富士五湖・養殖の歴史
絶滅種クニマスの発見
クニマス
河口湖のそばにある滝沢遺跡は、縄文時代から続く集落跡です。平安時代には『延喜式』に記載された甲斐国3駅の1つ「河口駅」が置かれた地とされており、当時は近隣の中心だったと考えられています。滝沢遺跡の平安時代のカマド跡からはウグイやコイなどの魚の骨などが出土しており、もちろんこれは河口湖の魚だと思われます。
しかし、河口湖をはじめとする富士五湖では、もともと魚がほとんど取れなかったと推定されます。火山の噴火でできた火山性堰止湖なので、基本的に魚がいないのです。
火山性の土地ということは農業にも不向きで、このあたりは長く産業のない貧しい地域でした。しかし、風光明媚なため、富士五湖一帯は、大正頃から開発が進みます。ここに至って、地元ではなんとか富士五湖に大量の魚を棲まわせたいと考えるようになりました。
山梨県最初の漁業組合は、1912年(大正元年)、西湖で設立されました。
「西湖漁業組合」は、湖畔の山腹にヒメマス孵化場を新設し、孵化槽、濾過槽、孵化器などを整備し、マスの養殖に乗り出します。
翌年、県と農林省の指導で、十和田湖の和井内孵化場(秋田県)からヒメマスの卵5万粒を購入し、孵化・放流をおこないました。これが山梨県初のヒメマス放流です。3年後の1916年、西湖でヒメマスの親魚1040尾を捕獲、人工採卵により、約37万2000粒の卵を手に入れました。
西湖
この成果を見て、精進湖と本栖湖の漁民が集まって、上九一色村に「精造本栖湖漁業組合」を設立、孵化場を精進湖畔に設置します。
1917年、山梨県臨湖実験場(現・山梨県水産技術センター)が創設され、五湖の水産調査が始まり、養殖の機運が高まります。
同年、「精造本栖湖漁業組合」は、十和田湖のヒメマスの卵1万粒を購入し、そのほとんどを精進湖に放流し、残ったわずかな卵を本栖湖に放流しました。しかし、精進湖でのヒメマス養殖は失敗に終わります。一方、本栖湖ではうまくいき、1926年には精進湖の孵化場を閉鎖して、本栖湖畔に移設。以後は本栖湖での養殖に全力を注ぐことになります。
両漁協ともヒメマスの卵は十和田湖産です。十和田湖も、もともと魚が一匹もいない湖でしたが、小坂鉱山に赴任していた和井内貞行が、湖畔に和井内孵化場を作り、支笏湖(北海道)のカバチェッポの卵5万粒を放流して、養殖に成功しました。カバチェッポはアイヌ語で「薄い小魚」の意味で、1908年「紅の小なるは姫に通ず」として姫鱒(ヒメマス)と命名されました。
十和田湖
山梨県臨湖実験場は、1917年、河口湖に霞ケ浦のワカサギ(公魚)を初めて放流します。中心になったのは雨宮育作で、その証言が残されています。
《私が最初ワカサギを河口湖へ(山中湖へは2、3年後です)移したのは、大正6年の2月のことでした。
御承知の通り、ワカサギは1年性の魚ですから、その年末にはもう相当の物になっているだろうと思って、その冬、船津の村役場へ寄ってみると、村吏の、あれは何とか言った、釣りの好きな男が言うのです。
「先生、この頃、浅川の漁師が網でおもしろい魚を捕るが、あれは何魚でしょう。これまで見馴れない魚で……」
その魚の形や、色や、大きさや、味をたずねると、てっきりそれはワカサギらしいが、物を見ないことにはと思い、物を見たいと言うと、
「夕方、浅川の漁師が網で捕るところを見にゆきましょう」
そういう返事なので、時刻をはかってその場所へ行って見ると、はたしてワカサギで、大きくなって肥り切ったのがドッサリとれていました。実に何とも言えない嬉しさでした》(『五湖文化』昭和16年新年号)
しかし、ワカサギを放して数年は、湖畔の人からひどく恨まれたといいます。
《ワカサギという魚は、あの姿のやさしいのに似合わず、かなり貪食で、しかもほかの魚の卵を食うらしいという噂が立ったためのようでした。ワカサギという魚が殖えてのち、昔からザコと称して地方の人達が喜んで捕って食べた小さいハヤの類がほとんど跡を断った。あんなワカサギなんて大してうまくもない魚に、この湖水を荒されてたまるものか! それがあの地方の一部の人々の腹だったらしいのです》(同)
当初は、ワカサギをマズいと思う人もいたのです。
ワカサギは、1919年、霞ケ浦産30万粒が河口湖に、1922年には河口湖200万粒、山中湖200万粒、精進湖100万粒が放流されています。
山中湖
以下、年表で、富士五湖の主な放流の歴史を書いておきます。
○1920年 愛知県から購入した鰻苗(ウナギの稚魚)を河口湖と山中湖ヘ放流
○1923年 福島県沼沢沼のベニマス1万粒を西湖に
○1925年 北海道のベニマス5万粒を本栖湖へ/甲府のコイ4万尾を河口湖、5000尾を山中湖へ
○1926年 琵琶湖のアユの卵640万粒を河口湖へ放流するも失敗/霞ケ浦のヒガイ(鰉)の稚魚3000尾を河口湖に
○1927年 三重県桑名のシジミを山中湖と河口湖へ
○1928年 米国のカワマス4万尾、米国のシロマス1万尾を西湖に
○1930年 秋田県田沢湖のクニマスの卵17万粒を購入し、西湖孵化場で孵化し、16万4900尾あまりを西湖に放流
○1931年 琵琶湖の源五郎鮒(ゲンゴロウブナ)を河口湖と山中湖に
○1935年 田沢湖のクニマスの卵20万粒を西湖と本栖湖に10万粒ずつ移植
ワカサギ釣り(1941年)
ワカサギの放流は雨宮育作が担当しましたが、マスは中澤毅一が中心となりました。前出の『五湖文化』には、中澤毅一の「河口湖の水温・水質はマスに不向きで、西湖や本栖湖には適していた」との証言も記録されています。
河口湖には、1910年(明治43年)の大洪水を受けて「河口湖治水組合」が設立されており、ここが養殖も担当するはずでしたが、事実上、養殖活動は休止状態。1935年になってようやく漁業組合が設立されています。
河川・池・沼などの淡水でおこなわれる漁業を「内水面漁業」と呼び、この内水面の研究組織として「全国湖沼河川養殖研究会」があるのですが、山梨県が加入したのは1932年です。こうした点からも、山梨県の漁業がなかなか盛り上がらなかったことが伺えます。
しかし、長年の養殖が成功し、現在、山中湖はワカサギ、河口湖はニジマス、西湖はヒメマス、精進湖はフナ、本栖湖はヒメマスなどが主に釣れるようです。
ヒメマスの稚魚養殖(西湖漁協)
西湖といえばヒメマス釣りが有名ですが、2010年、京大の中坊徹次名誉教授と東京海洋大のさかなクンによって、クニマスの生存が確認されました。
中坊名誉教授は、こう語っています。
《(クニマスは)成長に伴う体色や体型の変化も知られていなかった。釣れる時の色や形が知られていなかったのである。クニマスが出てきても、判定は不可能に近かったと思われる。たとえ、クニマスだと判定して論文を書いても1個体では学術誌が受理しなかっただろう》(『日本魚類館』)
クニマスは、日本で最も深い水深(423m)を誇る田沢湖にのみ生息した日本固有の淡水魚です。全長約25〜30cmほどの黒っぽい魚。河川に残留した魚を陸封型といい、ヤマメはサクラマスの陸封型とされますが、同じようにクニマスはベニザケの陸封型と考えられています。美味で、地元では1匹で米1升の価値があるといわれた高級魚でした。生息域は水深160m前後と深いのですが、産卵期には水深20mくらいまで上がってきます。
田沢湖は、1940年の発電所建設にあたり、水量を保つため玉川温泉から「毒水」と呼ばれた強烈な酸性水をひきました。湖で酸性度を薄めて農業用水としても活用する計画でしたが、湖の酸性度は下がらず、湖の魚は死滅しました。もちろん、クニマスも全滅したといわれ、環境省は1991年に絶滅種に指定しました。
国内で絶滅種に指定された汽水・淡水魚類はクニマス、チョウザメ、スワモロコ、ミナミトミヨの4種ですが、みごと西湖で生き抜いていたのです。西湖は透明度が高く、深い湖(最深73.2m)のため、クニマスが棲むのに最適で、天敵となるブラックバスや交配する可能性があるヒメマスと生息域が違ったため、無事に生き残ったと言われています(本栖湖ではヒメマスと交雑したとされる)。
ちなみに西湖では黒っぽい体色から「クロマス」と呼び、普通に食べていたそうです。贈答用にも使われた高級魚クニマス、ちょっと食べてみたい気もします。
●浅間山と富士山の大噴火の歴史
●幻の「富士山麓」開発計画
制作:2020年4月11日
<おまけ>
田沢湖では、クニマスを呼び戻す運動が続いています。もともと1972年から湖水の中和事業が始まり、酸性を石灰で中和させていますが、なかなかうまくいきません。最近ではウグイやコイなどが泳ぐようですが、水深が深いところは依然として酸性が強く、クニマスを戻すのは、前途多難のようです。