神宮外苑のスタジアム
驚異の画像ワールドへようこそ!
国立競技場の誕生
発見!幻のオリンピックスタジアム
東京五輪2016のメインスタジアム案(2006年)
東京都文京区に「開運坂」という名前の坂があります。
この坂を登り切ったところに、かつて柔道の総本山である「講道館」がありました。
講道館を作ったのは、東京高等師範学校(東京教育大=現在の筑波大学)の校長を長く務めた嘉納治五郎です。
開運坂
講道館は1882年(明治15年)に創設され、1909年(明治42年)にこの地に移転、嘉納は坂の名前を開運坂と命名します。
ちょうどそのころ、嘉納のもとに駐日フランス大使から面会の申し入れが来ました。
面会すると、大使はこう言いました。
「私はフランスの高等師範の出身者だが、友人にクーベルタンという男がいて、国際オリンピック協会の会長をしている。彼が言うには、世界の主要国はほとんどオリンピックに参加しているが、東洋からの参加国はまだない。そこで、ぜひ日本に参加してもらいたい。まずあなたがオリンピック委員会の委員になってくれないか」
この申し出を小村寿太郎(外相)と菊池大麓(元文部大臣)に相談すると、即座にOKが出ました。嘉納は1909年、日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となりました。
オリンピックに参加するには国内のスポーツ団体をまとめる必要があるため、嘉納は1911年、大日本体育協会(現・日本体育協会)を設立して会長となり、翌1912年、ストックホルムで開かれた第5回オリンピックに初参加します。
このときの参加者は、長距離と短距離の選手2人だけでした(『世界人の横顔』による)。
オリンピック日本初参加(国名はニッポン)
1912年、明治天皇が崩御します。墓所は京都・伏見に置かれますが、東京に天皇を偲ぶ明治神宮を建造することになりました。
場所は、御料地(皇室の所有地)と隣の代々木練兵場の一部をあわせて作られました。建設の指揮に当たったのは、明治神宮造営局の技師で、後に「公園行政の祖」と呼ばれる折下吉延ら。神宮は1920年(大正9年)に完成します。
明治神宮の建設
明治神宮内苑
と同時に、明治天皇の「御聖徳」を伝えるため、外苑の建設も決まっていました。これが神宮外苑。こちらは、青山練兵場を潰して造営されることが決まっていました。
神宮外苑は、「明治神宮奉賛会」が国民から集めた寄付金で造成することになりました。外苑の目的は
「樹林泉地を設け、公衆の優遊に任せ、各種の建築を起し、以て永く祭神の盛徳鴻業を偲び、明治聖代を記念せん」(『明治神宮造営誌』 )
とあり、要は庶民が「優遊」できる自然公園を作る計画でした。
青山練兵場
苑内には、幅員18mの周回道路と幅員33mの中央道路が敷かれ、真ん中に200坪の巨大な芝生庭園。
中心となる建造物は、明治天皇の生涯を絵画で伝える聖徳記念絵画館と、東洋一の競技場です。
競技場の建設は嘉納治五郎が提案し、阪谷芳郎・東京市長の指示で決定しました。鉄筋コンクリート造り、観客席1万5000に加え、4万人が入れる芝生席。総工費100数十万円という巨額プロジェクトでした。
前述の通り、これらの施設はすべて国民の寄付に頼る予定です。
明治神宮外苑は1917年10月に着工します。主任技師はやはり折下吉延。当初の工事予算は総額で400万円。しかし、1919年には500万に。1920年には、物価高騰のあおりを受け、設備計画を縮小しても1050万円かかる事態になりました。
この時点で寄付は700万円ありましたが、設備に500万、絵画に200万使用することになっており、どうしても350万円予算が足りません。
やむなく、物価が下落するまで工事は中止となりました(『明治神宮案内』による)。
聖徳記念絵画館
1923年9月1日、関東大震災が起きました。
大日本体育協会は「スポーツによる復興」を目指すべく、即座に次の3つを決議します。
①「全国陸上競技大会」を開催する
②翌年の第8回オリンピックに選手を派遣する
③東京に競技場を設置する
全国陸上競技大会は、震災のわずか2カ月後、11月10日、11日に駒場・東大農学部のトラックで開催され、オリンピックー次予選会として扱われました。そして、1924年の第8回オリンピック(パリ大会)への選手派遣も実現します。
明治神宮外苑競技場
震災復興予算の投入で、日本初の本格的陸上競技場である「明治神宮外苑競技場」が1924年に完成。同時に、明治神宮体育大会が始まります。
1926年、外苑の工事が終了。どさくさで芝生広場には野球場と相撲場も完成し、折下の理想的な公園計画は潰えました。
関東大震災の復興計画で重視されたのが、火除け地にもなる公園の整備です。52の小公園と隅田公園、錦糸公園、浜町公園の3大公園が造成されることになりました。
この公園建設に携わったのも折下で、3大公園にはいずれも大規模な運動施設(陸上競技場、野球場、テニスコート、プールなど)が併設されました。これが、震災後のスポーツ振興に大きく役立ちました。
戦前の神宮外苑マップ
嘉納治五郎は、1936年(昭和11年)のIOC総会で、
1940年の東京オリンピック
招致に成功します。後に戦争で返上しますが、このときメインスタジアムとされたのも、もちろん神宮でした。
戦後、神宮外苑は米軍に接収され、苑内に新たに球技場が造られます。競技場も「ナイルキニック・スタジアム」と名前が変わりました。
神宮外苑空撮(1930年頃)
トラックは一周400mの楕円形に200mの直線コースが付属
神宮球場
1958年、第3回アジア競技大会を開くため、取り壊した神宮競技場の跡地に国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)が完成します。そして、1964年の東京五輪で大幅に拡充されるのです。
取り壊された神宮競技場
国立競技場の完成模型
2006年、東京は2016年のオリンピック開催に向けて、招致活動を開始します。このとき、都は国に頼らず、独自で施設を完成させようと決め、沿岸の晴海に安藤忠雄デザインの10万人メインスタジアムの建造を目指します。開会式、閉会式、陸上、男子サッカーを開催予定で、この段階では全施設の整備費を一括して796億円でした。
安藤忠雄デザインの東京五輪2016メインスタジアム(2006年)
富士山が眺望できるラウンジも付設。お茶碗の底のような屋根が特徴的
招致活動が本格化した2009年には、メインスタジアムのデザインが変更になり、スタジアムだけで総工費931億円にふくれあがりました。このうち、都が898億円、大会組織委員会が33億円を負担する予定でした。
東京五輪2016メインスタジアム(2009年)。常設部分は2年半あまりで完成見込み
(東京都のオリンピック招致資料より)
東京は、2016年五輪の招致失敗に学び、2020年オリンピックでは国を巻き込むことに成功します。こうして、メインスタジアムは神宮となり、歴史ある競技場が壊され、ザハ・ハディドのデザインが採用されるのでした。
ザハ・ハディドの新国立競技場デザイン
(日本スポーツ振興センター)
制作:2015年7月26日
<おまけ>
日本にオリンピックを呼んだ嘉納治五郎は、柔術を理論化し、柔道を創始しました。講道館で柔道を学んだのが海軍の広瀬武夫で、この広瀬によって、日本海軍に柔道が普及しました。
広瀬は1904年、旅順閉塞作戦で戦死、日本初の「軍神」に。
なお、夏季オリンピックで柔道が採用されたのは、
1964年の東京オリンピック
からです。