糸川英夫のペンシルロケット
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日本のロケット開発史
あるいはJAXAの誕生
ペンシルロケットの実験
2005年に探査機「はやぶさ」が着陸した小惑星「イトカワ」には、「能代」と呼ばれる場所があります。国際的に承認されたものではなく、あくまで研究者が仮につけた地名ですが、どうして「能代」なのか。
実は秋田県能代市には、1962年に開設されたロケット実験場があり、国産ロケットのほぼすべてがここで燃焼実験を行ってきたのです。
探査機はやぶさ(宇宙博、2014年)
能代初の実験は、当時、日本最大だったラムダロケット。その後、日本初の人工衛星「おおすみ」(1970年)、日本初の彗星探査機「さきがけ」(1985年)などの燃焼実験を経て、現在も多目的実験場として使われています。
では、なぜこの場所にロケット実験場ができたのか。決定したのは、「日本宇宙開発の父」と呼ばれた糸川英夫博士です。もちろん小惑星「イトカワ」の名前はここから来ています。
糸川博士は、戦前、中島飛行機で陸軍の戦闘機「隼(はやぶさ)」を設計した著名な研究者です。今回は、糸川博士の業績を中心に、日本のロケット開発史をまとめます。
糸川博士の中島飛行機への就任挨拶(所沢航空発祥記念館)
日本のロケット技術は戦前から始まっています。戦争末期に作られた、B29爆撃機の迎撃用戦闘機「秋水」と特攻機「桜花」です。
「秋水」はドイツの「メッサーシュミットMe163」をモデルにしており、わずか3分半で高度1万メートルまで上昇できる高性能機でした。しかし、滞空時間はわずか7分ほど。1945年7月の試験飛行に失敗し、実戦には参加していません。
一方の特攻機「桜花」。飛行機の形をしていますが、1.2トンの爆弾を抱え、自力では飛び立てません。一式陸上攻撃機で標的近くに運ばれ、そこから9秒間噴射するロケットで敵艦に突っ込むのです。最大速度は時速700キロに達しました。1945年3月から6月の間に鹿屋基地から10次にわたって出撃し、58機が未帰還となっています。
桜花11型(改修前の遊就館)
桜花は、後に陸上からカタパルト(発射台)で射出され、敵を攻撃する「桜花43乙型」などの改良型が開発されました。このカタパルト基地があったのが
千葉県の館山
や比叡山です。現在、基地跡は道路になっていますが、比叡山鉄道「ケーブル延暦寺駅」の近くに関連施設らしき遺構が残されています。
比叡山カタパルトからの眺望
比叡山の遺構
戦後、GHQにより航空関連の研究開発は禁止されます。解禁されたのは日本が独立を回復した1952年の3月。さっそく保安庁(現防衛省)をはじめ、いくつかのグループで研究が再開しますが、大きな活躍をしたのが糸川博士が率いる東大生産技術研究所グループです。
戦後の空白で、すでにプロペラ機は時代遅れになっており、時代はジェット機になっていました。今さらジェット機を研究したところで追いつけるわけもなく、一気にロケット開発を目指すことにしました。糸川は「ロケット旅客機で東京からニューヨークまで2時間」という目標を設定します。
糸川博士が開発した戦闘機「隼」
ジェット機は空気を吸い込んで燃料を燃やしますが、ロケットは燃料に加え、酸素を供給する酸化剤がセットになっています。高温高圧のガスを高速で噴き出し、その反動で進むため、真空の宇宙でも飛べるのです。ちなみに「秋水」は過酸化水素(酸化剤)とヒドラジン(燃料)を組み合わせた液体燃料、「桜花」は火薬を使った固体燃料です。
問題は、戦後間もない日本にロケット燃料がないことでした。燃料の調達を任されたスタッフは、1954年2月、海軍技術中佐から日本油脂の技術者に転じた火薬の専門家、村田勉を訪ねます。
《朝鮮戦争の特需にわく工場で、村田は米軍のバズーカ砲用に製造した火薬を示した。
綿状のニトロセルロースと液体のニトログリセリンは、どちらも燃料と酸化剤の性質を併せ持っている。この2種類の化合物に溶剤を加えて攪拌、粘土状にして押し出し、長さ12センチ、外径9ミリ、内径3ミリのチューブ状に成型した火薬だった。
村田は軍事用の火薬に独自の改良を図った。火炎を消すために加えられていた過塩素酸カリウムは、研究用ロケットには不要なので取り除き、代わりに金属の筒でも帯電して発火しないように、黒鉛を加えた。黒くて細いペンシルロケットの推進薬は、こうやって誕生したのだ》(「読売新聞」2005年4月6日より省略引用)
ペンシルロケット実験の様子
1955年4月12日午後3時5分、東京・国分寺の工場跡地に設けられた実験場で、ジュラルミンの機体に火薬を詰めた「ペンシルロケット」が水平発射されました。長さ23cm、直径1.8cm、約200グラム。飛距離は数メートル足らずでしたが、秒速110mのロケットはデータを取るために吊された薄紙を次々に貫通していきました。これが戦後初のロケット実験です。
ペンシルロケット
ペンシルロケットは、その後も国分寺と千葉の生産技術研究所で水平発射実験を繰り返しました。しかし、ロケットは空に向かって打ち上げなければ意味がありません。では、その実験場はどこにするのか。
当時、日本は主権を回復していたものの、まだ太平洋岸は自由に使えませんでした。そこで、糸川博士は日本海側に適地を探します。
中島飛行機で働いた糸川の1年先輩に重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」を開発した西村節朗がいます。西村は、当時、能代市選出の秋田県議でした。そこで、秋田県下の道川海岸(現在の由利本荘市)と能代市が推薦され、糸川博士が道川海岸にロケット実験場を作ることを決めました。
秋田ロケットセンターのカッパ3号機(『科学朝日』1957年9月号)
こうして、1955年8月6日、秋田県の道川海岸で、ペンシルロケットは初めて空に向かって打ち上げられました。
1957年9月20日には、ここから国産初の観測用ロケット「カッパ-4C」1号機が打ち上げられ、高度4万5000mから宇宙線の観測を始めています。
ペンシルロケット打ち上げからわずか2年の偉業ですが、その数週間後、ソ連は人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げを成功させています。技術の差は明らかでした。
道川での発射は90機近くに及び、機体は長さ12.5m、重さ1.5トンの3段式にまで大型化していきます。これより大きなロケットを発射するには日本海は手狭です。そこで、1962年、大型ロケットの打ち上げは鹿児島県の大隅半島(内之浦)に移し、中型以下を道川で実験することが決まります。
秋田ロケットセンターの司令室
ところが、2段式ロケットのカッパ8型が発射直後に爆発する事故が起き、地元で反対運動が起きました。これを受け、西村節朗県議が能代への誘致を開始、無事、移転が決まりました。
東大ロケットは、ペンシルロケットから「ベビー」「カッパ」「ラムダ」と大きくなり、高く、遠くまで飛ぶようになります。このラムダロケットが、1970年に日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げ、日本はソ連、アメリカ、フランスに続く4番目の人工衛星打ち上げ国となりました。
おおすみを打ち上げたラムダロケット(同型、国立科学博物館)
東大グループが開発してきたのは、固体燃料ロケットです。固体燃料は燃料制御に難があり、これ以上大型の衛星を打ち上げるのは困難と思われました。そこで注目されたのが液体燃料ロケットです。
戦後の日本で液体ロケット開発が始まったのは1960年。科学技術庁(宇宙開発推進本部)が、ロケット戦闘機「秋水」のエンジン開発に参加していた平岡坦に白羽の矢を立てたのです。新島での第1回打ち上げは失敗しますが、その後、1968年から1974年まで「LS-C」という改良型ロケットが、「種子島宇宙センター」で打ち上げられました。
LS-Cロケット(JAXAデジタルアーカイブス、1970年)
1970年、宇宙開発推進本部が改組した「宇宙開発事業団」はアメリカの液体燃料ロケットを導入することを決めます。宇宙開発事業団は「デルタロケット」をモデルに、1975年からN1ロケット、1981年からN2ロケットを種子島で打ち上げます。
その後、ロケットは国産化が進められます。
1986年に初めて打ち上げられたのがH1ロケット。一段目はデルタロケットの技術を使い、二段目が自主開発した液体酸素・液体水素エンジン「LE5」です。
1994年、LE-7エンジンを使った初の国産機「H2」が打ち上げられ、H2A、H2Bへと進化します。
H2Aロケット用のLE-7Aエンジン(宇宙博、2014年)
同エンジンのターボポンプ(国際航空宇宙展、2008年)
宇宙開発の歴史において、日本には、
・固体燃料を使って内之浦から打ち上げる「宇宙科学研究所」(東大・文部省グループ)
・液体燃料を使って種子島から打ち上げる「宇宙開発事業団」(科学技術庁傘下)
の2組織ありました。これに航空技術を主に開発した「航空宇宙技術研究所」(科学技術庁傘下)が合併し、2003年、「宇宙航空研究開発機構」いわゆるJAXAが誕生します。
現在、日本の基幹ロケットは液体燃料のH2Bロケットで、H3ロケットも開発中です。
では、固体燃料には意味がないのか。固体燃料は、前述のとおり、燃料制御に難があるのですが、1985年、世界初となる3段式固体燃料ロケットM-3S2で、人工衛星「さきがけ」の打ち上げに成功します。1997年には世界最大の固体燃料式M-Vロケットが開発され、探査機「はやぶさ」もこれで打ち上げられました。この技術は2013年のイプシロンロケットにつながり、2019年には月面着陸機を飛ばす予定です。
M-Vロケット(国際航空宇宙展、2008年)
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ロケット郵便
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NASAの誕生
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ガガーリンの宇宙飛行
制作:2017年6月1日
<おまけ>
日本では出自の違う役所が同じような研究を行うパターンが多いですが、この東大系と科技庁系の組織はどうしてうまく合併できたのか。
1992年、固体燃料と液体燃料を組み合わせたJ1ロケットの開発が始まります。費用の削減を目指し、第1段に液体燃料ロケット、2段、3段に固体燃料ロケットを合わせたのですが、案の定、J1は失敗。その後、日本の宇宙開発は停滞します。J1ロケットの「J」は「JOINT(接合)」の頭文字から来ているのですが、結果的にこの失敗がJAXAの誕生に寄与したようです。
<おまけ2>
ペンシルロケットを飛ばした工場跡は、現在、早稲田実業の校舎になっています。校門前には「日本の宇宙開発発祥の地」という碑が設置されています。
糸川博士