戦艦ミズーリの歴史
真珠湾へ「最後の戦艦」を見に行く

戦艦ミズーリ
戦艦ミズーリ


 アメリカ海軍が第2次世界大戦中に新造した戦艦は、ノースカロライナ級2隻、サウスダコタ級4隻、アイオワ級4隻の計10隻あります。
 戦後、戦艦の役割は小さくなったため、これ以降、戦艦は作られていません。

 これらの戦艦のなかで、いちばん最後に完成し、いちばん最後まで現役だったのが「ミズーリ」です。米海軍では、艦船の記号として「USS」が使われるので、英語表記では「USS Missouri」、あるいは戦艦は「BB」と書かれるので、その63番目である「BB-63」と表記される船です。

 この「最後の戦艦」ミズーリは、硫黄島や沖縄戦に参加後、日本本土への艦砲射撃などを行っています。
 そして、1945年9月2日、日本はこの船上で降伏文書に調印しました。
 
 戦後は朝鮮戦争を戦い、いったん退役。その後、1980年代に再び就役し、湾岸戦争に赴いています。つまり、太平洋戦争、朝鮮戦争、湾岸戦争を戦った「歴戦の勇者」なのです。今回は、この戦艦ミズーリがたどった歴史を振り返ります。

 戦艦ミズーリは、1941年1月、ニューヨーク海軍工廠で起工します。
 この年の終わり、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まったことで、建造が急がれ、通常より圧倒的に早い3年半で工事が終わり、1944年6月に就役します。
 ミズーリは、パナマ運河を11月18日に通過し、太平洋に向かいました。

戦艦ミズーリ就役式
戦艦ミズーリ就役式(1944年6月11日、以下、歴史写真はすべて米海軍写真)


 ミズーリの全長は270mで、全幅は33m。
 艦船の場合、重要なのは長さより幅です。どうしてかというと、パナマ運河の閘門の幅は33.5mなので、これ以上の船は通過できないからです。太平洋と大西洋に面したアメリカは、33mより幅広の船だときわめて不便なのです(ちなみに戦艦大和は全長263m、全幅39m)。

パナマ運河を通過する戦艦ミズーリ
パナマ運河を通過する戦艦ミズーリ(1945年10月)


 日本は、真珠湾を攻撃する前から、パナマ運河の通行が禁止されていました。
 当然、真珠湾攻撃後、連合艦隊司令長官の山本五十六を中心に、運河の爆破計画を立てていました。必要なのは、アメリカまで航海できる巨大潜水艦です。

 しかし、山本五十六は、1943年4月18日、アメリカによって撃墜され、死亡します(海軍甲事件)。
 ついで古賀峯一司令長官も1944年3月31日に死亡してしまいます(海軍乙事件)。

 連合艦隊司令長官を立て続けに失った海軍は、艦上攻撃機「晴嵐」3機を搭載する「伊400」潜水艦の建造を急ぎますが、2隻建造した段階で沖縄戦が始まってしまい、パナマ運河攻撃は中止になりました。
 もし運河爆破が半年前に実行に移されていたら、戦艦ミズーリは運河を通れず、かなり時間稼ぎになったはずです。

戦艦ミズーリの一斉射撃
戦艦ミズーリの一斉射撃(1944年夏頃)


 太平洋に出たミズーリは、12月24日、真珠湾に到着。ここから日本に向かい、硫黄島の上陸作戦を支援するため、艦砲射撃を実施します。
 その後、部隊は日本本土に向かい、瀬戸内海や本州南西部への攻撃を行いました。

 沖縄戦は1945年3月に始まります。ミズーリは3月24日、沖縄南東部を砲撃。合流した空母部隊は4月7日に戦艦大和を撃沈しています。

 4月11日、ミズーリに対してゼロ戦の特攻機1機が右舷甲板に突入します。突入機は炎上し、甲板は火の海となりますが、まもなく沈火されました。ミズーリには、このときの跡が今でも残っています。
 突っ込んだパイロットは鹿屋基地を出撃した石野節雄・二等飛行兵曹でした。ミズーリでは、このとき石野二等飛行兵曹の海葬が行われています。

戦艦ミズーリへ突撃する特攻機
戦艦ミズーリへ突撃する特攻機(1945年4月11日)

戦艦ミズーリに残る特攻機の跡
船体に残る凹み


 その後、ミズーリは第3艦隊を率いて九州から北海道まで艦砲射撃を続けます。特に室蘭への攻撃では、日本製鋼や日本製鉄の工場が完全に破壊されました。
 日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日に終戦を迎えます。

戦艦ミズーリの船内新聞の号外
「日本降伏」を伝える船内新聞の号外


 9月2日、東京湾に停泊中のミズーリ甲板上で降伏文書の調印式が行われました。
 ちなみに、ミズーリが停泊した場所は、ペリー艦隊の旗艦ポータハン号が停泊していた位置とほぼ同じで、しかも甲板にはペリー艦隊が付けていた米国旗が飾られていました。

ミズーリ艦上で行われた降伏文書調印式
ミズーリ艦上で行われた降伏文書調印式


 1950年、北朝鮮軍が韓国に侵入し、朝鮮戦争が始まります。米軍はこの戦争に介入し、ミズーリは国連軍を支援するため出港します。
 1950年9月15日、マッカーサーは仁川上陸作戦を実施。以後、清津、元山といった北朝鮮の大都市に艦砲射撃を加えるのです。

 そして、朝鮮戦争が終結し、ミズーリは1955年2月26日に退役、モスボール(予備役)となりました。

 冷戦が始まると、米海軍はソビエト海軍の膨張に対抗するため、「600隻艦隊構想」を推進します。
 この流れの中で、アイオワ級の4隻の戦艦(アイオワ、ニュージャージー、ミズーリ、ウィスコンシン)が再就役することになりました。

 ミズーリは1986年5月にサンフランシスコで再就役します。
 このとき、32発のトマホーク・ミサイル、16発のハープーン・ミサイル、対艦ミサイル迎撃用の4基のファランクスCIWSなど、最新の兵器が増設されました。

ファランクスCIWS
対艦ミサイル迎撃用ファランクスCIWS

戦艦ミズーリのトマホークとハープーン・ミサイル
トマホーク(中央の四角)とハープーンミサイル(右)


 1990年8月2日、イラク軍はクウェート侵攻を行います。ミズーリは1991年1月にペルシャ湾に到着し、イラク領内に向けてトマホーク・ミサイルを発射。こうして湾岸戦争が始まります。ミズーリはトマホークを全部で28発イラクに打ち込みました。

イラクに打ち込まれたトマホーク
イラクに打ち込まれたトマホーク


 1991年、ミズーリはハワイで真珠湾攻撃50周年記念式典に参加し、翌年3月31日に退役。

 1999年以降は真珠湾に繋留され、いまでも博物館として活躍しています。
 ミズーリの背後には、真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナを弔う「アリゾナ・メモリアル」があります。真珠湾には、太平洋戦争の開始と終焉を象徴するモニュメントが2つ残されているわけです。このあたりがアメリカらしいですね。

戦艦ミズーリ記念館とアリゾナ・メモリアル
戦艦ミズーリ記念館とアリゾナ・メモリアル


制作:2014年7月21日


<おまけ>
「歴戦の勇者」ミズーリは、全部で17もの「略綬(りゃくじゅ=リボンバー)」を受けています。
 そのすべてが艦橋に描かれています。

戦艦ミズーリ

 せっかくなので、この意味を説明しておきます。

上段左から右に
・Combat Action Ribbon(優れた戦闘)
・Navy Unit Commendation(優れた支援)

上から2段目、左から右に
・Navy Meritorious Unit Commendation(称賛に値する武勲)
・Navy E Ribbon(効果的な戦闘)
・China Service Medal(中国戦線での活躍)

上から3段目、左から右に
・American Campaign Medal(第2次世界大戦の活躍)
・Asiatic-Pacific Campaign Medal(アジア・太平洋戦線での活躍)
・World War II Victory Medal(第2次世界大戦戦勝記念章)

上から4段目、左から右に
・Navy Occupation Service Medal(太平洋戦争と朝鮮戦争の活躍)
・National Defense Service Medal(国防従軍記章)
・Korean Service Medal(韓国での活躍)

上から5段目、左から右に
・Armed Forces Expeditionary Medal(海軍遠征メダル)
・Southwest Asia Service Medal(湾岸戦争での活躍)
・Navy Sea Service Deployment Ribbon(海上独特の困難な任務)

上から6段目、左から右に
・Korean Presidential Unit Citation(韓国殊勲部隊章)
・United Nations Korea Medal(朝鮮戦争における国連軍への支援)
・Kuwait Liberation Medal(クウェート解放メダル)

戦艦ミズーリのリボンバー
戦艦ミズーリのリボンバー

 船体に描かれた機雷の数は撃沈した船の数で、その隣のマークは通信システムなどの記号。
「E」はEffectivenessの略で、「有効性」に与えられる褒賞のことです。黒色は海戦、赤はエンジニアリング、緑は指揮統制、青は補給、黄は船舶の安全、紫は効率のよさに与えられ、最上位が白に黒フチです。DCはダメージ・コントロール賞です。
 ほかにも白の「A」は対潜水艦戦の優秀賞、緑の「H」は保健と健康の優秀賞などと決まっています。


<おまけ2>
 パナマ運河建設にたったひとりだけ日本人技師が関わっていたそうですよ。青山士(あおやまあきら)という人物で、1904年から1911年まで現地に滞在しました。帰国後は荒川放水路開削、鬼怒川改修、信濃川改修工事などを手がけました。
 日本軍は、パナマ運河爆破計画に際し、青山に図面提供を求めましたが、「私は運河を造る方法は知っていても、壊す方法は知らない」と言って断ったと伝えられています。
© 探検コム メール