東京湾を防御せよ!
幻の「第2海堡」へ行く

第2海堡
第2海堡の消防訓練(2002年)
(右下の人と比べると、炎の大きさがわかります)


 映画『海猿』を見て海上保安庁のファンになった人は多いと思うのだけど、ちょっと質問です。

 海上保安庁は、海上の安全や治安の確保、さらに海難救助や環境保全なんかが任務ですが、原油タンカーが炎上した場合、どこが管轄するでしょう?
 まぁ、あくまで海上保安庁の管轄なんですが、実はこうした特殊災害を専門に対処する独立行政法人があるんです。それが海上災害防止センター(MDPC)です。

 ここの防災訓練所では、大規模なタンカーなどの船舶火災に対処するための大がかりな消防訓練を実施しています。
 それが、東京湾のど真ん中にある人工島「第2海堡」です。

 しかし、いったいどうして東京湾の真ん中に人工島があるのか? 今回は、東京湾防御という観点から、その理由を探ります。


 東京湾の防御がいつ始まったかというと、おそらく文化4年(1807)だと思われます。
『徳川慶喜公伝』によると、文化年間にロシア船が北の海を荒らし、イギリス船が長崎に侵入したことで、にわかに沿海警備が始まったとされています。
 文化4年、鉄砲方の井上左太夫が東京湾一帯の海岸を検分し、翌年から相模、安房、上総の海岸に台場(砲台)が建造されました。しかし、その後、海防意識も薄れ、事実上、警備は行われませんでした。

 ところが、天保8年(1837)、アメリカ商船モリソン号が浦賀にやってきたことで、再び沿岸警備が始まります。
 しかし結局、この警備も甘くなるなかで、嘉永6年(1853)ペリーの軍艦が浦賀まで侵入してきました。


泰平安民画図
江戸湾の防御態勢を描いた「泰平安民画図」


 これは「泰平安民画図」と呼ばれるもので、当時の国防概念を図示したものです。江戸湾には、しょぼい警備所しかなかったことがわかります。
(ちなみにこんなところでさりげなく公開してますが、実は非常に珍しい肉筆の画像です)
 
 で、ペリー来航に驚いた幕府は、江戸湾防衛を担当していた江川 太郎左衛門(江川英龍)に命じて、品川沖に台場を築かせます。

 当初は11基が計画されましたが、結局、1年3カ月かかって第1〜第7までの砲台が造成されます(第4、第7台場は未完成だったので、完成は5基)。埋め立てに使ったのは、品川の「八つ山」(上図の下中央)の土でした。この築造だけで75万両かかったとされています。

猿島
江戸時代の卯の崎台場(猿島)


 明治になってからはどうか?

 明治政府の東京湾防御は、江戸幕府同様、観音崎(神奈川県横須賀市)と富津(千葉県富津市)を結ぶ線を防衛線と考えていました。明治13年、政府は私有地だった猿島と夏島を買収、東京湾の入口に砲台を作り始めます。

 具体的には富津岬、観音崎、走水、猿島、浦賀など7カ所に大小砲70門を設置。砲台の築造費だけで270万円もかかりました(ちなみにこの年の日雇い労働者の平均日給は21銭)。

東京湾の防御
東京湾防御概念図


 当時の新聞によれば、ドイツに発注したの砲は以下の通り(東京日々新聞、明治14年1月29日による)。かなりの高額だとわかります。

●口径30cm鋼鉄製クルップ
(1門あたり14万5252ドル、鋼鉄榴弾1個あたり176ドル30セント)
●口径24cm鋼鉄製クルップ砲 52門
(1門あたり3万5390ドル、鋼鉄榴弾1個あたり95ドル90セント)
●口径21cm鋼鉄製クルップ砲 10門
(1門あたり2万5950ドル、鋼鉄榴弾1個あたり69ドル10セント)

 さて、沿岸部の砲台とは別に、明治から大正にかけて、東京湾には3つの人工砲台が作られました。それが海堡(かいほ)と呼ばれるものです。

●第1海堡(1881年起工、1890年完成)
●第2海堡(1889年起工、1914年完成)
●第3海堡(1892年起工、1921年完成)

 このうち、第2と第3は関東大震災(1923年)で崩壊。第3海堡跡は浦賀水道航路に隣接しているため、2007年まで撤去作業が行われていました。

第1海堡
第1海堡

第3海堡
第1、第2は千葉県、第3は神奈川県管轄
(国立公文書館、明治27年)


 なお、東京湾の防御は、軍の管轄としては、

明治4年(1871)年、東京鎮台
→明治21年、第1師団(東京衛戍司令官)
→明治28年、東京防禦総督部

 と担当が変遷しました(海軍でいうと明治9年の「東海鎮守府」→明治17年「横須賀鎮守府」)。

 東京防禦総督だった桂太郎は、自伝で次のように書いています。

《東京防禦総督の職務は、第一東京の衛戌(えいじゅ)司令官たる職務と、東京湾の防禦とを兼ぬるものにして、固(もと)より閑散の職務なり。而して有事の日には重き責任を有するものとす》

「いざというときは大変だけど、普段は暇だ」ということです。
 その後、東京湾の防御は独立して「横須賀鎮守府」の担当となりました。
 しかし、大正以降、戦争は航空機の時代となっており、東京湾の海上防御は、それほど重要な意味を持つことはありませんでした。

 さてさて。
 以上、歴史を知ったところで、今回は東京湾防御の要だった猿島と第2海堡に行ってみます。まぁ、猿島は誰でも行ける観光地なので、簡単に紹介しときます。

猿島

猿島
猿島の戦争遺跡(2002年)


 第1海堡、第2海堡は現在、立ち入り禁止ですが、実は、第2海堡は、2005年まで釣り船で上陸できました。本サイトの管理人が最初(1992年?)に行ったときはまだ廃墟がかなり残っており、そこにたくさんの釣り人が野宿していて、まるで貧民窟のような印象を覚えました。
 2度目は2002年ですが、このときは廃墟はすべて封鎖され、かなり整理されていました。また釣り人もほとんどいませんでした。

 そして、2018年から観光ツアーが出ることになり、再上陸してきました。もはや完全に廃墟は整理されており、太陽光パネルで電力も自給していました。

猿島
第2海堡

第2海堡
防衛指揮所(地下に27cmカノン砲)

第2海堡
中央のレンガが掩蔽壕

画像で見る「第2海堡」
東京湾防御の歴史・館山
大阪湾防御の歴史

更新:2018年11月11日

<おまけ>
 江戸幕府が築造した台場ですが、現在は第3と第6の台場跡が残っています。フジテレビがあるお台場は、第3台場の跡。第6台場は、現在立ち入りが禁止されています。
 余談ながら、アメリカを排除するために作ったお台場にアメリカの象徴である「自由の女神」があるってのは、よく考えるとけっこう意味深ですね。

お台場の自由の女神
東京を守る自由の女神

広告
© 探検コム メール