明治神宮をわが町へ
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幻の「明治神宮」
埼玉県飯能市の誘致計画
明治神宮地鎮祭
1920年(大正9年)11月1日に創建された明治神宮は、2020年に鎮座100年を迎えます。それに合わせ、境内では社殿などの修復工事がおこなわれています。2016年には、創建時からあった南玉垣鳥居(本殿そばの第3鳥居)が建て替えられました。当初、台湾産ヒノキを使っていましたが、今回は国産ヒノキが使われました。主材は木曽ヒノキですが、上部に渡されている笠木には埼玉県飯能市の木材も使われました。
建て替えられた南玉垣鳥居
飯能市は、戦争でほとんどの大木が切られ、戦後は人工林だけになってしまいました。しかし、もともとはヒノキはもちろん、マツ、スギ、モミなどが茂る豊かな森でした。そして、いまから100年前、この森に大きなプロジェクトが立ち上がります。
それが「明治神宮」建造計画です。
1883年(明治16年)年、近くにある天覧山に明治天皇が登ったことがあり、それを由緒に、プロジェクトが始まりました。
今回は、こうした日本全国で始まった幻の「明治神宮」誘致計画をまとめます。
明治神宮予定地(飯能市の入間川)
明治天皇が1912年(明治45年/大正元年)7月30日に崩御すると、その陵墓をどこに作るか、大きな議論が沸き起こりました。
たとえば、崩御当日、阪谷芳郎・東京市長は臨時市会を招集し、「宮内省の次官と面会し、御陵墓には『東京』の文字を冠する地をご選定いただきたいと申し上げた」と報告しています(『東京市会史』)。
国会議員の関直彦と高木益太郎は、「御陵墓を東京府下に造営できないか」と、宮中の信頼が厚かった山県有朋に相談したところ、「京都の桃山がお好みだったので、おそらく桃山に作るのではないか」と言われてしまいます。実際、8月1日には、宮内次官が「陵墓は桃山に内定している」と発表。 こうして、陵墓はあっさり桃山に確定しました。
伏見桃山陵(京都)
しかし、関直彦は、財界と組んで、明治神宮を東京に作ろうという運動を進め、国会でも審議されます。
関の計画は、具体的には以下のような内容です。
○明治神宮は内苑と外苑からなる。外苑には記念館などを設置
○内苑は国費で作るが、外苑は国民の寄付(神宮奉賛会)で作る
○内苑は代々木御料地、外苑は青山練兵場が最適地
すでに山手線の原宿駅は開業しており、もし代々木・青山に神宮ができれば、交通も便利でした。
山手線をまたぐ神宮橋(1920年)
なお、関直彦『七十七年の回顧』には、渋沢栄一による財界の寄付の様子が紹介されています。
「三菱さんは20万円の寄付、三井さんも同様でしょう。日本郵船の近藤廉平社長は10万円。ならば自分(渋沢栄一)は個人として5万円……」
結果的に、明治神宮はこの案どおりに完成します。国会と財界が動いているので当然といえば当然ですが、もちろん反対意見もありました。明治神宮の森を作った本多静六・東大教授は、次のように述べています。
「第一に考えるべきは『天然の地勢』ことに天然の山水樹木であり、縁や便利さなどは従的要件に過ぎない。青山の空気は清浄ではなく、荘厳な針葉樹の森にすることは不可能である。空気を汚す周囲の工場を閉鎖しなければならないし、仮に青山に作ったとしても、多数の労働者が神域を通り、俗化されてしまうだろう。
であるならば、電車で数時間の多摩川、荒川の上流や、箱根で適地を見つけるべきだ」(非売品「明治神宮建設の位置に就て」を意訳)
こうした反対意見を受け、「わが町に明治神宮を」という運動は、日本全国で広がっていきます。
山口輝臣『明治神宮の出現』には、全国で以下のような誘致運動があったと書かれています。
明治神宮予定地の朝日山(1914年頃)
【東京府】
東京/代々木御料地/青山練兵場/陸軍戸山学校敷地/陸軍士官学校・中央幼年学校地(市ヶ谷)/上野公園/駿河台/目白台/小石川植物園/芝三光坂附近/豊多摩郡和田堀内村大宮(杉並区)/霞ケ関/御獄山/多摩川上流/井の頭御料地/半蔵門から吹上御苑
【埼玉県】
大宮/朝日山/宝登山/城峯山
明治神宮予定地からの眺望(飯能市あさひ山展望公園)
【神奈川県】
箱根/横浜
【静岡県】
富士山
【茨城県】
筑波山/国見山
【千葉県】
国府台
国府台は、千葉県市川市にある、江戸川沿いの高台です。矢切の渡しの千葉県側となります(映画『男はつらいよ』に登場する河原の対岸)。かつて下総国の国衙が置かれていた土地で、6世紀の前方後円墳も発掘されています。
当初、市川町会議長・後藤弥五郎らによって誘致運動が始まり、次いで、東京側の小岩村村長・中川喜作らの連名で再提出されています。江戸川をはさんだ両岸の地域が、国府台を推したのです。
国府台からはスカイツリーも見える
一方、最も熱心だったのが、埼玉県飯能市の朝日山です。朝日山は飯能駅から徒歩圏内で、一帯15万坪が候補地となりました。当時は武蔵野鉄道(現在の西武鉄道)の開通前でしたが、本サイトが入手した請願書によれば、鉄道開通後は東京より片道1時間半(複線なら2時間で往復可能)と記されています。
神域の地図
神宮予定地
朝日山の請願書では、「山容水態全く別天地の感あり」「其の神境たるの価値を発揮せる」などと謳われています。
追補陳情書では、「本地域は武蔵国に属し、神宮を『帝都と同国』に祀ることになる」と、埼玉ではなく武蔵国として共通であると強弁もしています。
飯能の「明治神宮御奉祀候補地に関する請願書」
しかし、こうした請願も虚しく、結局は当初の予定どおり、明治神宮は代々木近辺にできるのです。
東京に決まった理由は「明治天皇にもっとも由緒がある」からで、さらに代々木に決まった理由は、「東京近郊における、もっとも広闊幽邃(こうかつゆうすい)の地」だからとされました。
現在、朝日山周辺は美杉台という地名に変わっています。請願書に書かれた参道そばの「こども図書館」には、いまも「幻の表参道」との記載があります。
明治神宮の表参道(1920年)
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明治神宮の森の誕生
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明治神宮外苑・国立競技場の誕生
制作:2020年6月22日
<おまけ>
明治神宮の建造が始まったとき、全国から集った木材は、原宿駅に集められました。
原宿駅は、1906年(明治39年)10月30日に開業しています。開業当時は現在地より250mほど北にありました。
明治神宮ができると、駅が南にずれ、1924年(大正13年)に新駅舎が完成しました。これが2020年まで現役だった、都内で一番古い木造駅舎です。ハーフティンバーと呼ばれる、柱や梁がむき出しになっているデザインで、屋根には風見鶏がついた尖塔が乗っています。
旧原宿駅