日本航空の挑戦
リニアモーターカー「HSST」

HSST
HSST


 成田空港が開港したのは、1978年5月20日のことでした。都心から66km離れており、オープン前から、そのアクセスに大きな疑問符がついていました。

 66kmだと、高速道路で1時間ちょっとで行ける計算ですが、渋滞がひどく、都心から空港へは2時間、空港から都心へは3時間みる必要がありました。都心からさらに羽田空港へは、早くて40分、下手したら60分かかる計算です。このため、当時の航空時刻表『ABCガイド』には、成田から羽田まで270分と記載されることになりました。

 当時、羽田空港の最終便は20時ごろでした。とすると、地方に出たい客は成田に15時くらいに到着しないといけないのですが、成田到着便のほとんどが15時以降になっていました。客は成田で一泊し、翌朝の便で飛ばねばならず、成田から大阪に行くのは、ニューヨークやパリより時間がかかるという珍妙な事態になっていたのです。

 こうした問題を早期に予測していた日本航空は、成田と羽田を高速で結ぶ新交通機関の開発に乗り出します。それがリニアモーターカーHSST(High Speed Surface Transport)で、成田〜東京14分、東京〜羽田を4分で結ぶ計画でした。ついでに、札幌〜新千歳9分、新千歳〜苫小牧6分で結ぶ計画もありました。

HSST路線図
快適アクセスを目指す


 日本航空は、国産旅客機YS−11の整備基準書をまとめあげた技術者・中村信二を中心に、開発をスタートさせました。その中村自身が残した講演録から、この壮大なプロジェクトの跡をたどります。

 リニアモーターカーには、西ドイツのシーメンスや日本の国鉄が開発していた「超電導・反発浮上式」と、西ドイツのクラウス=マッファイ社およびMBB社が開発していた「常電導・吸引浮上式」の2種類あります。日本航空は後者を採用しました。

リニアモーターカーHSST-02
「常電導・吸引浮上式」模式図(HSST-02)


 それぞれの主なメリット、デメリットは以下の通りです(1970年代の状況)。

【超電導・反発浮上式】
<メリット>
・浮揚速度に達するまで車輪が必要だが、高速では10〜30cm浮上できる。地盤の悪い日本向き
・推進のための電力を機上に送る必要がないので、高度の集電技術が不要
<デメリット>
・超電導を作るヘリウムの冷却、液化に大きなパワーが必要(ニオブチタン合金を液体ヘリウムでマイナス269℃まで冷却)
・高価なヘリウムの散逸を防ぐ技術開発が困難
・強力な磁場が人体に悪影響を及ぼす可能性

【常電導・吸引浮上式】
<メリット>
・浮上パワーが小さくてすむ。1トンの揚力を得るのに1〜3kW程度で十分
・1975年、MBB社が時速401kmを記録するなど、多くの実績がある
<デメリット>
・レールとマグネットの間隙が10mmほどと狭いので、高い精度がないと高速走行できない

リニアモーターカーHSST将来イメージ
HSST将来イメージ


 1974年4月、浮上テストに成功した日本航空は、横浜市の杉田にある日本飛行機の敷地を借用して、実験場を建設。1975年12月22日の夕刻、初号機HSST-01が初浮上します。
 中村は、1978年の講演で次のように語っています。

「杉田の実験場は、トラックの長さが約200mである関係から、最高速度は時速35km程度だったが、人を2名乗せることができた。予想どおり極めて抵抗が少なく、1トンの重さのものが片手で楽に動かせた。低速では氷の上を滑るように極めてなめらかであるが、速度が増すに従ってレールの歪みにマグネットが追随するため、その反応が伝わって、次第に乗心地が悪くなる」(以下同)

 高速実験のためには、もっと長いトラックが必要なため、1976年、2年前に埋め立てられたばかりの川崎・東扇島に1300mのトラックを建設。もともと水を含んだヘドロ地帯で、地盤沈下が予想され、また塩分を含んだ潮風で鉄などがすぐ錆びる条件の悪い場所でした。

東扇島のトラック図
東扇島のトラック図(JAL内部資料)


 1977年1月に時速100km、4月に時速150km、12月に時速219.3kmを記録します。
 そして、いよいよ時速300キロに挑戦することになりました。しかし、東扇島の軌道は短く、どうやってもリニアモーター単独ではスピードが出せないのです。そこで、ロケットを使うという裏技を編み出します。

HSSTに取りつけられたロケット
HSST取りつけられたロケット噴射
取りつけられたロケットと点火の瞬間


《短い区間で300キロのスピードを出すには、補助加速装置(ブースター)をつけるしかないのである。そのために、防衛庁にお願いして、ロケットを分けてもらうことにした。(中略)
 このテストは、初めはロケットの数を1個から始めた。計算はできていても、ロケットを使うのは初めてだったからである。次にはその数を4個に上げた。この4個では、236.2キロの速度を得た。その次には数を6個に増やした。すると268.4キロの速度が得られた。さらにロケットの数を8個に増やし、加速力を上げた。このテストは2回行った。1回目は、294.4キロの速度であったが、2回目はついに目標である時速300キロを超える307.8キロの速度に達した》(長池透『リニアモーターカーへの挑戦』)

HSST内部資料
時速300キロ超えを説明する内部資料


 時速307.8キロを記録したのは、1978年2月14日のことでした。
 日本航空は、同時期に人員9名を乗せられる2号機HSST-02を完成させ、試験飛行を開始。1978年5月には、公開試乗もおこないました。

HSST-02
HSST-02


 3号機となるHSST-03から、一般客を乗せるデモ走行が増えました。
 始まりは1985年の科学万博(つくば市)で、開場前に昭和天皇が体験試乗しています。このときは61万人が試乗しました。

 ちなみにですが、本サイトの管理人は、この科学万博でHSST-03に試乗しています。ずいぶん行列したあとに乗った車内はずいぶん狭くて、あまり電車っぽくなかったのを覚えています。浮上するときは「ボワン」といった感じで、なんだか不思議な気分でした。試乗自体はあっという間に終わってしまったのですが、あの万博でほとんど唯一記憶に残ってるイベントであります。

HSST-03(岡崎南公園)
HSST-03(岡崎南公園)


 さて、以下、年表風に書いておくと、
  
○1986年 HSST-03 交通博(バンクーバー市)で展示走行 47万人
○1987年 HSST-03 葵博(岡崎市)で展示走行 9万人
○1988年 HSST-04 さいたま博(熊谷市)で展示走行 24万人
○1989年 HSST-05 横浜博で初の営業運転 126万人

岡崎南公園HSST滑り台
岡崎南公園にはHSST滑り台も


 その後HSSTは、名古屋鉄道などが出資する「中部HSST開発」が名鉄築港線(大江〜東名古屋港)に沿って作った実験線で開発を進めます。HSST-100S(1991年5月)、HSST-100L(1995年5月)と順調に走行実験をおこないますが、2000年7月、メインの日本航空が撤退を発表。ここで開発自体が危ぶまれますが、その後、2005年の愛知万博で実用化するのです。

HSST実験線の看板(大江駅)
実験線の看板(大江駅)


 そして2005年、愛知万博にともない、藤が丘駅から八草駅まで(8.9km)を結ぶリニモが営業運転を開始します。磁気浮上式リニアモーターカーが走るのは、日本でここだけです。

リニアモーターカー開発史
HSST技術者の講演録

制作:2020年5月25日


<おまけ>

 博覧会とともに成長してきたHSSTですが、現在、その軌跡はほとんど残っていません。HSST-03は愛知県の岡崎南公園に展示してあり、さっそく見にいったところ、金網の中でひっそり眠っており、寂しい限り。全体に薄汚れ、窓は傷だらけで車内はほとんどうかがえません。車体からはJALの鶴のマークも削られ、ちょっと哀愁を感じさせてくれるのでした。

HSST
住友電工のロゴと、削られたJALマーク

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