大正14年、幻の東京地下鉄計画

東京市電気局
地下鉄を立案した東京市電気局


 福澤諭吉の婿養子・福澤桃介は、実業家として著名で、日清紡績、東邦ガス、大同特殊鋼など多くの会社を設立しています。後年、「電力王」と呼ばれただけあって、特に水力発電に注力し、現在の関西電力や中部電力の元になる企業を作っています。

 この福澤桃介らが設立した「東京地下鉄道株式会社」(資本金1500万円)が、1906年(明治39年)12月6日、日本最初の地下鉄計画書を東京市に提出します。ほかの賛同者は、慶応出身の実業家・藤山雷太、投資家の平沼延次郎、鉄道技術者の渡邊嘉一らです。

 ルートは以下の2つです。

(1)高輪南町〜田町〜本芝4丁目〜門前町道路(増上寺前の大通り)〜銀座通り〜日本橋通り〜万世橋〜上野〜浅草雷門
(距離8マイル20チェーン。1マイル=80チェーンなので計算しにくいですが、約13kmにあたります)
(2)銀座尾張町(銀座4丁目交差点)〜桜田門〜麹町通り〜新宿
(4マイル3チェーン=6.5km)


 軌道は4フィート8インチ(1.4m)、車両はボギー式80人乗り、全線複線の予定でした。
 ボギー式というのは、車体が長くなっても曲線で曲がれるよう、車輪が車体と独立して回転できる機構のことです。

 しかし、当時は地下鉄の意味合いが誰にもわからず、この計画は不認可となりました。
 その後、「日本高架電気鉄道」「高架単軌鉄道」などが地下鉄計画を提出しますが、いずれも不許可となっています。

 1919年(大正8年)11月、後に「地下鉄の父」と呼ばれる早川徳次(はやかわのりつぐ)が創業した「東京地下鉄道株式会社」(資本金1000万円。上記のものとは別)が、品川〜浅草間9マイル40チェーンの免許取得に成功。1920年3月には「東京鉄道」「武蔵電気鉄道」の2社も地下鉄の敷設免許を手に入れました。

早川徳次の地下鉄路線図
早川徳次の地下鉄路線図(『東京市の交通機関に就て』1920より)


●第1期:品川〜浅草、品川〜南千住。品川で京浜電車と接続、南千住で常磐線・東北線と接続
●第2期:須田町〜新宿。浅草で京成電車・東武鉄道と接続、新宿で中央線・山手線・京王電車と接続
●第3期:循環線


 こうしたなか、東京市電気局でも地下鉄建設計画が浮上し、総延長80数キロに及ぶルートが策定されます。そして手始めに、虎ノ門〜一ツ橋4kmを工費702万円あまりで建設することが決まります。1923年3月、この計画案が市議会に提出されますが、9月1日に関東大震災が起き、計画は自然消滅してしまいます。
「東京鉄道」「武蔵電気鉄道」の2社も建設工事に入れず、1924年8月に免許取り消しとなりました。

「東京地下鉄道」を創業した早川徳次は、南満州鉄道(満鉄)から東武鉄道と電車畑を歩むなかで、1914年(大正3年)にロンドンの地下鉄を見て以来、地下交通網の研究を続けます。

 実は、地下鉄のルート設計には2種類の考え方があるんですね。
 ペーターゼン式とターナー式と呼ばれるもので、ペーターゼン式というのは碁盤目状の路線。一方、ターナー式というのは山型の放物線と直線を組み合わせたものです。現在の大阪の地下鉄はペーターゼン式、東京の地下鉄は、丸ノ内線や日比谷線がぐるぅっと回っていることから、ターナー式といえます。

 早川らは、東京の地下鉄を碁盤目状のペーターゼン式で敷設する計画を立てていました。この段階では許可も一部しか下りておらず、結局、東京市はこの計画案を流用して新路線を立案します(パクリなのか同意かあったのかは不明)。

 東京市は1924年12月に計画を議会に提出すると、満場一致で可決。翌年、このプランを鉄道省に提出しました。原案は、以下の6ルートです。
 
●1号線:築地〜人形町〜浅草橋〜吾妻橋〜浅草駅〜小村井
(8駅、距離5マイル50チェーン。小村井は墨田区)
●2号線:平塚〜戸越〜五反田〜伊皿子〜三田〜赤羽橋〜新橋〜尾張町〜日本橋〜和泉橋〜上野〜南千住〜北千住
(16駅、11マイル50チェーン。平塚は神奈川県ではなく品川区の地名)
●3号線:恵比寿〜広尾〜六本木〜虎ノ門〜日比谷〜東京駅〜須田町〜本郷3丁目〜巣鴨〜庚申塚〜下板橋
(15駅、11マイル20チェーン)
●4号線:渋谷〜青山6丁目(現在の表参道)ー赤坂見附〜桜田門〜日比谷〜築地〜月島
(9駅、11マイル50チェーン)
●5号線:角筈(西新宿)〜永住町(現在の四谷4丁目)〜市ヶ谷見附〜五番町ー東京駅〜永代橋〜洲崎〜砂町
(10駅、7マイル46チェーン)
●6号線:池袋〜女子大学前〜江戸川〜飯田橋〜九段下〜大手町〜日本橋〜人形町〜新大橋〜菊川町〜大島町
(12駅、8マイル26チェーン)

  合計70駅、総延長49マイル70チェーン(49.9マイル=80km)


東京市地下鉄
東京市地下鉄の原案

 
 3号線が放物線を描いていますが、東京駅から築地周辺が碁盤になっているのがわかります。
 問題は、5号線がどうしても皇居の真下を通ってしまう点です。迂回する予定だったのかもしれませんが、それは残された資料ではわかりません。

 この計画は鉄道省から差し戻されたため、東京市は修正のうえ、1億8700万円の予算を付け、再提出。その結果、1925年5月16日にすべての免許が下りました。
 修正案は以下の通り大幅に変わっています。

●1号線:五反田〜伊皿子〜札ノ辻〜赤羽橋〜新橋〜木挽町〜本石町〜昌平橋〜上野広小路〜田原町〜吾妻橋〜中ノ郷
●2号線:目黒〜大崎〜天現寺橋〜六本木〜飯倉〜桜田門〜鍛冶橋〜本石町〜浅草橋〜森田町(現在の蔵前)〜南千住
●3号線:渋谷〜赤坂見附〜虎ノ門〜日吉町(現在の銀座8丁目)〜数寄屋橋〜永楽町(現在の丸ノ内)〜昌平橋〜本郷3丁目〜本郷肴町(現在の白山2丁目)〜巣鴨
●4号線:角筈〜半蔵門〜桜田門〜数寄屋橋〜築地〜浜町〜横山町〜美倉橋〜上野広小路〜真砂町〜大塚仲町〜大塚
●5号線:池袋〜戸塚(現在の高田馬場)〜喜久井町〜飯田橋〜一ツ橋〜永楽町〜中橋〜広小路〜永代橋〜洲崎

  総延長 41.56マイル=67km


 これをマッピングして驚いたんですが、完全に皇居が迂回されており、ほとんどの路線が放物線を描いています。東京の中心には皇居があり、これが碁盤状の路線にならない最大の理由です。東京では事実上、ターナー式でしか路線を組めないのです。

東京市地下鉄の修正案
東京市地下鉄の修正案


 原案も修正案も、環状線がないので、移動には不便です。
 しかし、これは当たり前の話で、山手線が環状運転を開始したのは1925年(大正14年)11月。この時点では、池袋も新宿も渋谷も品川も東京市には含まれていません。東京市が、わざわざ別の自治体である郊外に、地下鉄を引く方がおかしいのです(拡大東京市が成立するのは1932年)。


 さて、実は両案とも『東京市電気局30年史』(1940年刊行)に掲載されていますが、原案の方はキチンとしたルートが不明でした。
 では、なんで記載できたかというと、本サイトが「原案」の公式説明書である「市営高速度鉄道計画概要説明書」(1925年)を新発見したからです。高速度鉄道とは、地下鉄のことです。

市営高速度鉄道計画概要説明書
新発見の「市営高速度鉄道計画概要説明書」


 説明書の冒頭には、次のように書かれています(意訳)。

《現在の路面電車は総延長192マイル半(310km)あり、震災後の1924年度で4億8000万人を輸送した。これが今年度は5億3000万人に及ぶと想定されており、すでに限界である。路面電車は372マイル(600km)まで拡張される計画だが、それでも1年に6億人輸送するのが限度であろう。
 人口の増加率を考えると、5年後の1930年には7億人、1935年には9億人、1945年には13億人の輸送が必要になると想定され、とうてい路面電車では運びきれない》

 建設は49.9マイル、1マイルあたりの平均建設費は400万円あまりとし、総額1億9980万円の大プロジェクトです。総額2億2200万円の公債を発行し、1人10銭の乗車賃で、23年間で完済する計画でした。

 参考までに、全6路線の建設費の概算を一部引用しておきます。

 測量・監督費 374万2500円
 用地費    1900万円(31町6反6畝20歩)
 土工費    29万9250円
 橋梁費    637万5600円
 隧道費    1億1845万6648円
 軌道費    655万5000円
 停車場費   759万5000円
 車両費    1496万円(374両)
 電力線路費  798万4000円
 変電所費   294万円……総額1億9980万円


東京地下鉄の歴史
東京地下鉄の概略


 説明書にはさまざまな試算が書かれています。

 たとえば、駅での停車時間を15秒だとすると、3両編成で列車の間隔は78秒必要だと予測されました。これが10両編成だと、列車の間隔は87秒必要になります。
 また、駅で60秒停車するなら、10両編成で132秒の間隔が必要です。列車間隔の試算はこれが最大で、つまり、2分ちょっとで、次から次へ電車がやってくる計画でした。

 1両に125人乗れると仮定すると、10両編成で117秒間隔で走行した場合、年間に27億人の輸送が実現する見込みでした。
 この段階では、まだ日本には地下鉄が1本も走っていません。これだけ見ても、ちょっと無理そうな計画だとわかります。

 結局、日本初の地下鉄は「東京地下鉄道」が1927年(昭和2年)12月30日、浅草〜上野間2.2kmを開通させます。1931年11月には上野〜神田駅が開通。

 一方、東京市の地下鉄は、政府が緊縮財政を続けたことで、いつまでも工事に取りかかれません。やむなく東京市は、1931年(昭和6年)12月、免許の一部(渋谷〜東京、新宿〜築地)を「東京高速鉄道株式会社」に譲渡しました。
 
「東京地下鉄道」は浅草から新橋まで建造し、「東京高速鉄道」は渋谷から新橋まで建造し、後に合併して「銀座線」になりました。

「東京高速鉄道」の新宿〜築地の免許は戦争でうやむやになり、結局、戦後の1951年(昭和26年)、ようやく丸ノ内線の一部として日の目を見るのでした。


東京市地下鉄
こちら1940年段階の路線図(1号線の終点が、五反田から品川・馬込に変更されています)


制作:2014年3月16日

<おまけ>

 新資料発見のニュースが共同通信から報道されました!
幻の東京地下鉄
幻の大正地下鉄計画(2014年3月3日付け「東京新聞」1面です!)
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