越後平野を洪水から守れ
巨大水路「大河津分水」へ

『風俗画報』水害の図
水害の図(『風俗画報』128号)


 長野県を流れる千曲川は、新潟に入ると信濃川に名前を変えます。信濃川は日本で一番長い川で、流域面積は日本第3位です。信濃川はその膨大な水量で、越後平野を潤してきましたが、いったん氾濫すると手に負えない暴れ川となりました。

信濃川にかかる万代橋
信濃川にかかる万代橋(1910年頃)


 信濃川の河口がどれくらい広いかというと、河口にかかる有名な「万代橋」は、現在309mですが、かつて782mもありました。いま、新潟にある民放テレビ局の社屋は、すべて信濃川沿いにありますが、かつてその土地は、すべて川底でした。

 いったいなぜ、信濃川の水量は大幅に減ったのか。それは、信濃川に人工的に分岐を作り、水を大量に日本海に流したからです。今回は、新潟を舞台にした治水の歴史をまとめます。

新潟放送とテレビ新潟
信濃川を挟んで新潟放送とテレビ新潟の社屋が

 
 いまから1万8000年前、氷河期の終了で海面の高さが100m以上上がりました。これを「縄文海進(じょうもんかいしん)」といいます。その結果、現在の新潟はすべて海底に没しますが、そこに信濃川からの土砂が堆積し、越後平野ができあがります。

 海岸線には巨大な砂丘ができ、内陸部には膨大な沼地や湿原がありました。そのため、信濃川がいったん氾濫すると、内陸部の排水が進まず、越後平野は長らく低湿地できわめて使い勝手の悪い土地となっていました。

信濃川の河口
信濃川の河口(1910年頃)


 1758年、新潟で生まれた良寛は、およそ30年にわたって、国上山の五合庵(1日5合の米があればいいという意味)で暮らしました。しかし、山から見下ろす村々は、毎年のように不作で、飢餓にさらされています。そもそも水が悪く、なんとか作物ができても、しばしば洪水で流れ去ってしまうのです。貧困のあまり、娘を売る農家も多く、その惨状を良寛は、《一朝地を払うて耗(むな)し》と書いています。

 信濃川の河口から数十キロ上流の西蒲原郡には西川という川が流れており、江戸時代には蒲原船道と呼ばれる大規模な船運ルートが開けていました。同時に、鎧潟、田潟、大潟といった数多くの沼地があり、水害が絶えることがありません。

 地元の農民は1737年、放水路を掘削して水を日本海へ放出するよう、幕府に請願しますが、これは実現しません。というのも、1731年に作られた阿賀野川の放水路・松ヶ崎掘割が決壊する事故が起きていたからです。しかも、下手に放水路を作れば、信濃川が渇水し、新潟港が使用不能になる可能性もありました。

新潟の大河
新潟の大河(国土地理院「古地図コレクション」越後新潟)


 しかし、1817年、ようやく幕府の許可を得て、長岡藩は掘削を開始。1820年、新川という巨大水路を造り、余剰水の排水に成功します。この工事は大規模で、西川の水運を邪魔することなく工事するのが至上命題だったため、西川と新川を立体交差させるという高度なものでした。

 この立体交差は、もちろん現在も残っています。良寛の住んだ国上山から10キロも離れてないので、まだ健在だった良寛も、この立体交差を見た可能性があります。

西川と新川の立体交差
西川と新川の立体交差


 新川が開通すると、潟の多くが干上がり、広大な土地が生まれました。

 当時、長岡藩では、水害にあった地域は「水腐地」として、5年間の免税が認められていました。そのため、代官と豪農が結託して、勝手に免税地にするなど、徴税に大きな問題が生じていました。そうした状況下、藩の河井継之助は、悪代官を罷免し、水腐地を詳しく調査し、年6000俵もの増収を得ることに成功します。

 穀倉地帯「越後平野」の誕生ですが、現在に比べたらまだまだ。やはり水害の多さは飛び抜けており、なかなか安定した生活は営めません。

 この水害を解決する切り札とされたのが、信濃川の途中にある大河津から海岸まで約10キロの分水路開削です。最初に掘削を請願したのは本間数右衛門で、1716年のことです。

 1844年には、地理学者の小泉蒼軒が『越後国信濃川筋大河津堀割損益略』を著し、コスト・ベネフィットを計算しています。

 幕末、戊辰戦争が起きると、開港が決まっていた新潟でも、越後戊辰戦争(北越戦争)が起きますが、その激戦のさなか、信濃川が未曽有の大洪水を引き起こします。

大河津分水路
現在の大河津分水路


 明治維新後、ようやく分水工事を行うことが決定し、1870年(明治3年)に第1期大河津分水路工事が開始されます。
 しかし、地元の負担が大きかったこと、新潟港の維持が出来なくなる恐れなどから、反対運動が激化。外国人技術者も反対したことで、ほぼ完成していた工事は、1875年に中止となります。

大河津分水路廃止の請願
「信濃川の交通が至難に」と書かれた工事廃止の請願文書
(国立公文書館「新潟県下信濃川分水路疏鑿工事廃止伺」)


 1881年(明治14年)、鷲尾政直は新聞に「西蒲原郡治水起工議」を発表し、「堤防には限界があるため、分水工事をすべき」と強く訴えますが、やはり掘削は実現しません。

 1896年7月22日、豪雨で横田村の堤防が300mにわたって決壊(「横田切れ」)、越後平野は大規模な浸水被害を受けました。当時の惨状が『風俗画報』128号に記録されています。

《堤防のない村落では、2階がある者は2階に、2階がない者は屋根に、ひどい場合には梁(はり)の上にいて、屋根に開けた穴から頭を出している者もいる。全村が水中にあるので炊事はできず、わずかな救助で飢餓を免れている。飲料水は皆無なので、濁ったたまり水を飲んでいる》

崩落した小千谷の旭橋
崩落した小千谷の旭橋


 この「横田切れ」の跡が、新潟市の宝光院に残されています。宝光院は横田から30キロほど離れていますが、2.4メートルまで浸水。水は1カ月以上引かず、感染症も発生しました。場所によっては、4カ月も浸水し続けたと言われます。

宝光院に残された水害の跡
宝光院に残された水害の跡


 こうした被害を受け、高橋竹之介は1897年に『北越治水策図解』を出し、大河津分水の掘削を主張。明治政府は日露戦争後の1909年から工事を再開します。「東洋一の大工事」と言われた2期工事は大規模な地滑りに悩まされますが、1922年(大正11年)8月25日、分水路が通水します。

分水路の日本海側の出口
分水路の日本海側の出口


 このとき、信濃川の水量を調節するため、本流に「洗堰」、分水路に「自在堰」が作られました。自在堰というのは、平時は水を遮断し、本流に灌漑と船運向けの水を送りつつ、洪水時には自動的に上がって日本海に水を放出させる構造です。

自在堰
自在堰


 大河津分水が通水すると、流量の減った信濃川に巨大な中州が出現。農民たちは開拓を始め、広大な農地が新たに生まれました。

 一方、1927年には自在堰が陥没し、信濃川本流に流れる水がほぼ消滅する事態になりました。すぐに応急処置されたものの、農民の怒りは収まらず、治水の難しさを改めて感じさせる出来事となりました。1931年、分水路に「可動堰」が完成し、ようやく信濃川の治水に成功します。

可動堰
可動堰の工事


 国の威信をかけた可動堰の工事には、のべ124万人が動員されたとされます。
 このとき活躍した2人の技術者がいます。

 ひとりは、日本人で唯一パナマ運河の設計に携わった青山士(あきら)。当時の内務省新潟土木出張所長です。

 旧可動堰の完成記念碑は、信濃川に面した側に太陽を表す「八咫烏(やたがらす)」、道路側には月を表す「ウサギ」が刻印されており、これは「陰と陽による神のご加護」だとされます。そして、上部には青山の「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」「人類ノ為メ國ノ為メ」という詩文が刻み込まれています。

可動堰の完成記念碑
完成記念碑(下の文字はエスペラント)


 もうひとりが現場責任者を務めた内務省の技師・宮本武之輔です。旧制第一高校で芥川竜之介や菊池寛と同級生で、その後、東京帝大土木工学科を経て内務省に。実は、工事も終盤の1930年(昭和5年)8月、信濃川は豪雨によって洪水の危機に瀕していました。このとき、宮本は浸水被害を防ぐため、堤防を切って未完成の分水路に水を放流します。この決断で多くの住民が救われました。

 宮本が設計した可動堰は、2011年に新可動堰ができるまで、80年間、無事に稼働しつづけました。新潟では、その後も関屋分水(1972年)などが開通し、治水対策は日々進化しています。

関屋分水
関屋分水


 さて、可動堰の完成後、水害はほとんど起こらないようになり、越後平野のコメの収穫量は大きく成長しました。特に、戦争へ向かう時代には土地改良が進み、食糧増産が図られました。しかし、1942年に始まった水田造成事業は、ツツガムシ被害のため難航。治水が成功しても、農地開拓にはさまざまな難題が起きるのでした。

可動堰
大河津分水の旧可動堰と現在の可動堰

洗堰
旧洗堰と現在の洗堰

本邦「治水」1600年史
日本「ダム行政」の歴史
東京を襲った水害洪水の歴史
幻の「利根川」巨大開発
幻の「房総半島」開発プロジェクト

制作:2019年11月2日


<おまけ>

 大河津分水の第1期工事はどうして廃止になったのか。それは、当時の明治政府の河川対策が「高水工事」ではなく「低水工事」にあったことが原因です。

 当初、船運を重視していた明治政府は、河岸工事や浚渫、港湾整備など低水工事に注力していました。これは、治水技術を日本にもたらしたオランダ人技術者の考えで、実際、日本はデ・レーケなどオランダ人技術者の下で、淀川や利根川、江戸川の改良工事を進めています。

 これに対し、治山技術者・市川義方は『水理真宝』でデ・レーケを批判するも、明治政府の考えは変わりません。新潟港にマイナスになりそうな大河津分水が中止されるのも、低水工事の考えからすれば納得がいくものです。

 政府はその後、船運の衰退とともに、洪水を防ぐ高水工事に方針変更していくのでした。

デ・レーケの若津港導流堤(筑後川)
デ・レーケの若津港導流堤(筑後川)
 
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