地下鉄「丸ノ内線」の誕生
知られざる駅のイメージ画像も初公開

丸ノ内線開通時のポスター
開通時のポスター


 スパイ映画『007は二度死ぬ』(1967年)に、ジェームズ・ボンドが日本の秘密警察のトップ「タイガー田中」に招かれる場面があります。

 丹波哲郎扮するタイガーの事務所は地下鉄・中野新橋駅構内にあり、移動手段は特別に作られた「丸ノ内線」です。この丸ノ内線は500形と呼ばれる型で、車内にはバーがあり、着物姿の女性秘書もいました。

 丸の内線は、1927年に開業した銀座線に次いで、東京で2番目、戦後初の地下鉄です。今回は、そんな丸ノ内線が誕生するまでをまとめます。

丸ノ内線2000系
丸ノ内線2000系


 終戦直後、東京は空襲により、あたり一面が焼け野原となっていました。

 1946年5月、東京都は、都市計画課長・石川栄耀(えいよう)が中心になって「東京戦災復興都市計画」を策定。石川は翌年、『二十年後の東京』という映画を作り、各地で上映して都民に復興イメージを伝えました。

 映画では「欧米の都市は広場を中心に道路が放射状に伸びている」「電柱は地下に埋める」「都心部ではアパートで人口を吸収」などと語られています。

 そのなかに、「路面電車や高架電車をすべて地下鉄にするのが理想だが、20年後はまだ無理でしょう」との言葉があります。しかし、先の「復興都市計画」では、すでに地下鉄計画が登場しています。以下がその内容です。

【高速度鉄道網(1946年)】
1号線 武蔵小山〜下板橋 14.9マイル(1マイル=約1.6km)
2号線 祐天寺〜北千住 14.8マイル
3号線 大橋〜浅草 10.1マイル(開業ずみの銀座線含む)
4号線 富士見町〜向原町 13.8マイル
5号線 中野〜東陽町 9.8マイル
 合計 63.4マイル

地下鉄計画図(1954年)
地下鉄計画図(1954年)


 このなかで優先されたのが、4号線の池袋〜神田間でした。その理由を、帝都高速度交通営団の内部資料「東京都に於ける高速度鉄道計画」(1949年3月)をもとに検証します。

『東京都に於ける高速度鉄道計画』
『東京都に於ける高速度鉄道計画』


 東京市は昭和7年(1932年)、近隣町村を合併し大東京35区となりますが、それまで、山手線のターミナルとなる池袋も新宿も渋谷も品川も「郊外」として低い地位にありました。そのため、戦後になっても、東京の交通網は山手線の内と外で大きく分断されていました。

 1941年の調査によれば、東京市の交通分担比率はこんな感じです。

●省線(山手線、中央線など)11.7%
●路面電車(ほぼ山手線内の交通)17.1%
●乗合自動車(ほぼ山手線内の交通)54.3%
●地下鉄(銀座線)1.2%
●郊外電車(山手線から外に向かう私鉄=東武、西武、小田急、東急など)15.7%
 合計100%

 都心の交通はほとんど路面電車と乗合自動車に依存していることがわかります。とすると、郊外から都心に向かう人は、私鉄に乗って山手線のターミナル駅につき、そこから路面電車や乗合自動車に乗り換えるはずです。しかし、実際には、わずか9%しか乗り換えません。

 どうしてかというと、両者ともスピードが遅く、きわめて不便だったからです。それより、山手線で目的地の近くまで移動したほうがはるかに便利でした。とはいえ、これは大幅な迂回となります。当時の計算で、直線距離に比べ、およそ1.8倍の迂回距離が必要だとされています。

 さらに、旧東京市の乗降客の33%が山手線と中央線でしたが、両線とも輸送力は限界に近づいており、いくら巨額の改修費を投じても、もはや根本的な解決にはならないと判断されていました。

 こうして、地下鉄の建設に大きな期待が寄せられるようになるのです。

池袋駅
池袋駅前広場(開通時)


 一番最初に4号線(池袋〜神田)が選ばれた理由は明快です。

○池袋には省線赤羽線、東武線、西武線が乗り入れており、乗降客数が16万人(1941年)→26万人(1948年)と激増
○池袋〜神田の開通で、山手線から6万人が移動すると推定され、混雑の緩和につながる
○御茶ノ水で中央線と、神田で山手線・銀座線と連絡し、都心と最短距離で結べる

丸ノ内線の建設工事
丸ノ内線の工事現場


 建設工事は、都心のみ地下式で、あとはできるだけ地上式を採用、地下にする場合も、相当期間、地面を切り開いたままにすることが決まりました。この結果、地下47%、切り開き35%、築堤式18%と見込まれ、工事費は完全地下式にするより37%も安くなる見込みでした。

 給電は、銀座線同様、3番めの線路から引っぱる「第三軌条方式」が採用されました。
 車両は、ニューヨークの地下鉄車両をモデルにつくられた、銀座線よりやや大型の「300型」です。

丸ノ内線300型(地下鉄博物館)
300型(地下鉄博物館)


 当初、池袋〜神田を予定しましたが、御茶ノ水〜神田間で道路幅が狭いなどの問題が判明し、ルートを変更。3年の時間と50億の予算をかけ、1954年1月20日、池袋〜御茶ノ水6.4kmが開通しました。

丸ノ内線開通時の記念きっぷ
開通時の記念きっぷ


 いざ開通してみると、意外にも乗降客はあまり増えませんでした。当初、1日18万人が利用すると考えられましたが、実際には4万6000人でした。

 1955年2月、運輸省は『都市交通の現状』という冊子で、丸ノ内線の収支を検証しています。これによると、丸ノ内線の全収入(9700万円)は建設費用の利子(1億4600万円)に及ばず、巨額の赤字が営団地下鉄の負担となりました。

【1954年度上期の収支】

<収入>9706万7890円
●鉄道営業収入 9691万6622円
(旅客運輸収入 8812万2837円/運輸雑収 879万3785円)
●営業外収益  15万1268円

<支出>2億9357万2917円
●人件費 6878万2083円
●物件費 2322万447円
●雑件費 2億157万388円
(諸税 175万8681円/償却費 500万円/支払利息 1億4622万1707円/繰延勘定償却 359万円)

丸ノ内線池袋駅イメージ図
池袋駅イメージ図

丸ノ内線御茶ノ水駅イメージ図
御茶ノ水駅イメージ図


 丸の内線は、1956年7月20日、東京駅まで乗り入れますが、これで乗客は一気に増えていきます。

 なお、東京駅の通路には赤色の公衆電話10台が並んだ「電報電話サービスステーション」が設置され、また駅舎には初めて蛍光灯が採用されるなど、世間の耳目を集めたと伝えられています。

第三軌条方式(地下鉄博物館)
第三軌条方式(地下鉄博物館)


 前述したとおり、銀座線と丸ノ内線は、線路に並走する3番めの線路から給電される仕組みです。実は、これが後に大きな問題となりました。

 東京オリンピックが開かれた1964年、日比谷線が全線開通。路線網が充実する一方、地下鉄内の温度上昇が我慢の限界に近づいてきたのです。

 第三軌条方式はトンネルの断面が狭いため、冷房装置の設置が難しく、駅とトンネルを冷やして、トンネル内の冷気を車内に取りこむことになりました。

 ジェームズ・ボンドも乗った丸ノ内線500形は、その構造上、冷房はできず、送風しかできませんでした。車内冷房は、結局、02系車両により、1990年になってようやく実現するのでした。

丸ノ内線02系
丸ノ内線02系

地下鉄・銀座線の誕生
幻の東京地下鉄計画


制作:2021年3月14日


<おまけ>

『帝都東京・隠された地下網の秘密』という本では、戦前、東京に数多くの地下鉄が完成していた可能性を指摘しています。

《戦前という時代、交通機関の発展を眺めていけば、天皇家、陸海軍、政府関係者を差し置いて、地下鉄銀座線だけが建設されたはずもなかった。……民間の地下鉄が1本あるということは、政府の地下鉄が8、9本あって、つまり地下鉄網は完成していた》

 なぜそれがわかったかというと、丸ノ内線の図面にヒントがありました。カーブの半径をしめす数値が、ある区間でメートルではなく、明治・大正期に使われたヤード・ポンド法になっていたのです。つまり、戦前からそこにトンネルがあった可能性が高いということ。

 実は、丸ノ内線は、戦前の1942年6月にいったん土木工事に着手しているため、ヤード・ポンド法でもおかしくはありませんが……しかし、まれに見る衝撃的な本なんで、一読をおすすめします。


丸ノ内線茗荷谷駅イメージ図
茗荷谷駅イメージ図

丸ノ内線後楽園駅イメージ図
後楽園駅イメージ図

丸ノ内線本郷三丁目駅イメージ図
本郷三丁目駅イメージ図
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