9年に東北、11年に北陸・東海道、13年に中央道、14年に東北・北海道、そして18年に山陽道へと巡幸を続けます。このおかげで、土で固められていただけの道路がどんどん改善されていくのです。

 巡幸について面白い話が残っています。一戸兵衛(明治神宮宮司、陸軍大将)の証言です。

《あるとき、明治の初年におこなった最初の西国巡幸のお話をされました。陛下はいつになく高い声で、そのとき乗った船「龍城」の玉座が畳2畳あったこと、西郷隆盛が供奉長(ぐぶちょう)だったこと、そして、どういう問題があったのか、その「龍城」が浅瀬に乗り上げてしまったことなどをお話になりました。30年以上前のことを偲ぶかのように「あのときは西郷が怒ってのう」と仰いました。聞くところによれば、そのとき西郷は艦長の失敗に怒り狂い、刀を抜いて艦内にあったスイカを切って怒りを静めたそうです。このときが私が最初に玉音(明治天皇の声)を聞いたときでした》

 明治天皇は、西郷隆盛が大好きだったと言われています。だから、西南戦争で敵となった西郷の銅像を上野の山に作ることを認めるんですね。
 逆に、陸奥宗光や尾崎行雄、乃木希典は嫌われていたようです。

●戦場で蚊帳とストーブを我慢

 明治27年(1894)7月、日清戦争が起こると、明治天皇は宮中に大本営を設置し、毎日、軍議を開きました。戦線の拡大にしたがい、9月には広島に大本営を移転します。
 このとき、広島に同行した石黒忠悳(枢密顧問官、子爵)の証言。

《10月25日になって、私に戦地を一巡してこいと仰せがあったので、その翌日、広島を出て各地を巡視し、11月24日の夜、広島に帰りました。翌25日の御軍議のとき、巡回先の将卒の健康状態、士気、給与、気候、物資の過不足、運輸の便否などについて詳細に奏上しました。奏上がすんで最初にご下問になったのは、朝鮮および満州にいる軍隊の糧食についてでした。
「飯は朝鮮米か、日本米か、それとも支那米か」
「平壌におります兵は朝鮮米を食べております。義州の兵は朝鮮米と日本米を混ぜて食べております」
「朝鮮米には砂がたくさん混じっていると聞いているが、その朝鮮米を食べている兵士は、歯を傷めるとか腸胃を壊すということはないか」
 その頃は朝鮮と日本との交通が今日ほど開けていなかったので、朝鮮の米に砂が混じっているような話は、米穀商か、私のような職務上、食べ物に関係している者以外、知っている者などほとんどいない時代です。それを御下問されるとは、実に驚くべきことですし、軍人の衛生にここまでご配慮されるとは、なんともありがたいことです》


 兵隊と苦難をともにするため、広島大本営では蚊帳を吊ることを禁じ、蚊の襲来に耐えたと言われています。

明治天皇、対ロシア宣戦御前会議
対ロシア宣戦御前会議


 続いて、日清戦争後、宮中に入った石山基陽(元侍従職出仕)の証言。

日露戦争当時のことですが、それまでは冬になると御座所にはストーブをたいて部屋を暖めていたのですが、戦争開始と同時にストーブを使うのをおやめになりました。真冬でも部屋を暖める火鉢と、机の脇に手炉(しゅろ)を使うだけでした。
 暑い夏も旧式の軍服に身を包み、毎日ご政務をしておられました。わずかに涼をとるものと言えば、鉄道局からもらった蓄電池式の小さな扇風機のみでした》

 やはり、ここでも「国民とともにある」明治天皇は質素な生活を送るのです。

●戦争嫌い

 明治天皇は戦争嫌いでした。

《天皇の治世中に起きた戦争の際に天皇が見せた行動からうかがうことが出来るのは、軍服を好んで着たことや陸軍演習の統監が好きだったこととは裏腹に、心底から戦争が嫌いだった事実である》(ドナルド・キーン『明治天皇』)

 お盆が来ると、宮家や臣下より献上された数多くの提灯を縁側に吊し、心ゆくまで賞玩していたといいます。もしかしたら、日清・日露戦争で死んだ兵士の霊に思いを馳せていたのかもしれません。

観兵式の明治天皇
観兵式の明治天皇


●川魚が大好き


 では、ここで明治天皇の食生活について。

《お召し上がりもののご嗜好を申し上げれば、魚類ではタラ、ひがい、アユなどの川魚、肉類はカモをことのほか好まれ、かぼちゃ、スイカ、アンズの砂糖煮、道明寺(乾飯の一種)なども好きでした》(石山基陽の証言)

 明治天皇があまりに「ひがい」を好んだことから、「ひがい」を漢字で「鰉」と書くようになりました。川魚は大好きですが、海の魚や海苔は絶対に食べませんでした。というか、刺身が大嫌いだったそうですよ。そして、魚の卵とアスパラガス、アイスクリームが大好き。
 朝食には必ず牛乳を飲み、パンが多かったようです。

 宮中では明治4年に肉食が解禁されたんですが、以後、明治天皇は牛や豚、羊などの肉を食べ続けます。こうした肉は明治8年、下総に作られた御料牧場で飼っていたものが多いんですね。ちなみに、この御料牧場を潰してできたのが、成田空港です。

晩年の明治天皇
晩年の明治天皇

●酒豪

 では、酒はどうだったのか? もともと日本酒が大好きで、後年、健康のためにぶどう酒派に転じました。以下、壬生基義(元内豎、伯爵)の証言。

《お酒も壮年の頃には、おそばの人たちを相手に盛んに召し上がったようだった。お酒は計り知れないほど強く、しかもいくら召し上がっても、決してお乱れになるようなことはなかった。夕方の食事の折など、私が晩酌の相手を申し上げると、「お前のように酒を飲めぬ者に杯をやるのは、もったいないからやらない」と冗談に仰っていたのをよく覚えています。これほどお好きだったお酒も、日露戦争後には侍医の進言ですっぱりとおやめになった》
 
 このころには煙草もやめており、かなり健康に気を遣っていました。しかし、かなり太めの体型で、体は糖尿病、慢性腎臓炎、胃腸炎などでボロボロ でした。

明治天皇の愛犬
愛犬「六号」

●犬好き

《聖上(おかみ)はたいそう動物が好きで、特に犬が好きでした。伏見大宮さまから2匹の犬をもらいましたが、御内儀にいたのが「六号」、表御座所にいたのが「花号」と言いました。2匹ともとても利口な犬でした。朝、女嬬(にょじゅ)につれられてまいりますと、いきなり聖上のそばへ走っていき、牛乳を飲んでいる聖上の膝の上に手をかけてお裾分けをお願いするのです。聖上はニコニコして別の器で分け与えるのです。
 ある夕べ、「六号」は聖上のお休みになっている部屋の方を向いて、異様な悲鳴を上げていたそうです。後になって思うと、その日の晩に崩御あらせられたのです》(元典侍・小倉文子の証言)


 崩御したのは明治45年(1912)7月30日午前0時43分。享年59。直接の死因は心臓麻痺とされています。
 死の当日、旧友の子爵・藤波言忠は、皇太后の許しを得て身長を測りました。約167センチだったと記録されていますが、体重は測られませんでした。

明治天皇の霊柩車
明治天皇の霊柩車

明治天皇の大喪の礼
大喪の礼

明治天皇の墓
墓所(伏見桃山陵)


制作:2012年7月29日


<おまけ>
 崩御直前、明治天皇の体調の悪化が報じられると、国民はこぞってイベントなどを自主規制していきます。両国の川開きが中止されるのを見て、夏目漱石が日記で批判します。

《晩、天子重患の号外を手にす。尿毒症の由にて、昏睡状態の旨、報ぜらる。川開きの催し、差留られたり。天子未だ崩ぜず、川開を禁ずるの必要なし。細民、是(これ)が為に困るもの多からん。当局者の没常識驚ろくべし。演劇其(その)他の興行もの、停止とか停止せぬとかにて騒ぐ有様也。天子の病は万臣の同情に価す。然(しか)れども万民の営業、直接天子の病気に害を与へざる限りは進行して然るベし。当局、之(これ)に対して干渉がましき事をなすべきにあらず。もし夫(それ)臣民中心より遠慮の意あらば、営業を勝手に停止するも随意たるは論を待たず。
 然らずして、当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れて、当然の営業を休むとせば、表向は如何にも皇室に対して礼篤く情深きに似たれども、其実は皇室を恨んで、不平を内に蓄ふるに異ならず。恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に醸すと一般也。(突飛なる騒ぎ方ならぬ以上は平然として臣民も之を為すべし、当局も平然として之を捨置くべし)》(7月20日の日記)


 日本人の自粛好きは昔から変わらないんですね。
明治天皇の回復を祈る庶民
明治天皇の回復を祈る庶民
© 探検コム メール