大阪湾防御の歴史
驚異の画像ワールドへようこそ!
和歌山・幻の要塞島をゆく
大阪湾防御の歴史
友ヶ島第3砲台
江戸時代、ミカンで大儲けしたと言われる豪商・紀伊国屋文左衛門。実は伝説的な部分が多く、その生涯はよくわかっていません。
いちおう通説を書いておくと、紀州のミカンを江戸に持ち込み、江戸から塩鮭を上方にもたらして巨利を得たとされています。後に上野寛永寺の木材調達を請け負い、材木問屋として利権を確立しました。
文左衛門は和歌山の北方にある加太(かだ)を基点にして、そこから紀伊半島を大回りして江戸に出ていました。
この加太には淡嶋神社という名物寺があり、境内には「紀文の帆柱」が残っています。文左衛門のミカン船の帆柱で、願い事を唱えながら柱の穴をくぐり抜けると、その願いが叶うそうですよ。
紀文の帆柱
さて、この淡嶋神社 、なにが名物寺なのかというと、ありとあらゆる場所に人形が奉納されているんです。
ちょっと気味が悪すぎで、珍スポット業界では有名なんですな。
髪の伸びる人形もいます
淡嶋神社はもともと沖合の友ヶ島にあったとされています。『紀伊国名所図会』(3之巻下、海士郡)に社伝が記録されているので紹介しときましょう。
その昔、神功皇后が新羅、百済、高句麗の三韓征伐をして凱旋帰国したとき、海上で激しい嵐になりました。あまりのひどさに天に祈ると、
「船の苫(とま=和船の上部のおおい)を海に投げ、その流れのまま進め」
というお告げがありました。その通りにすると、無事に1つの島にたどり着けました。そのため、この島は「とまがしま」と呼ばれるようになり、それがなまって友ヶ島になったわけです。
その後、神功皇后の孫である仁徳天皇が友ヶ島から神社を加太に移したのです。
神功皇后の漂流(国立公文書館『紀伊国名所図会』より)
友ヶ島は、昔から修験道で有名な島でした。修験道の開祖とされる役小角(えんのおずぬ、通称・役行者)が葛城山を踏み開く際、この島からスタートしたと言われています。7世紀頃の話ですな。
さて、この島がまったく別の意味を持ち始めたのが幕末でした。
異国船渡来とともに大阪湾の防御をする必要が出てきたからです。
ペリーが浦賀に来たのが1853年6月(旧暦)。以下、年表風にまとめておくと
●1853年
7月 幕府、アメリカの国書を示して諸大名の意見を聞く
11月 紀州藩、家中へ武器手当を下付
11月 紀州藩、久野純固以下23名に「海岸防禦御用掛」を命じる
●1854年
3月 日米和親条約調印
9月 ロシア使節プチャーチンの乗艦が大阪湾に入り、天保山沖に碇泊
10月 同船、加太浦に碇泊
11月 紀州藩、海防のため「友ヶ島奉行」をおく
●1855年
5月 紀州藩、友ヶ島に台場を築造する
当たり前ですが、軍艦がいきなり大阪湾に来たのは衝撃でした。当時の将軍、徳川慶喜の公伝には、
《九月に及びて、露国水師提督プーチャチンの搭乗せる軍艦ヂアナ号、突然大坂の海上に現はれ、京摂の人心擾動す。彦根藩京邸の留守居は、警報を得て直に一隊の兵を発し、尋で彦根よりも出兵して非常に備へたり。程なく露艦去りて事なかりしも、是より幕府は益京畿の防備を厳にし…》
とあります。
大阪湾マップ
ほかに安治川と木津川の河口、尼崎、西宮、和田岬、舞子など約30カ所の砲台があった
地図を見ればわかりますが、もし大阪を海から攻めるなら、敵はほぼ間違いなく紀淡海峡(由良海峡)を通ってきます。
ただし、鳴門海峡から明石海峡を通って来る可能性も少しはあるでしょう。いずれにせよ、この2海峡は厳重に守る必要があります。こうして徳川慶喜は加太浦、淡路の由良・岩屋、播磨の明石に4砲台を築造し、洋式砲で大阪湾を防御させるのです。
その後、友が島に意外な展開が起きました。
文久3年(1863)、長州藩が攘夷のため関門海峡を封鎖、航行中の米仏商船に砲撃を加えたことで下関戦争が勃発します。長州藩は惨敗しますが、これに対してイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4か国は攘夷は幕府の命によるものだとして、幕府に賠償金を請求したのです。
1866年、下関事件の講和条約が結ばれますが、条文に灯台の整備が謳われていました。
この条約と翌年の大阪約定で友が島に灯台が設置されることが決まります。友ヶ島灯台は明治5年(1872)に点灯しました(設計者はブラントン)。
友ヶ島灯台。近くに日本標準時子午線(東経135度)。右は第1砲台
困ったのは日本軍でした。
大阪湾防御のために島を要塞化したいのに、国際条約による灯台ができてしまっては安全保障に不安が残ります。とはいえ、灯台を消すことはできません。
明治23年、陸軍が友ヶ島に近代的な砲台の建築を開始します。第1砲台を築造するために灯台は数十m移転させられましたが、今でも当時のままの灯台が現役で残っています。
第2砲台と海軍聴音所
この後、友ヶ島の砲台はますます強固になっていき、一般人の立ち入りは禁止されました。さらに、詳細な地形図からは抹消され、“幻の島”となりました。
というわけで、友ヶ島に上陸してみました。加太港から友ヶ島汽船で20分、島に着くといきなり砲弾がお出迎え。
第3、4砲台に配備されていた8インチの大砲弾
山の上の展望台から見ると、海峡がはっきり見えます。頻繁に船が航行してるのが印象的でした。やっぱりここは海上航路の要衝だとわかります。
向こうが淡路島。砲台島としては絶好のポイント
そして、参謀本部測量局が明治18年に設置した一等三角点が。
参謀本部測量局は後の陸地測量部で、国土地理院の前身です
山の上には航空保安無線施設があります。今は関空のレーダーの基点になっているんですな。
航空機の方向と距離を測定するVOR/DME
でもって、こちらがもっとも有名で、巨大な第3砲台の一部
丸い部分が大砲の砲座
すごいのが将校用の宿舎で、右の写真は床の間ですか? 砲台に床の間。「これじゃ、戦争負けるよ」と、ちょっと違和感を覚えたのでした。
発電所そばにある将校用宿舎
●関連リンク
東京湾防御の歴史・
猿島・第二海堡へ行く
東京湾防御の歴史・
館山へ行く
制作:2010年8月15日
<おまけ>
淡嶋神社にはどうして人形が大量にあるのか?
祭神は淡島神(あわしまのかみ)で、婦人病治癒、安産・子授けなど女性に関するあらゆることに霊験があるとされています。淡島神の本体を神社側は友ヶ島にまつられていた少彦名神としているんですが、少彦名神は国造りを終えたあと常世の国へ渡って行きました。この伝説が雛流しの原型となりました。
そして男びな女びなの始まりは、淡嶋神社の祭神である少彦名命と神功皇后の神像から来たもので、友ヶ島から対岸の加太への遷宮が仁徳天皇5年3月3日だったことから、雛祭りが3月3日になったのだそうですよ。