日本初の地下鉄
「銀座線」と「御堂筋線」の誕生

銀座線開通当時の上野駅
開通当時の上野駅


 日本で最初に地下鉄が計画されたのは、1906年(明治39年)12月のことです。
 福沢諭吉の婿養子である福沢桃介らが「東京地下電気鉄道」を設立し、高輪から浅草、銀座から新宿の2線路の敷設免許を出願したのです。
  
 この計画は一部地上運行で、具体的なルートは

<第1期工事>13.2km
 高輪南町〜田町〜本芝4丁目〜将監橋(しょうげんばし、ここから地上)〜門前町〜(ここから地下)〜芝口〜銀座〜日本橋通り〜鍛治町〜須田町〜上野駅前〜車坂町〜田原町〜浅草茶屋町

<第2期工事>7km
 銀座4丁目尾張町角から分岐〜数寄屋橋〜有楽町〜桜田門外〜永田町1丁目〜麹町1丁目〜麹町通り、伝馬町通り(現在の新宿通り)〜新宿五十人町

 でした。この出願から4日後、雨宮敬次郎らが「日本高架電気鉄道」として高架を走るルートを申請しています。こちらは品川〜千住大橋の14.16kmと、新宿3丁目〜本所松代町3丁目の11km。道路に沿って高架を作ることで、コストを抑える予定でした。

 地下鉄か高架鉄道か……東京府は事実上5年にわたって放置し、その後、東京府知事が議会に諮問するも、結局、1913年4月に両方とも却下されてしまいます。

銀座線・日本初の地下鉄構内
日本初の地下鉄構内


 計画が却下された翌1914年、実業家の早川徳次(はやかわのりつぐ)がロンドンへ視察に出かけます。
 早川は、後藤新平の書生を経て、南満州鉄道(満鉄)、さらに鉄道院に籍を置きました。この時点で、佐野鉄道(現在の東武佐野線)や高野登山鉄道(現在の南海高野線)の業績回復に成功しています。

 早川の目的はイギリスの交通、鉄道行政、港湾施設の調査などですが、テムズ川の下を走る地下鉄に驚愕します。ロンドン地下鉄は1863年に世界で初めて開業し、当時、すでに8路線が走っていました。驚いた早川は、大都市の交通機関を調査することに全力を注ぎ、ロンドンからグラスゴー、そしてパリやニューヨークまで調査し、東京の渋滞を解消する手段は地下鉄の建設にあると確信するのです。

ニューヨークの地下鉄
ニューヨークの地下鉄


 1916年に帰国した早川は、翌年、高輪南町〜浅草広小路と、途中の車坂町(上野駅付近)から分岐して南千住に向かう「東京軽便地下鉄道」の敷設許可を申請。このときは「軽便鉄道法」を使いましたが、後に「地方鉄道法」を採用しています。

 実は、この頃になると、地下鉄計画が多くの企業から申請され始めました。
 1918年、武蔵電気鉄道は麻布二の橋〜横浜市高島町に至る幹線から分岐する上目黒〜有楽町を申請。

 1919年には、高速電気鉄道が以下の4線を申請。
○日比谷公園〜虎の門〜溜池〜六本木〜高樹町〜渋谷駅
○上記線の霞ケ関から分岐して、平河町〜麹町6丁目〜四谷見附〜新宿追分
○日比谷公園〜神田橋〜神保町〜本郷真砂町〜小日向台町〜音羽8丁目〜高田老松町〜池袋駅
○日比谷公園〜数寄屋橋〜常磐橋〜本石町1丁目〜浅草橋〜浅草公園〜坂本町〜上野駅

 同年、東京鉄道が
○五反田〜三田〜新橋〜浅草橋〜向島中之郷
○渋谷〜新橋〜日本橋〜須田町〜上野〜浅草〜南千佳
○原宿〜青山〜新橋〜東京駅前〜須田町〜白山〜巣鴨
○新宿〜神楽坂〜須田町〜春日町〜池袋
 を申請するなど、大混乱となりました。

 紆余曲折の末、1919年11月17日、東京軽便地下鉄道に対し、高輪南町〜浅草広小路と、車坂〜南千住が認可されるのです。その後、1920年に
○武蔵電気鉄道 目黒〜有楽町
○東京高速鉄道 新宿〜日比谷〜万世橋〜大塚
○東京鉄道 目黒〜築地〜押上/池袋〜高田馬場〜飯田橋〜大手町〜洲崎/巣鴨〜万世橋
 以上がそれぞれ認可され、東京の地下鉄は4社によって建造されることが決まりました。

東京地下鉄道史 乾
4社の免許略図(国会図書館/『東京地下鉄道史 乾』)


 東京軽便地下鉄道は東京地下鉄道に改称し、関東大震災の混乱を経て、1925年9月27日に工事をスタートさせます。実は、この日は、世界初の蒸気機関車鉄道がイギリスで開業(1825年9月27日)してちょうど100年目でした。

 同社以外は、震災や金融恐慌の影響で、地下鉄工事に積極的ではありませんでした。結局、鉄道省、帝都復興院、東京府市などの話し合いの末、東京都市計画路線網としてまとまります。

東京都市計画路線網
東京都市計画路線網(早川徳次『地下鉄道』より)


 地下鉄工事は難航し、2年ほどかかりますが、ついに1927年(昭和2年)12月30日、浅草〜上野間4駅が開業。「東洋初の地下鉄」と呼ばれました。開通当日は朝6時の始発前から客が殺到しました。運行距離は2.2キロなので、乗車時間は5分足らずですが、待ち時間は2時間を超えました。1両編成の列車が何度も往復し、この日だけで4万人ほどが乗ったと記録されています。

 運賃は10銭均一で、改札口は硬貨を入れると腕木が回転して入場できる自動改札でした。駅員の制服は、フランス陸軍をモデルにしました。

地下鉄開通時の自動改札
ターンスタイル(回転柵)による自動改札


「1000系」と呼ばれた車体は、レモンイエローで、屋根がチョコレート色。塗装はベルリンの地下鉄にならいました。木製が主流だった時代に、防火対策のために鋼鉄製でした。高度な溶接技術がなかったため、リベットで接合されています。車内は木目調で、間接照明により地下でも明るかったといわれます。また、ドアはボタンで開閉しました。
 
 実は、銀座線には架線とパンタグラフがありません。トンネルを掘削するコストを抑えるため、架線方式を採用しなかったのです。では、電気はどこから引っ張るかというと、2本のレールの横に電気専用のレールを設置し、そこに「集電靴」を接触させたのです。これを「第三軌条方式」といいます。そして、驚くことに、日本初の自動列車停止装置(ATS)まで備えられていたのです。 

日本初の地下鉄「1000系」(地下鉄博物館)
日本初の地下鉄「1000系」(地下鉄博物館)


 地下鉄は、開業当初こそ人気でしたが、半年もすると客は激減します。距離が短いこともありますが、地上には路面電車もバスも走っており、わざわざ地下に降りる手間が敬遠されたのです。
 そこで、早川は副業を思い立ちます。1930年には、地下2階、地上9階の「地下鉄ストア」を上野駅に開店し、食料品や日用雑貨を売りました。その後、新橋、神田にも地下鉄ストアができ、これが、日本の地下街の起源とされています。

浅草駅(地下鉄ビル)
浅草駅(地下鉄ビル)


 1934年6月21日には浅草〜新橋間が開通し、上野〜新橋8kmの営業となりました。
 1932年に開業した「三越前」は、駅の建設工事費のほとんどを三越が負担しました。このほか、上野広小路の松坂屋、日本橋の高島屋、銀座の松屋なども工事費を一部負担しています。早川は、3回まで途中下車できる「デパート巡り乗車券」を販売。その後、定期券の購入者に夕刊を配るなど、さまざまなサービスを始めるのです。

 早川は地下鉄網のさらなる拡大を目指しますが、ここで東京高速鉄道の五島慶太と対立することになります。五島は現在の東急電鉄を作った人物です が、強引な買収による「乗っ取り王」として知られていました。

 東京高速鉄道は、1939年に渋谷〜新橋間を開通させ、路線の一本化を画策します。このため経営権争いが起こり、以後、熾烈な買収合戦が始まります。その争いの象徴が、新橋駅に眠る「幻のホーム」です。東京地下鉄道が、新橋駅での接続を拒否したため、東京高速鉄道も独自に新橋駅を作る羽目になったのです。

東京高速鉄道の車両(地下鉄博物館)
東京高速鉄道の車両(地下鉄博物館)


 両者は「お互いに株式を買収しない」との紳士協定を結びますが、五島側は約束を破棄。大株主である前山久吉、望月軍四郎が次々に株を譲渡し、ついに筆頭株主で早川と同級生だった穴水熊雄も株を手放します。この背景には、当時の近衛文麿政権が、軍部中心の経済統制を進めていたことが影響しています。

 こうして東京地下鉄道の経営権は奪われ、早川は社長を辞任することになりました。世論は早川に同情し、五島は「強盗慶太」と呼ばれるようになりました。失意の早川は、郷里・山梨で、若者育成を目指した「青年道場」の建設を計画しますが、1942年、61歳の生涯を閉じています。

東京地下鉄道と東京高速鉄道の開通ポスター
東京地下鉄道と東京高速鉄道の開通ポスター


 なお、2つある新橋駅には早川の先見性が垣間見えます。東京高速鉄道はコストダウンのためホームを3両分しか造らなかったのですが、東京地下鉄道では将来の旅客増を見越して6両分造ってあったのです。これが戦後に役立ったのは言うまでもありません。

 1939年、浅草〜渋谷の直通運転が始まりますが、1941年、両社は合併し、帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)が誕生します。戦後の地下鉄は、営団と東京都によって支えられていきます。

 一方、大阪では1925年(大正14年)、大阪市高速交通機関協議会が開かれ、路線計画が決まりました。1933年5月20日、梅田〜心斎橋間3.1キロが開通。1935年に難波、1938年に天王寺まで延びました(御堂筋線)。1942年には大国町〜花園町(四つ橋線)1.3kmも完成しています。

大阪の地下鉄計画図
大阪の地下鉄計画図

大阪の地下鉄工事
大阪の地下鉄工事(高麗橋4丁目付近)


幻の東京地下鉄計画

更新:2020年12月30日


<おまけ>

 戦前の地下鉄は東京と大阪だけというのが定説ですが、地下線という意味では神戸にも京都にもありました。神戸は1931年に完成した阪神の春日野道駅付近がそれにあたります。京都では、1931年に開通した京阪電車の京都西院〜四條大宮間(現在は阪急京都線)も地下線でした。もしかしたら、ほかの都市にもあったかもしれません。

京阪電車の地下部分
京阪電車の地下部分(『西日本現代風景』大阪毎日新聞社、1931年より)
© 探検コム メール