YS-11搭乗
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国産旅客機「YS-11」に乗りに行く
これがYS-11(高知龍馬空港)
戦前、世界に冠たる飛行機王国だった日本ですが、敗戦後はGHQにより航空機の生産が禁止されてしまいました。
昭和32年(1957)、航空禁止が全面解除になり、日本は遂に航空機の生産が認められました。それで、当時の通産省を中心に、国産旅客機製造計画がスタートします。設計にあたったのは「財団法人輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)で、ここには、戦前の日本の航空機産業を支えた最高の技術者たちが集まっていました。
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「航研機」
の木村秀政氏(日大教授)
・「隼」の太田稔氏(富士重工、旧中島飛行機)
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「零戦」
の堀越二郎氏(新三菱重工)
・「紫電」の菊原静男氏(新明和、旧川西航空機)
・「飛燕」の土井武夫氏(川崎重工)
この「5人のサムライ」と、通産省の赤沢璋一課長が一体となって作り上げたのが、YS-11でした。
YSの名前は「輸送機設計研究協会」の「輸送機(Y)」と「設計(S)」から来ていますが、輸研は昭和33年(1958)12月にモックアップを完成させると活動を停止、その後の開発は日本航空機製造が引き継ぎました。
この実機製作を指揮したのは三菱重工から出向してきた東條輝雄氏。かつて「零戦」の設計にも携わった技術者で、東條英機元首相の次男です。
そして1962年8月30日、名古屋空港で試作第1号が初飛行に成功します。
では航空機の開発とはどれくらい大変なのか?
1つの例として、日本航空機製造の内部資料を公開しときます。
YS-11自体はいくつかのバリエーションがありますが、基本的には初期型機YS-11と改良型YS-11Aの2つです。
1968年、主要取引先だったピードモント航空が、最大荷重を改良型からさらに500kg増やす要求をしてきました。500kgの荷重増加のためには、構造部分や降着装置の大幅な改造が必要となります。
で、次の画像は主脚に使うメータリングピンの設計図です。メータリングピンとは着陸時のショックを吸収するため、主脚内の油量を調節するピンですが、ほとんど一緒でしょ?
左が従来用、右が改良版
(ピンの高さはともに37cm)
高さも下の幅も一緒、上の幅がわずか3.4mm違うだけですが、このわずかなの差で、さらに500kgを支えることができるという……恐るべき精密さです。まさにYS-11は技術立国日本の象徴みたいなものです。
もっとも、YS-11は軍用機の技術者が中心になっているので、旅客機としての評価はあんまり高くありません。極めて頑丈ですが、振動や騒音はかなり強く、業界からは扱いにくいとの酷評も受けました。
日本航空機製造は半国営企業なので、YS-11のコストは高く、市場競争に勝つためにも原価割れで販売が続くことになりました。合計182機が製造されましたが、売れば売るほど赤字がたまり、結局、1972年12月、製造中止が決定しました。
1982年に会社が解散したとき、累積赤字は約360億円だったといいます。
実は、YS-11は今でも現役なんですが、ついに2006年9月30日、国内定期便での完全引退が決まりました(自衛隊は除く)。
そんなわけで、最後のYS-11に乗りに行ってみました。
現在、定期便が運航してるのは福岡、鹿児島、高知、徳島、種子島のみ。そこで、福岡→高知便に搭乗してみました。
福岡空港にて
搭乗するとき、主翼の下を通ると怒られます。理由は突然プロペラが回ると危ないので。なるほど。
さて、本サイトの管理人は、この便に一番最初に乗り込みました。64席しかないので、機内は予想以上に狭いです。荷物棚はふたがないので、スッチーが「落ちたら危ないので荷物はシートの下に」って、その本末転倒ぶりがいい感じです。
狭めの室内
「上の棚には手荷物を置かないで下さい」って……じゃ、何を置くの?
ちなみにエンジンはロールスロイス製。確かにすごい騒音ですが、ブーーという回転音はけっこう癖になります。
エンジン
主翼
こちらがトイレ
そして、わざわざ見に行った狭いトイレで固まってしまいました。だって流せないんですけど? どうやったら流せるんでしょう?? 困ったなぁーと思いつつ、しばし呆然。が、ずっと籠もってるわけにはいかないので、恥ずかしながら近くのスッチーに聞いてみたところ、「そのままで大丈夫ですよ」って。そっかー、水洗ではなく、汲み取りなのかぁ……。
こうしてわずか1時間ほどで、俺のYS-11旅行は終了したのでした。
制作:2006年6月19日
<おまけ>
こちらが最後尾の荷物室。1人入って作業するのがぎりぎりくらいの狭さです。スッチーはトイレと荷物室の間にいるんですが、こりゃ大変だわ。
<おまけ2>
その後の国産旅客機ですが。
1969年に後継機として「YS-33」の開発計画が持ち上がりますが、当時は旅客機が大型化していく時代で、これは構想段階で中止となります。
また、中型ジェット機「YXX」開発も、低燃費技術のめどが立たず打ち切り。1989年には「YSX」プロジェクトが始まりますが、これも二転三転の末、いつのまにか消え去ってしまいました。
2003年、三菱重工が30〜50席クラスの小型ジェット旅客機計画をスタートさせました。正式には「環境適応型高性能小型航空機」と呼ばれるもので、国産初の小型ジェット旅客機「三菱リージョナルジェット(MRJ)」として生産を目指しました。YS-11のエンジンはロールスロイス製ですが、MRJはエンジンも純国産です。ホンダも小型機を開発しており、「日の丸航空機」時代が見えてきたのです。